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第十話 桜と橘

 数日後――


 中の君とそうの稽古をしていると、またもや騒がしい声が聞こえてきて私(左大臣の大君)は顔を上げた。

 お母様や叔父様達が怒鳴っているという感じではない。


 使用人達が騒いでいるような……?


「どうしたの?」

 私が訊ねると女房達が決まり悪そうに顔を見合わせる。


 その時、三の姫が駆け込んできた。


「お姉様! お花! 桜のお花がいっぱい!」

 三の姫の言葉で全てを察した。


 春宮が吉野の桜を贈ってきたのだ――もちろん中の君に。


 なるほど。

 だから女房達は答えづらかったのね。


 邸の中に次々と桜の枝が運び込まれてくる。


 つまり、これから吉野の桜の木が一本枯れるのだ。

 というのは置いといて――。


 私は春宮に入内することになっているし、お母様も叔父様や叔母様もそれを望んでいる。


 それなのに春宮が中の君の方に贈り物をしてきたから女房達は気まずそうにしていたのだ。


 私は気にしませんのに。

 入内したいわけではないし。


 でも、これでお母様も考えを変えてくれたかもしれない――。


 私は淡い期待を胸に北の対へ向かった。



「あら、大君。ちょうど良かったわ。春宮様が桜の枝を贈って下さったのよ、あなたに……」

「中の君にでしょう」

 私はお母様を遮った。


「何を言ってるんですか! 春宮様はあなたに……」

「お母様、いやいやめとった娘より望まれてる娘の方が春宮様も寵愛ちょうあいして下さるはずですわ」

 私はそう言うとお父様の方を向いた。


「ご寵愛が深ければその分、皇子も産まれやすくなるはずですわ。ね、お父様」

「その通りだ」

 お父様が我が意を得たりとばかりに頷くと、

「殿があの女を寵愛したようにですか?」

 お母様が冷たい声で言った。


 しまった……!


 聞くまでもなく『あの女』というのは中の君のお母様のことだろう。


「お母様、ここは左大臣家のことをお考えに……」

「何を言っているのですか!」

 お母様が怒り狂って怒鳴り始める。


 私とお父様は小さくなって聞いているしかなかった。



 部屋に戻ると大量の桜の枝が飾られていた。

 お母様が私宛だと言い張ったのと、どちらにしろどこの部屋にも入りきらなかったので私の部屋まで桜の枝で埋まっているらしい。


 時々女房の悲鳴が聞こえるのは桜の枝から虫が落ちてくるからだろう。


 これだけ大量の枝では虫も相当沢山ついているでしょうね。


 と、思っていると中の君がやってきた。


「お姉様のところにも桜が……」

「ごめんなさい、春宮様はあなたに贈って下さったのに……」

「いえ、そんなことは……」

 中の君が顔を引き攣らせながら答える。


「お姉様の悲鳴が聞こえないのはてっきりここには枝がないのかと」

 中の君は桜の枝から少しでも身体を離そうとするように後ずさりながら言った。


「これだけ沢山あると私の部屋だけ置かないというのは無理みたいね」

 私が桜を見ながらそう答えた時、

「ーーーーー!」

 中の君が叫び声を上げて私に抱き付いてきた。


 見ると中の君の髪に虫が付いている。

 私はそれを掴んで庭に放った。


「もう大丈夫よ」

 私がそう言うと、

「あ、ありがとうございます」

 中の君が身体を離した。

 顔を見ると半泣きになっている。


「てっきり中の君は『虫めづる姫』かと思ってたわ」

「私、虫は……。春宮様もご存じのはずなのに」

 中の君が恨めしそうに言った。


「あら? 春宮様から桜の花を頂いたことはないの?」

「一枝なら……虫が付いてないのを確かめたのを……」


 そういえば、お別れの時に渡されたのは一枝って書いてありましたわね。


「私、虫を愛でるなんて言われてるんですか?」

 中の君が悲しげに言った。


「そうじゃなくて、『虫めづる姫』っていう物語があるのよ。読んだことないなら持ってこさせましょうか?」

 私がそう言うとトメは指示されるまでもなく物語を取りにいった。


「三の姫と四の姫を呼んで……」

 私が女房に声を掛けようとすると、

「お姉様!」

 中の君が信じられないと言う表情で叫んだ。


「ここで読むんですか!? ま、周りにいっぱい……」


 最後まで言えずに口を噤んだと言うことはいっぱいあると言いたいのは桜ではないようだ。


「でも桜の枝を置いてない部屋なんてないと思うけど……」

 とは言ったものの、泣きべそをかいている中の君があまりにも可哀想なので中の君の部屋の桜は一枝だけ残して庭に運び出すように指示した。


「お姉様は何故平気なんですか?」

「だってしょっちゅう入ってくるでしょ」

「は、入ってくるんですか!? しょっちゅう!?」

 中の君が卒倒しそうな表情になる。


 そういえば、中の君が来てから虫の季節になったのは初めてだったわね。


 これから大丈夫なのかしら……。


 左大臣邸うちは庭が広くて草木が沢山植わっているから虫も蛇も蛙もそれ以外の生き物も山程いるのだ。

 それにしても――。


 春宮も中の君と再会できて嬉しかったにしても、もう少し考えて贈ればいいものを……。


 いくら思い出の花とはいえ……。


 いなおほせ鳥がどうの、狐がどうのと言っているくらいだから春宮は虫も好きなのかもしれないけれど……。


 部屋から桜を運び出したという報告を聞くと中の君は早々に部屋に戻ってしまった。

 私の部屋はまだ桜の枝で埋まっているのが嫌だったらしい。

『虫めづる姫』を読むのはまた今度といわれてしまった。


 中の君が鳥を好きなのは虫を食べてくれるからかしら?



「姫様は春宮様に入内されたいと思われないのですか?」

 中の君がいなくなるとトメに聞かれた。


『あの方は狐の鳴き真似をしながら庭を徘徊はいかいするのよ』

 と言いそうになるのを危ういところで飲み込む。


「親に決められた入内より文のやりとりをして好きになった殿方の方がいいと思わない?」


 願わくば夜中に奇怪な声を出しながら彷徨うろついたりしない人と……。


「しかも春宮様は中の君がお好きなのよ。ご寵愛頂けないのが分かってるのに入内なんてしたくないわ」


 妃は帝が崩御するか退位して出家するまで再婚できないのだ。


 決められた年数(普通は三年)夫が通ってこなければ自動的に離婚が成立して再婚できる貴族の方がいいに決まっている。


「まぁそうですね……私は内裏に住んでみたかったですけど」

 トメが残念そうに言った。



 数日後の夜――



 私(左大臣の大君の方)は簀子すのこを誰かが通り過ぎる足音で目を覚ました。

 確か、今日は方違かたたがえのために泊まりに来ている人がいたはずだ。


 部屋というのは真ん中が母屋もやで、その周囲にひさしと呼ばれる場所がある。

 庇までが屋根の下(つまり屋内)。


 その外側に簀子すのこえんとか簀子縁すのこえんともいいますのよ)がある。

 簀子は屋外である。


 私や妹達が寝るのは(それぞれ違う)母屋、トメが寝ているのは庇。


 庇は夜は蔀戸しとみどなどでふさがれるので妹達の母屋の様子を見たければ妻戸から簀子に出なければならない(貴族の姫は蔀戸のてはしませんのよ)。


 トメを起こして様子を見てきてもらおうかと思ったけれど足音はトメが寝ているのとは反対の方向から聞こえる。


 妻戸から覗くだけなら大丈夫よね……。


 と思って覗いてみたものの、夜だから暗いし妹達の庇に入るための妻戸はここからではよく見えない(母屋は庇の内側だから、まず庇が見えないと話にならないんですのよ)。


 うろついているのが簀子だけならいいけど、もし妹達の部屋に入ろうとしていたら?


 この前のように、のこのこ出ていって危ない目にうのは嫌だが妹達もいるのだ。

 妹達を危険な目にわせるわけにはいかない。


 いざとなったらトメに随身ずいじん(警護の者)を呼んできてもらわないと――。


 私がそっと身を乗り出すと簀子すのこを歩いている人影が見えた。

 その人はきょろきょろしているし帯刀たいとうしていない。


 つまり随身ずいじんではないのだ。

 ならば来客ということになる。


 今日は春宮は来ていないはずだ(狐の鳴き真似は聞こえませんでしたわ)。


 トメに言って随身を呼びに行かせましょう……。


 部屋に戻ろうときびすを返した瞬間、つまづいてしまった。

 ひさし母屋もやとそれぞれが少しずつ高くなっているから段差があるのだ。


「きゃ!」

 思わず転びそうになった時、誰かの腕に支えられた。


 そっと横目で支えてくれた人を見上げると顔を背けている。

 顔を見ないようにしてくれているらしい(女性は夫以外の殿方に顔を見せませんのよ)。


 その人はそっぽを向いたまま私の身体を起こすと妻戸の内側に入れてくれた。


 橘の香り……。


 そう思った時、足音が近付いてきた。

 橘の香の男性がそちらに向き直る。


「少納言殿、樋殿ひどのかわや)はあちらです」

 橘の男性がそう言うと、

「そ、そうか……」

 少納言は焦ったような声で返事をすると言ってしまった。


 橘の男性はこちらに背を向けているから顔は分からないが以前、二度も助けてくれた人だろう。


 香の匂いだけじゃなくて声も同じだし……。


「ありがとう。あの少納言、りないわね」

 私がそういうと、

「今回は中の君のところに来たんですよ」

 と答えた。


「呆れた。なんて節操のない」

「中の君は北の方の娘ではないと聞いています」

「だから?」


 実子か養女かを気にするのなんて継子ままこいじめ譚の継母ままははくらいだ。

 大事なのはどこの家の娘かであって血の繋がりではない。


「だから遊び相手にしたところで北の方の怒りを買うこともないと」

「はぁ!? 何なの、それは!」

 私は思わず声を荒げた。

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