南に向かう馬車の中でレイは行儀悪く靴を脱ぎ、椅子の上に寝そべって揺られながら、馬車の屋根を見つめていた。レイの足元には読もうと思って持ってきた「呪いの浄化薬についての考察」と「魔法構築理論」の本が落ちたままになっている。レイはこの長い移動時間を有効活用できる三半規管の持ち主が羨ましかった。
レーヴェンシュタイン公爵領は、オルディアス王国の南に位置する広大な領地だ。豊富な資源と山々に囲まれ、住むのなら王都フィルドンよりもレーヴェンシュタイン公爵領と言われている。ただし、それも中心地に限った話だが。
レイはレーヴェンシュタイン公爵領に入ってから、すでに2日間馬車に揺られていた。祖母ルミアの好意により、レイは住んでいた王都フィルドンからレーヴェンシュタイン公爵領の中心地までは、通常半年待ちの転移港を使ってすぐに来られたが、そこから祖母の店までの移動手段は馬車しかなく、馬車に揺られて3日目の今も、こうして時間をつぶすことができないレイには、非常に苦痛な時間であった。
「そろそろ着きますよ」
昼時を前にして、御者から声がかかる。流石にこの体勢はまずいかと、レイは起き上がった。やはり馬車酔いのせいで少し気分は良くない。靴を履いて、本をトランクケースにしまい込み、帽子を被った。窓から外を眺めると、中心地と打って変わって緑豊かな山々が見える。ルミアの魔法薬店がある村に来るのは、およそ3年ぶり。当時は魔法薬士免許を取得したばかりで、一回おいでよとルミアに誘われたのがきっかけだった。非魔法使いばかりが住むこの村のはずれにルミアの店はあった。祖母の大らかな人柄のためか慕われているようで、むしろ以前レイが滞在した1週間の間に舞い込んできたのは、魔法薬店なのにも関わらず、村の厄介ごと相談みたいなことばかりで「なんでも屋に改めたら?」と思わず口にしてしまう程だった。そんな店を1年か……。レイは自分に果たして勤まるのだろうかと思った。どうか1年何事もありませんように。
馬車が止まった。レイは手持ち用のトランクケースをもって馬車の扉を開くと、昇降階段のすぐ前にモートンが立っていた。3年ぶりに見るモートンは、少し皺が増えてはいたが相変わらず背筋が伸びており衰えを感じない。
「モートンさん、お久しぶりです」
「ご無沙汰しております、レイさん。どうぞモートンとお呼びください。……またご自身で扉を開けましたね?」
レイは、早速言われたな、と思いつつ苦笑いした。かねてより子爵家として自覚を持てと耳に胼胝ができるほど言われていたので、今回も仕方なく帽子を被ってきたのに、やらかしてしまった。以前はレイのことを「レイ様」と鳥肌が立つような言い方をされて、長い押し問答の末、「どうかあなただけは貴族然とした態度をなさってほしい、ルミア様は手に負えない」と懇願され、了承する代わりに呼び名を「レイさん」に変えてもらった経緯があった。それすらもモートンはだいぶ渋ったのだ。
トランクケースを渋々モートンに渡して、レイは開け放たれているドアからルミアの魔法薬店の中に入った。
「……変わらないな、ここは」
懐かしさに目を細めて、レイは店の中を見回した。ルミアが店を開く前は喫茶店だったらしく、そのまま使われているカウンターも、スツールも年季が入ったままだった。カウンターの向こうは流石に飲み物ではなくポーションなどの見本が置かれている。むしろ魔法使いとしては、店に張られている結界にうっとりとした。ルミアの力強いのに優しい結界は、構成を覗こうとしても複雑で、まさに天才の所業だった。
「レイさん、ついて早々大変申し訳ないのですが、ご依頼が来ております」
後ろからモートンに声をかけられて、レイは振り返った。モートンは依頼書と思われる紙を3部手渡してくる。レイはそれを受け取ったのに、モートンが手を出したまま何かを待っている。一瞬考え、慌てて帽子を取ってその手に乗せた。満面の笑みでモートンが下がっていくのをみて、レイはほっとして書類に目を落とした。
1つ目 ゴブリンの目撃情報あり。村周囲に集落等の有無調査依頼。可能であれば討伐へ移行。
2つ目 村の水道水浄化魔法装置の点検。
ここまで読んで、レイはやっぱりなんでも屋に改めたらどうかと考えた。確かに公爵領の主要部から遠く、兵の駐屯地からも離れていることを考えると、自警団もない村では魔法使いにこういったことをお願いしたくなる気持ちはわからなくもない。だったとしても、1つ目は明らかに冒険者ギルドに依頼をかけて良いものだと思うが、中間マージンを考えると依頼しづらいものなのだろうか。2つ目については公爵領が行うべき領分の話だとも思う。
レイはカウンターに書類を置いて、眼鏡を外した。目頭を揉むように押さえて、3つ目の依頼を見る。
3つ目 非魔法使いおよび魔法使い用避妊具について、性能改善を求める声が多数あり。魔法薬による潤滑剤または――
レイは依頼元を見ると、この村にない遠方の民間企業だった。最後の頁に付箋が貼ってあり、祖母の字で「男の子だし、私より適任でしょ。よろしく」と書かれていた。魔法薬に関わる全ての商品には魔法薬士免許が必要なため、魔法薬と聞いて思い浮かべる治療や魔力の増強剤のようなもの以外にも、魔法薬を使うこういった商品の性能強化にも携わるのが魔法薬士の仕事ではある。あるのだが――
「ババァ嫌がらせか?」
「汚い言葉遣いはお止めくださいませ」
レイが思わず呟いた言葉に、すぐさまモートンの制止が入った。
* * * * *
モートンが作ってくれた昼食を食べ、レイは魔法を行使することを考えて予め魔力回路の発熱抑制剤を服用した。どの依頼も期限はまだ先だったが、村の人のことを考えて水道水浄化魔法装置の点検から始めることにした。浄化槽と浄化魔法装置は魔法薬店と村を挟んで反対側にある。レイは散歩がてら歩いて移動した。長閑な昼下がりの通りは、春らしい陽気に満ちている。家々の軒先にあるプランターには花が咲き、店先で楽しそうな話し声が聞こえる。
レイの姿を見つけて、遠巻きに村人が話をしているのが聞こえるが、まぁ小さな村で見かけない男が歩いていたら、そりゃあ不信に思うのは当たり前かと思った。依頼人である村長の家の地図を頼りに歩いていくと、やはり他の家よりは多少大きい黒い屋根の家が見えた。その家の前で難しい顔をしながら話をしている50代後半ぐらいの男性にレイは声をかけた。
「こんにちは。ルミア魔法薬店の者です」
「はい……って若先生じゃないですか!」
レイは「若先生」と呼ばれて、前回の滞在時に会っている人だとわかった。ヤバい、思い出せない。頭をフル回転して思い出そうとする。そういえば当時祖母に紹介された村長の顔を似ていると思った。生え際が後退していたためにすぐに気付けなかった。
「ご無沙汰してます、村長さん」
「お元気でしたか? 代わりがくるって先生から聞いてたから、きっと若先生だろうとは思ってたんですよ」
先ほどまで難しそうな顔をしながら話していたとは思えない程にこやかに歓迎してくれ、握手を求められる。レイは合っていてよかったと冷や汗を掻きながらその手を握り返した。村長が話していた男性に目配せすると、相手はどこかへ去って行ってしまった。
「すみません、お話の最中だったのに」
「いえいえ。浄化装置の点検で来てくださったんでしょう?」
「そうですよ。鍵をお借りできれば行ってきます」
「いやいや、一緒に行きますよ」
村長は一度家に入ると、しばらくして大きなキーリングのついた鍵の束を持ってきた。レイは、これ失くしたり盗まれたりしたら大変なことになるんだろうな、セキュリティとしてどうなのかな、と心の中で思った。
村長と他愛もない話をしながらまた歩いていく。祖母が普段どんなことをしていたのか、過去にどんな依頼をこなしていたのかと話を聞きながら、レイは「流石に自分はそこまでのことはできないから、ご期待に添えないかもしれない」と何度も謝った。
浄化槽のある建物に着いて、浄化槽に付いている浄化魔法装置を見る。念のためマニュアルもどうぞと村長が手渡してくれたので、点検マニュアルに沿って魔法を組み立て、装置に魔力を流していこうとしたが、レイはそれを途中でやめた。祖母が勝手に構築されている魔法を変えていることに気付いたからだ。祖母の魔法に触れて構成を確認していくと、意味を成さない余分な文字があり、それらをつなげて読んでみた。
――毒対策、汚染対策、その他諸々、脆弱、構成を変えるな。
祖母らしい気遣いと身勝手さに、レイは思わず苦笑した。魔法の構成には、古代文字がいくつも使われており、それをさらに違う古代文字が強化・補完している。これは、現代魔法の形をとった古代魔法だ。
「村長、もしかして祖母からなんか言われてます?」
レイが聞くと、村長はふふふと笑いながら答えた。
「自分にもしもの事があったら、貴方に頼れ、と言われてますよ」
その言葉に、レイは思わず声をあげて笑った。それならば、期待に応えなければならない。浄化槽に破損がないかを点検し、魔法装置の充填用魔力石の状態を見た。魔力石が最後に交換されたのは4年前で、その魔力石もB級品。通常1年で交換となるようなものなのに、なんて魔力効率のいい魔法構成式なんだ。レイは村長に「ちょっとだけ元栓止めますよ」と声をかけて、元栓を閉めた。モートンから預かった魔力石を既存の魔力石と交換した。そして魔法も日々使われ続ければ綻ぶもの、きちんと修繕が必要だ。
「さて、と」
レイは気合を入れて装置に触れる。――あぁ、これは呪文が必要だな。構成式をもう一度読み取って頭の中に思い描きながら声に出す。
≪源より生まれし水。穢れを見極め、毒を忘れ、命に還り、宿りて、健やかなる祝福を与えよ≫
魔力回路が熱を持ち始める。あらかじめ発熱抑制剤を飲んだことを鑑みても負担は少なく、まるで生活を送るうえで必要な魔法を使うときの魔力量に、ちょっと毛が生えた程度の消費量だ。レイはこの構成式と自分の相性の良さを見た。
レイは村長に無事に点検が完了したことを報告した。今回は前回と魔法行使者が違うので、念のため魔力石を交換したこと、前の魔力石は残量が少な目だけど何かあった時には使えるから村長に預けることを伝えて、依頼は終わった。
まだ日は高いが、流石にゴブリン調査に行くほどの時間はないので、レイは魔法薬店にまっすぐ歩いて帰った。村長と話していた男が村人に話をしたのか、帰り道ではどちらかというと好奇の目で見られた。遠巻きに見ることには変わりないが、たまに聞こえる「若先生」という言葉に、悪い意味に受け取られていないことだけを願った。
帰り道の足取りは軽く、浄化魔法装置の構成式を頭の中で反芻しながら帰ったらあっというまだった。通りを抜けて店の前まで行くと、モートンが若い白金髪の男性と話しているのが見えた。すらりと伸びる長身と佇まいから滲み出る高貴さに、レイはその男が貴族だということが分かった。モートンがこちらに気付いて視線をくれる。なるほど客か、待たせてしまったか、とレイは小走りに近付いた。
「いかがなさいましたか」
レイが声をかけると、白金髪の男が振り返った。眉目秀麗とはまさにこういうことかと思うような整った顔なのに、頬に刃物で切り付けられたような痛々しい傷痕が一本入っている。自分と歳はそこまで離れていなさそうなのに、やや細身だが、がっちりとした体形のその男は、愁いを帯びた透き通る藍色の目をレイに向けた。
「貴方が、ルミアの孫か」
祖母を呼び捨てにする人にレイは初めて出会った。そこまで祖母と親しい間柄なのだろうか。レイは頷いて答える。
「はい。レイ・ヴェルノットと申します」
「……クラウスと申します」
クラウスが握手を求めてきたので、レイはその手を握り返した。――突然、耳の奥に濁ったギィンという大きい音が響く。レイは顔を思わず顰めた。この耳の奥に響く音はいったいなんなのだろう。音が聞こえる人と聞こえない人がいる。大きさも音の質も違う。
「ルミアに診てもらっていたんだ。今日からは、貴方が診てくれるのでいいのか? えっと、若先生?」
「祖母をルミアと呼ぶのなら、どうぞレイとお呼びください。敬語も外していただいて構いません」
「なら……レイ、も」
ぎこちなく話すクラウスに、レイはにっこりと微笑んだ。とりあえず、祖母のカルテを確認しないといけない。モートンが店の扉を開けてくれたので、レイはクラウスを店の中に招き入れた。