クラウスのカルテは、何故だか他の患者のカルテ入れに見当たらなかった。クラウス曰く、祖母から調薬された薬を受け取っていたという。調薬をしたならば、それはカルテに記載して保管しなければならない規則となっているので、カルテは絶対にあるはずだ。
探し回っているレイに、見かねてモートンが声をかけてきた。
「レイさん、研究室かと思われます。クラウス様だけは、ルミア様も研究室で診察されておりました」
モートンの言葉に、レイは絶句した。祖母の研究室はセキュリティ上、今まで祖母と自分しか入ることを許されていなかった。祖母が張った結界は、人それぞれ違う魔力紋を感知し、入室を許可されている者以外を弾き出す仕組みになっている。ただの患者であるはずの人を祖母がわざわざ入室許可を出すわけがない。クラウスは祖母とどんな関係だったのだろうか。
レイは言われた通り、地下にある研究室に降りて行った。研究室には、扉はない。もともとは倉庫だった場所のドアを外し、祖母はスキャン用の真っ黒な結界を張っていた。禍々しいデザインの結界をくぐる際は、体の隅々を覗き込まれるような感覚がする。レイはこの感覚が昔から好きではなかったが、祖母の研究室が好きだったのでいつも我慢していた。いつも通りの結界をくぐってレイが研究室に入室すると、目の前にある祖母のデスクにカルテがあった。レイは手に取ってそのカルテに目を通す。
クラウス 魔力回路痛、胃痛 初診日:3か月前
原因欄は空白のまま、それ以降は対処療法による魔法薬の調薬歴の記載があった。どれも間違いなさそうなものばかりなのに、3か月たっても改善が見られないとは――。
念のため、研究室のセキュリティ構築を内側から確認すると、登録されている魔力紋が3つあった。祖母と、レイと、おそらくクラウスのものなのだろう。
レイは一度研究室を出て、クラウスを呼びに行った。祖母が本当に地下の研究室で診察していたのなら、レイもそれに倣おうと思った。クラウスはカウンターの椅子から腰を上げて、一緒に地下への階段を降りていく。勝手知ったるように研究室に入るクラウスを見て、レイは適当な椅子を持ってきて座ってもらった。
「魔力回路痛、胃痛ってカルテには書いてあったけど、現在も症状は変わらず? ほかに症状が出てきたりとかはない?」
クラウスは静かに首を振った。祖母の調薬が合わないのかは分からないが、一度いろいろ見直しが必要か。魔力回路痛があるなら、どこか損傷があるのかもしれないが、その場所まではカルテにも書かれていない。魔法医免許を持ってはいないので診断はできないし、サルベルト教授のように直接治療を施すことはできない。解析魔法を使えば、とりあえず魔力回路の炎症反応は見られるか。レイは両手をクラウスの前に出した。
「少し、魔力に触れても?」
「はい」
クラウスがレイの手に自身の手を重ねると、またレイの耳の奥であの音が鳴る。毎度毎度うるさいなぁと思いながら、レイは目を閉じてそっと魔力をクラウスに向けて流した。
突然感じるひどい悪臭に、レイは思わず魔力を流すのをやめた。驚いてクラウスの目を見る。クラウスは、レイが何故そんな顔をするのかわからないようで、まっすぐ目を見返してくる。レイはクラウスから手を離して、もう一度カルテを見た。カルテには諸症状しか書かれていない。このひどい悪臭は、つい先日嗅いだばかりのものに酷似している。
「……クラウス」
レイは額に手を当てた。名前を呼んだ後に、どう言葉を選んで話せばいいか分からなかった。医療魔法も会得している祖母程の魔術師が、クラウスが呪われていることに気付かないはずがない。であるのにも関わらず、まるでそれを秘匿されているかのようなカルテに、レイは祖母の意図が分からずに混乱した。
クラウスがレイの言葉を待っている。レイは意を決して口を開いた。
「……最後に呪いの浄化薬をつかったのはいつだ」
クラウスの目がわずかに見開かれる。言い当てられると思っていなかったのだろう。クラウスの表情が厳しいものに変わっていく。
「ルミアは、レイは医療魔法を使えないと言っていたが?」
「使えないよ」
「何故分かった」
明らかに警戒をしているクラウスに、レイは首を振りながら答える。
「納得してもらえるとは思えないけど、なんとなくとしか言いようがない。ただ、そういう体質だとしか」
「ふざけ――っ!」
クラウスが声をあげると同時に、苦悶の表情を浮かべ椅子から転げ落ちた。
「クラウス!」
「触るな……問題ない」
慌ててレイがクラウスに近寄るが、クラウスはそれを拒んで、ゆっくり大きく息を吐く。クラウスの額に滲む脂汗を見て、レイは祖母の調合台へ向かった。
薬棚から必要な薬を取り出し、手早く必要分を測って調合台に置く。薬棚のすぐ隣にあった洗ってあるマグカップも持ってきて、調合台の上に設置した。調合台の前に立って、レイは集中した。調合台に手をかざし、カルテで見た薬の調合割合で調薬魔法を行使する。調合台に装着されている魔力石が光を帯び、調合台に刻まれている魔法陣が起動する。調合台に置かれた薬剤が浮かび上がり、空中で攪拌されながらマグカップの上に集まったところで、レイの掌から放出された液体状の魔力が薬剤を溶かしながら混ざり始めた。レイの魔力回路が熱を帯び始めるが、ここでやめるわけにいかない。奥歯を噛み締めながら、レイは魔力を放出し続けた。高濃度に圧縮した魔力を、魔法陣が液体状に固定していく。必要量になったところで、レイは調薬し終わったものをマグカップに注ぎ、魔法の行使をやめた。魔法陣の光が消えていくのを確認して、レイはマグカップを持ち上げ、クラウスへ差し出した。
「魔力回路痛と、汚染魔力の後遺症に効く即効性の薬。今飲んで。配合は初診日に祖母がしたものと同じだから」
クラウスは指がためらうように宙をさまよう。レイが魔力回路の発熱で赤い顔をしながら「早く」と促すと、迷いながらもクラウスはマグカップを受け取って、そのまま飲み干した。クラウスの顔色が良くなるのを確認して、レイは「疲れた」と呟いて椅子にどかりと座った。クラウスが不思議そうに自身の手を見ているので、レイはくすりと笑った。
「体調はどう? まだ痛む?」
「いや……痛みは、ない」
クラウスがまだ不思議そうな顔をしている。二度目なのだから、そこまで不思議がらなくてもいいのに、とレイは思ったが、カルテに投薬記録を書いていく。
「汚染魔力による内臓機能損傷は、今のところ胃だけ? ちゃんと食べられてる?」
レイの問いに、クラウスは押し黙った。これは食べられてないな、とレイは立ち上がった。一度結界から出て、レイは階段の上に向かって声を上げた。
「モートン! お茶と何か軽めに食べられるものの用意をお願い! 消化に良さそうなもの!」
聞こえたかどうかは分からなかったが、レイはそのまま研究室に取って返し、またカルテに向かう。クラウスがじっとこちらを見ているので、レイは小首を傾げてクラウスの方を見ると、クラウスは手の中のマグカップに視線を移した。
「で、最後に浄化剤を使ったのはいつ?」
レイが聞くと、今度は素直にクラウスは答えた。
「一昨日だ」
「お、一昨日!?」
レイは思わずクラウスを見た。一昨日使用した割には、先ほど感じた悪臭はとてもひどいものだった。レイは訝し気にクラウスに視線を送る。
「もしかして、魔法使った?」
クラウスはまた押し黙る。レイはため息をついた。先ほど感じた魔力量と質を見るに、おそらくクラウスは魔術師なのだろう。魔術師であるなら、余計にその危険性はわかるだろうに。
「極力、使わないでください」
レイが呆れながらそう言うと、クラウスは軽く微笑んだ。美形が笑う破壊力はすさまじいが、レイはそんなことよりも少し心を開いてくれたことの方が喜ばしかった。
「敬語」
クラウスが笑顔で指摘してくる。レイは苦笑しながら訂正した。
「魔法は使うな、いいね?」
その様子を見て、クラウスは楽しそうに笑いながら渋々頷いた。
問診もカルテの記入も終わり、レイとクラウスは研究室を出てモートンのいる店の方へ階段を上がると、モートンは苦々しい顔をしながらレイを迎えた。
「あの指示の出し方は、ルミア様そっくりでしたよ」
「孫だからね」
込められた貴族らしくないとの厭味を、レイはしれっと突っぱねた。モートンは不服そうだったが、レイとクラウスをカウンター席に座ると、店の奥の方から野菜のポタージュと皮をむいた果実を持ってきてくれ、クラウスの前に置いた。
「レイ様も、召し上がられますか?」
厭味を突っぱねたことで、モートンはさらに厭味を重ねてきた。レイは苦笑し、「要らない。ありがとう」と返した。クラウスは少し困った顔をしてレイを見る。
「ここまでしてもらうわけには――」
「いいからいいから。食べないと、消化器官が衰える」
レイはそう言った後に、はっとして小声でクラウスに言った。
「毒見が必要だよな? 俺一口飲もうか?」
「大丈夫だ。信用している」
そう言って、クラウスはスプーンをもってポタージュに口を付けた。レイは悩んだ。家名は分からなくても、やはりクラウスは貴族だと思う。魔法を使うなと言った手前、毒の除去魔法もかけられない。
「俺、貴族の暮らしっていうのをちゃんと分かってなくて……。クラウスの家では、毒の除去魔法は自分でかける?」
クラウスは少し困った顔をしながら、レイを見る。
「……私は、貴族だと名乗っただろうか」
「所作からしてそうですよ、と言ってるものだけど?」
レイの言葉に、クラウスはわかりやすくため息をついて、またポタージュに口を付けた。レイはやっと魔力回路の発熱が落ち着いてきたので、立ち上がった。
「常用薬の方は今から作る……ただ、俺は祖母より作業時間がかかるし、大量には作れない。もしかしたら後日また来てもらう形になるかもしれないが、予定は?」
「問題ない。しばらく仕事は休ませてもらえることになった」
「そうか。何よりだ」
レイはそのまま研究室に戻って、処方用の軽量瓶を棚から取り出した。前回ルミアが出した処方薬は30日分。レイはできても1週間分が関の山だろう。それ以上やると、またオーバーヒートで倒れそうだ。
「さて、と」
準備をして、レイは調合台に手をかざした。
7日分の薬を調薬を終えた時には、すでに夕方になっていた。発熱抑制剤の効果も切れてきて、魔力回路が熱さで悲鳴を上げ始めていた。レイは、オーバーヒート手前の状態で椅子にしなだれるようにぐったりと座っていると、様子を見に来たクラウスに驚かれた。気まずい沈黙が下り、レイは笑顔を浮かべながら立ち上がろうとした。ふらふらとしながら調薬した薬を袋に詰めてクラウスに手渡す。
「時間がかかってすみませんでした」
「敬語」
間髪入れずにクラウスが言ってくるので、レイは声をあげて笑った。
「もしかして、気に入った? それ」
「……少し」
照れくさそうに笑うクラウスの顔はとても自然で、レイは魔法薬士としてできた結果を喜んだ。ただ、見送りまでは行ける気がしない。虚勢を張って立っているのがやっとだった。
「代金は」
「あ、計算していない。……いつも即日払いだった?」
「いや、いつもは振込で」
「えっと、じゃあ同じでいいよ。請求金額を送る先は――」
カルテを確認しようと一歩踏み出したところで、頭ふらついて重心がずれる。二の足が前に出ない。あ、これは倒れる。ふらつく頭で冷静にレイがそう思ったときに、視界の端でクラウスが動いてレイの上体を支えた。またあの音が耳の中に響く。ただ、今度の音は、診察の時に聞いた音よりも少し澄んだ音がした。
「あ、ごめん」
ふらつく頭に音の残響も響いて正直しんどかったが、レイが今度こそぐっと足に力を入れて立とうとした。しかし、クラウスの力でそのまますぐ近くの椅子に誘導され、座らされてしまう。肩を掴んでレイの顔を覗き込むクラウスの目は愁いを帯びており、レイはやらかしたなと思った。
「私は、医者ではない。薬士でもない。君の体に何が起こっているのかが分からない」
「あ、祖母は何も言っていかなかったヤツね。まぁ、プライバシーの侵害になるか……気にするな」
患者に説明するのも違うかとレイは濁したが、クラウスの眉間に深く皺が入った。肩に置いた手を離そうとしてくれない。これは話すまでこのままというやつか、とレイは苦笑しながらクラウスを見ていると、しびれを切らしたクラウスが口を開いた。
「君に倒れられたら、困る」
「あぁ、気を付けるよ」
「私の薬の調薬でそうなるなら、もうここには来られない」
痛いところを突かれる。祖母と懇意にしている人に、そう言われると気まずいことこの上ない。レイは降参と両手を上げた。
「俺の魔力回路は欠陥品でね。酷使するとオーバーヒートする。発熱抑制剤を飲めば7日分ぐらいの調薬には問題はないんだ。ちょっと、薬が切れかかっててこうなっているだけだ」
レイの言葉に、クラウスは顔を顰めた。ま、そうなるよなぁ、と思いつつ、レイは上げていた右手で部屋の隅の方に置かれている自身の鞄を指差した。
「悪いが、取ってくれるか?」
レイの示す方向を見て、クラウスはやっとレイの肩から手を離してくれた。クラウスがすばやく鞄を持ってきて、レイの膝に置いてくれた。レイは鞄から発熱抑制剤が入っているケースを取り出して、開錠魔法をかけて錠剤を口に放り込んだ。ぼりぼりと音を立てて飲み下すレイを見ながら、心配そうにしているクラウスにレイは微笑んだ。
「もう大丈夫」
そう言って立とうとすると、またクラウスの手がレイの肩に乗った。また耳に音が響く。一度手を離したらもう一回鳴るのはいったいどういうことなんだ。レイは苦笑してクラウスの顔を見上げる。
「わかった、わかった。座ってる。でもクラウス、時間は大丈夫なのか? どこに住んでいるか知らないから――」
「大丈夫だ」
間髪入れずにそう言われた上、座っていると言っているのに肩から手がどかない。全く信用がない。
「じゃあクラウスも座って、少し話をしよう。祖母とはどこで知り合ったんだ? ただの知り合いじゃないんだろ?」
レイが椅子を示すと、クラウスも渋々レイの肩から手を離し椅子を引き寄せて座った。クラウスは少し考えてから、口を開いた。
「昔、仕事で会って、良くしてもらったのが始まりで――」
クラウスがこぼす祖母の話を聞きながら、レイは今祖母は何をしているのかと思いを馳せた。