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第十一話 毒蛇

「血のつながりがないのに怒るのですか?」

 橘の香の男性が言った。


「父親が同じなんだから血は繋がってるわよ! 仮に繋がってなくたって関係ないわ! 中の君は私の妹よ!」

「ひ、姫様……」

 起き出してきたトメが私をなだめるように声を掛けてきた。


「あなた、随身?」

 私が橘の男性の背に問う。


「はい」

「だったら私達を守るのが仕事でしょ。次に不届き者が来たら切り刻んで池に叩き込んでちょうだい! 鯉の餌にしてやればいいんだわ!」

 私がそう言うと男性が、ふっと笑った気配がした。


「私は調理人ではないのでなますは作れませんが――」

 橘の随身がおかしそうに答える(なますというのは切り刻んだお料理ですのよ)。


「――お守りするのが勤めなのはその通りです。次からは不心得者が近付かないよう、もっと気を付けます」

「そうして」

「春宮も追い返しますか?」

 随身が訊ねる。


「中の君のところに来たなら追い返さなくていいわ。中の君が入内できるかもしれないし」


 そうすれば私は狐の鳴き真似をしながら庭をうろつく人に入内しなくてすむ(かもしれない)わけだし……。


「…………」

 随身が黙り込む。


「どうかした?」

「いえ、では失礼します」

 随身は外から妻戸を閉めた。

 足音が離れていく。


 あの人も中の君の入内には反対なのかしら?


 でも左大臣家うちから誰が入内するかなんて随身には関係ないわよね?



 翌日――



 私(左大臣の大君の方)は中の君のそうのお稽古のために部屋に行こうとした。

 その時――。


「ーーーーー!」

 不意に悲鳴が聞こえた。


 邸の中を大勢の人が走る足音がする。

 叫び声の方に使用人達が向かっているのだろう。


「ツユ! ツユ!」

 中の君の悲痛な声で叫んでいる。


 それを聞いた私は思わず中の君の部屋に向かっていた。


「姫様!」

 トメの声が慌てたように追い掛けてくる。



「中の君!?」

 私は御簾みすを払いのけて中の君のひさしに入った。


「お、お姉様……」

 中の君が真っ青な顔でこちらを振り返る。


「大丈夫!? 何があったの!?」


 だが聞くまでもなかった。

 真っ二つになったくちなわが部屋に転がっていたからだ。


 蛇は縦縞たてじまでも無紋むもんでもなく、横に模様がある。

 そして、それなりに大きい。


 無毒の蛇の子供ではなく毒蛇マムシで間違いないだろう。


「ツユが……」

 中の君の言葉に見ると、随身がツユの手当てをしている。


「噛まれたの? 大丈夫なの?」

 私は随身に訊ねたが、手当の最中だからか返事はなかった。


 答える余裕もないほどの重症ということ?


 嫌な考えが脳裏をよぎる。


「こんなところにまで入り込んできたの?」

 私は外に目を向けた。


 庭は広いからきざはし(階段)を蛇が上って入り込んでくることはある。


 ただ階を登り切ったところは簀子すのこで、その内側にひさしがあり、ここは更にその内側の母屋もやだ。


 昼間は蔀戸しとみどなどは外してると言っても外を通る者に姿を見られないように御簾みす几帳きちょうが置いてある。


 どちらも押せば簡単に持ち上がるとはいえ蛇がこんな奥まで入ってくることは滅多にない。

 庇には女房達が控えているから普通はもっと早く気付くものだが――。


「姫様方、お姿を見られてしまいます。御簾の内側へ……」

 トメがそう言って私達を促した。


 御簾の内側に行こうとした時、ツユの側に箱が転がっているのに気付いた。

 ふたが開いている。


 まさか……!


 あの箱の中に蛇が入っていたって事ですの!?


 だとしたら中の君を狙った事になる。


 入っていたのは一匹?


 蓋を開けたツユがすぐに噛まれて倒れてしまったのなら他にも入っていたのに誰も気付いていないだけということもあり得る。


 不安になって辺りに視線を走らせると箱から少し離れた几帳の影に紙が落ちていた。

 きれいな色の紙だから懸想文けそうぶみだろう。


 私はその文を覗き込んだ。


〝橘を 守部もりべは枝を 届けまし 君への思いで 花は咲くらむ〟


 今度も差出人は書いてない。

『きつね』の歌と筆跡が同じだし、文は春宮からではないかと思うが――。


 春宮が蛇を入れた箱など送ってくるはずがない。

 男が女を捨てるのに殺す必要はないからだ。

 通うのをやめるだけで男女の仲は終わる。


「手当てを致しましたので恐らく大丈夫だとは思いますが……当分は安静にされていた方がよろしいでしょう」

 随身が言った。


 冗談ではないわ!

 不届き者が忍んでくるだけならまだしも――それも困るけど――命を狙われるなんて!


 考えないようにしていたけれど、やはりあの物語の姫君ははかなくなったのかもしれない。


 内裏ならここよりは安全なはずよ。

 こうなったら、なんとしてでも中の君を入内させてもらわなくては――。



 私は北の対に向かった。


「お父様、お母様、私が入内するとして、中の君も一緒にするわけには参りませんか?」

 私は北の対でお父様とお母様と向かい合っていた(お父様とは御簾越しに)。


「中の君を女官として連れていくという事か?」

 お父様が訊ねる。


「いえ、中の君も女御にょうごに」


 ある物語の主人公の母君は帝の妃だったが身分が低かったために他の妃達にいじめられたせいで儚くなってしまった。


 更衣こうい(女御の下の位の妃)ですら儚くなるほどいじめられてしまうのでは女官などもっとひどいことをされるだろう。


 身分の低い寵姫ちょうきというのは身分の高い妃にいじめられるし、低い方はやり返すわけにはいかないのだ。


 しかも身分の高い妃が低い妃をいじめるのは黙認される。

 帝は寵愛ちょうあいしていたのも関わらずいじめられている更衣を守らなかったのだ。


 だから私は入内なんかしたくないんですのよ!


 物語の中とは言え、自分の寵愛している妻を守らないような夫なんて冗談ではありませんわ!


 こっちも妻としてくす以上なにかあったら身体を張ってでも守ってくれる殿方でなければ。


 そりゃ、私が入内するとしたら女御だし(入内直後は父親の身分で決まる。その後は……やはり主に父親の影響が大きいが、皇子を産んだりすると昇格することがある。女御より下の妃は)、そもそも春宮は中の君を想っているのだから私が寵姫ちょうきになることはないからねたまれようがないでしょうけど。


 だとしても、いじめが蔓延はびこっているようなところで暮らすなんてごめんですわ!


 女官にしても出仕した女性の日記や随筆には、いじめられたときのことが書かれている。

 何人もの女房達がいじめに耐えきれずに実家に逃げ帰っているのだ。


 いくら内裏に一緒にいったところで、いじめられて儚くなってしまったりしては意味がない。

 身の安全を確保するために連れていきたいのだから。


 中の君がいじめられないようにするためには妃の中でも位の高い女御でなければならないのだ(女御より上は中宮ただ一人だからいじめられない。中宮以外には)。


「女官ならともかく妃、それも女御を二人というのは……」

 お父様が難しい表情を浮かべる。


 娘が二人も帝の妃になれればお父様としてはそれだけ次の帝の摂政になりやすくなるが、当然、他の公卿達はいい顔をしない。

 誰だって帝の外祖父になりたいのだ――まぁ殿方は。


「中の君には少納言から熱烈な文が贈られてきているのですよ」


 あの女好きの少納言ね……。


「女御を二人出すより、次に左大臣になれそうな婿を取った方がいいでしょう。あなたが産んだ皇子を支えてもらうためにも」

 お母様はそう言ってから、

「そうでしょう、殿。お支えしてくれる方がいた方がいいですわよね」

 とお父様に同意を求めた。


「あ、ああ、まぁ……」

 お父様が困ったように曖昧な返事をする。


主上おかみ(帝)もあなたの入内を楽しみにされているのですよ」

 お母様が言った。


 帝……?


「あなたの入内はもう決まったことです」

 お母様は他にも何やら言っていたが私は曖昧に頷きながら聞き流した。


 どうしたらお母様を説得できるのかしら……。



主上おかみが楽しみにされてるってどういう事かしら」

 私は部屋に戻るとトメに訊ねた。


 御簾越しにですら帝にお目に掛かったことなどない。

 帝が左大臣邸うち行幸ぎょうこうされたことはないし、私も内裏に参内したことはないからだ。


「叔父君を始めとした方々が姫様のいお話を主上の耳に入れられているとか」


 つまり噂を聞いて期待されているのね……。


 人に対する好悪こうおは聞いた話で左右されやすい。

 殿方がったこともない姫に懸想文けそうぶみを贈ってくるのも噂を聞いて頭の中で想いをつのらせるからだ。


 二人も女御を出すのは無理そうですわね……。


 私が女官になって中の君が女御になるというのもお母様は許して下さらないはず。

 でも左大臣家から一人は女御を出したい――というか内々とはいえ、それは決まっている。


 だったら私の入内がなくなればいいわけよね。

 といっても私が『やめます』と言ってどうにかなるわけではない。


 入内というのは公卿くぎょう(上級貴族)達が認めなければ出来ない(建前上は許可を出すのは帝なのですけれど)。

 だから春宮どころか帝に訴えたところでどうにもならない。


 となると――。

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