マルキオン教授がサルベルト教授に回収されて行った後、配膳された夕食を来客用のソファで食べながら魔法薬通信を読んでいると、病室にノック音が響いた。レイは魔法薬通信を机に置きながら、口元に何もついていないことを確認して「どうぞ」と声をかけた。
ドアから入ってきたのは、まさかの病院長だった。その後ろから知らない顔の黒いスーツ姿の男性がわらわらと入ってくる。レイは思わず腰を浮かせたが、病院長から座るよう手で指示されて、そのまま着席した。黒スーツの男性たちはソファの周りをぐるりと取り囲んだ。その魔力はすでに練り上げられており、いつでも魔法を即座に発動できるように待機している。万一、彼らが仕掛けてきた場合、レイは身を守る術を持っていなかった。古代魔法の詠唱をどれだけ短くしても、勝てる可能性を見いだせない。病院長よって防音・盗聴防止の結界が張られ、唯一、レイの向かい側のソファに座った黒いスーツの男性の一人が声をかけてくる。
「レイ・ヴェルノット君、であってるかい?」
周りに立っている強面の人たちより、柔和な表情とひょろりとした体格の男性の質問に、確かに幾分か話しやすいなと思いつつ、レイは黙って頷いた。
「魔法捜査一課のウォンと申します。いきなりこんな感じで来られたらちょっと怖いだろうけど、楽にして聞いてほしい」
ウォン氏は身分証明用の手帳を目の前で開く。手帳から浮き出ている魔法陣にはオルディアス王国の国旗と証明印が表示されている。初めて見たが、おそらく間違いないだろう。
「ちょっとね、困ったことになったんだよね。君、魔力拘束用の手錠してるのに、魔法使ったんでしょ?」
その説明にレイは、そういえばそうだったな、と思った。確かに、魔法使いを拘束するための手錠をしているのにも関わらず、魔法を行使したという事実は、警察にとっては由々しき事態だろう。
「できればもう一回やってみてほしいんだけど、できる?」
「いや、できればやりたくないんですけど……とりあえずその時の状況だけ説明するので、勘弁してもらえませんか」
そう言って、レイは説明を始めた。魔力拘束具は問題なく機能していたが、ディートリヒに左太ももを深く刺されたことにより、血液とともに魔力が漏れ出していることに気付いたこと、その魔力を使って魔力を行使したこと。行使した魔法は古代魔法であったことまで全てを話した。ウォン氏がドアの近くに立っていた病院長に視線を向けると、病院長も口を開く。
「その傷口は自身の魔力で押し開いたようにもなっていたという外科の所見とも一致します」
「これは、早急に対策を打たないといけない。こんなことが公になれば、魔法犯罪者が同様の手口で逃げ出す可能性がある……レイ君、すまないけど、箝口令を敷きたい」
レイはため息をついて、差し出された宣誓書を受け取った。この宣誓書には期限が設けられており、3か月と記載されていた。3か月で手を打つという宣言に他ならない。レイは宣誓魔法を行使した。それを受け取って、ウォン氏が笑顔で握手を求めてきた。
「君の勇敢さと機転に敬意を表します。それは無謀さと表裏一体だ。流石はルミア様の家系ですね」
「ありがとうございます。全く褒められていないことだけはよくわかりました」
レイがウォン氏の握手に応じると、周りを取り囲んでいた男たちの魔力が穏やかさを取り戻した。こちらの緊張も緩む。ウォン氏は苦笑いしながら続けた。
「いや、正直ね。ルミア様の孫っていうだけでね、こっちとしてはそれなりの対応になるのよ……本当にごめんね。緊張させたよね」
「祖母のせいっていうのは分かるので、むしろこちらこそすみません。俺、この中の誰と戦っても勝てる気がしませんから、安心してください」
魔法警察にすら危険人物扱いされている祖母は、いったい何をやらかしたんだろうという気にはなったが、聞くのも怖くてレイは聞けなかった。どうせろくなことではないのだろう。
ウォン氏が立ち上がったので、レイも見送りに立ったが、ふと気になってウォン氏に訊ねた。
「もしかして、俺が今日入院になったのって、これのためですか?」
「君の検査結果を確認して、強制的に召喚するかどうかを見極める時間が欲しかったから、こちらから要請した。任意で引っ張ってこれる人物かもわからなかったし。あ、でも検査結果の上で入院っていう話だったら、こちらの預かり知るところではないよ」
「院長、どうなんです?」
今度は病院長に聞くと、病院長はカルテに目を落とし、にっこりと笑った。
「明日の朝、釈放です。お代はレーヴェンシュタイン公爵家へ請求となりますので、そのまま帰っていただいて大丈夫です。ご不便をおかけしました」
病院長の言い方に苦笑しつつ、レイは安心して眠れそうだ、と思った。
退院した後も、事情聴取だとか被害届を出してほしいだとか、いろいろな手続きに追われ、魔法薬店に帰りたくてもなかなか帰れなかった。事件から2週間が経ち、レーヴェンシュタイン公爵家の初公判がおよそ1か月後ということが決まった頃、やっとレイは諸々の手続きから解放された。
ルミアに通信をかけても出なかったため、メッセージで事の顛末を簡単に報告だけしたが、それすらも返信はないまま、レイは一度魔法薬店に戻った。モートンが目尻を濡らしながら出迎えてくれたので、レイはモートンの肘と肩に手を置いて慰めた。魔法薬店に入ると、カウンター席にクラウスが座っている。久しぶりに見たクラウスは優しい微笑みを湛えて出迎えてくれた。前回の通信や告白を思い出すと、レイはどんな顔をすればいいのか少しわからなくなった。
「――作り置きしておいた薬があったはずだから、調薬分が足りなかったということはないと思うが……体調は?」
いつもの通りに手を出すと、クラウスはにこりと笑ってその手に触れてきた。
キィィィン……
水晶が触れ合うような澄んだ音色が体の奥に大きく響いて、今までにないぐらいの余韻を残す。一瞬、膝の力が抜けた。呆気に取られて、解析魔法を使うことも忘れてクラウスの顔を見てしまう。クラウスは何も言わずに、レイの瞳を覗いている。
「いつ……浄化剤を使った?」
レーヴェンシュタイン公爵家の騒動からそんなに時間も経っていない。まだクラウスのもとには正常な浄化剤は届いていないだろう。マルキオン教授が送ってくれた浄化剤は全部で3つ。1つは届いてすぐに使っている。2週間前に通話したときに薬を使ったと言っていたので、その時に浄化剤を使っていると仮定しても、残りは1つだ。この2週間で一度も使わずにいられたのだろうか。
クラウスがそっとカウンターの席から降りると、彼の体で隠れて見えなかったものが見えた。なみなみと入った浄化剤が2つ、カウンターに載っている。もう一度クラウスを見ると、クラウスはそっと頷いた。
「2週間前から、君が帰ってこないから胃の調子が悪くてね。調薬された薬だけは飲んでいたよ」
「浄化剤は、使わなかったのか?」
クラウスが、繋いでいる手をそっと引いて、優しくレイを抱き寄せた。耳元でクラウスが呟く。
「君のおかげだ。……すごく、気分がいいんだ。こんなに心が晴れていたことが、今まであっただろうかと思うくらい」
その言葉に、レイは嬉しい反面、複雑な気持ちになった。もう、自分は必要とはされないのかという事実と、そう感じている自分自身に戸惑いを覚えた。
「……おめでとう、クラウス」
そう言うのが精いっぱいで、それ以上の言葉が、どうしても出てこなかった。
流されるまましばらくクラウスの腕の中に納まっていたが、流石に居たたまれなくなって、クラウスから離れようとそっと肩を押した。クラウスも別段拒否することなくレイの背中に回した手を放した。――微妙な空気が流れた、その時だった。
ズンと重い衝撃が店に走る。地震というには一度だけで、まるで近くの家屋が倒壊したかのような錯覚を覚えた。何事かと皆が窓に近寄って外を伺うが、窓から見える景色に何も変化は見られなかった。しかし、姿が見えないのに近付いてくる話し声が聞こえる。その声は懐かしい豪快な響きを持っており、レイは思わず魔法薬店の入り口を見た。カラン! とドアベルが大きな音を立てた。扉が開かれるのに、誰の姿も見えない。
「ただいま皆! 久しぶりだね」
元気な声だけが店の中に響く。レイは音だけを頼りに視線を向けた。
「ばあちゃん、姿が消えたままだよ」
「おっと、こりゃ失敬」
声の主が魔法を解くと、何もない空間からルミアの姿が溶け出した。片手を軽く上げて笑うルミアに、レイも笑顔で近寄る。しかし、先程誰かと話しながら来たように思えたが、相手の姿は見えない。
「ばあちゃん誰と話して――わっ!」
言い切らないうちに、ふっとレイの足が床から離れた。体が宙に浮き、誰かに抱えられたような感覚がする。まだ姿が見えない、ルミアの話し相手だったのだろう人物がレイを横抱きにして持ち上げたことがわかった。
「久しいな、レイ。見違えたぞ。およそ20年ぶりか」
腹の底に響きそうな低音がレイめがけて降ってくるが、相手の姿は見えない。ただ、その声をレイは忘れたことなどなかったが、驚き過ぎて声が出なかった。ルミアがやれやれとでも言うように笑いながら口を開く。
「お前もそろそろ姿を現してやったらどうだい。ヴェーゼルゴン」
「あぁ、そうか。ちょっと待ってくれ。人間の姿をしたら、この状態だと障りがあるんだろう? 服を創造する」
「着てなかったんかい!」
ルミアがまだ姿が見えないヴェーゼルゴンに言う。レイはその名前を聞いてやはりと思ったが、「人間の姿」という言葉に興味が移ってしまい、早くその姿が見たくて、口を閉ざした。ルミアが大きなため息を一つつく。
「紹介するよ。北の大国との国境に位置する、霊峰ヘイムディンズに棲むブルードラゴンの王、ヴェーゼルゴンだ」
「わかりやすく角だけは残しておけばいいか? この方が人間にとってわかりやすいんだろう?」
ルミアの言葉を皮切りに、ヴェーゼルゴンの姿が空気から溶け出した。天井よりはやや低いぐらいの高身長に、ガタイのいい体躯、しっかりとした顔立ちの白髪の男性姿だった。本人の宣言通り、額から太い2本の角がくねりながら伸びている。人の形を成しているが、虹彩だけはドラゴンの姿の時と同じであった。ヴェーゼルゴンが着ている服は、クラウスが着ているものにそっくりで、おそらく真似たのだろう。
「ヴェーゼルゴン様、ご無沙汰しております」
初めて見るヴェーゼルゴンの人間姿に、感無量で声が出なかったレイが、やっと声を絞り出した。ヴェーゼルゴンは優しく微笑んでレイを見降ろしている。
「人間の成長とは、やはり目を見張るな。たった20年でこんなに変わるのか。我が愛し仔の気配がなければわからなかった」
レイが「愛し仔」という言葉に一瞬眉を寄せて、クラウスの反応をちら見した。クラウスはただ黙って二人を見守っているだけだった。ヴェーゼルゴンがレイの視線に気付いて、そっとレイを床の上に降ろす。
レイはヴェーゼルゴンとルミアを見ながら口を開いた。
「えっと、二人はどうして――」
そう言うと、ルミアの顔が鬼の形相に変わってレイは閉口した。ルミアはつかつかとレイに詰め寄ると声を上げる。
「お前が! 『攫われたけど大事ないから大丈夫』とかよくわからん文を送ってきたんじゃないか! 心配するのが当たり前だろう!」
レイは膨大な圧の強い魔力にさらされて身を縮こませながらも、なんとか口を開く。
「いや、それは、そう。わかるけど。……任務中だったんじゃ?」
「任務? ……クラウス、お前、諜報部のことをレイに話したのか」
ルミアの意識がクラウスの方に向いたことで、魔力の圧力が減ってほっとするレイを他所に、クラウスは無言で頷いた。ルミアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに切り替えてモートンに指示を飛ばす。
「これは少し話す必要があるね。モートン、お茶を人数分入れてくれるかい? あぁ、ヴェーゼルゴンには果物でいいよ。ドラゴン舌で人間の茶は口に合わないらしい」
「香りは好きなんだがなぁ」
ヴェーゼルトンは面目ないとでも言いたげな目をしながら、顎に手を当てた。その人間らしい所作にレイは笑えたが、とうとうクラウスに自身の秘密を明かすことになるのか、と思うと、喉が少しだけ乾いて、手のひらにじんわりと汗がにじむ。内心の複雑さに、上手く表情を作ることができなかった。