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第十二話 橘の香の人の名前

 私(左大臣の大君の方)に何かあって入内できなくなる以外の方法はなさそうだが、問題はその方法が分からない。


 出家するわけにはいかない。


 入内の許可というのは帝の許可――勅許ちょっきょである。

 帝の許可が下りたのに入内しないというのは帝の顔に泥をることになるし、もちろん春宮や入内を認めた公卿達の体面も潰れる。


 そんなことをしたら左大臣家から入内するという話自体がなくなる。

 それは中の君も春宮と結ばれることが出来なくなるということだ。


 かといって問題を起こすわけにもいかない。


 私の悪い評判が立ったらやはり私だけではなく中の君も入内出来なくなるし、妹達もまともな婿むこを取れなくなる。


 何より私の悪評のせいでお父様が失脚させられるかもしれない。

 お父様の政敵達は失脚させられるようなことはないかと目を光らせているからだ。


 お父様が失脚しても当然、妹達はまともな婿が取れない。

 妹達が困らないように私の入内を中の君に変えてもらうしかない。

 何かいい方法はないかしら――。


「トメ、物語が読みたいわ」

 私はトメに声を掛けた。


 ツユのことがあり今日はそうのお稽古どころではないから、どうしたら中の君を入内させられるか考えることにした。


 誰かは知らないが中の君の命を狙っている者がいるのだとしたら、ここに置いてはおけない。


 かといって誰かの北の方として迎えられるか出家するのでない限り、女性が家を出ることは難しい(というか出家も大貴族は女性でも自宅でするんですのよ)。


 となると後は入内しかない。

 幸い左大臣家うちからは姫を入内させられるのだし。


 物語に参考になるような話があるといいのだけれど……。


 とはいえ話を覚えていない物語はないはずだ。

 いくら金があるとはいえ物語そのものが多くないからである。


 書き手が書いたものを誰かが借りて読んで、手元に残しておきたいと思った人はそれを書き写す。

 それをまた誰かが借りて書き写す。


 物語というのはそうやって人から人へと伝わっていく。


 だが――。


 手書きで貴重な紙に書き写す、という工程をない限り複製が作られないから後世にまで残る物語は少ないのだ。

 作られないだけなら元の本が残っているのでは? と思うでしょうけど――。


 言いましたよね?


 だって。


 他の用途で紙が必要になった時に裏を使われてしまうのである。

 歌集に使われている紙の裏が割と重要そうな役所の書類だったりすることもあるくらいだ。


 役所の書類(の裏)を歌集に使ってしまうくらいだから物語など容赦なく裏を使われる。

 だから必要ないと判断されてしまった物語は後世に残らないのだ(つまらない物語は新しく書かれたばかりのものなのですわ)。


「では持って参ります」

 トメが出ていった。


 その時、庭の方から橘の香りがただよってくるのに気付いた。

 御簾越しに外を見ると随身が歩いている。


 あの位襖いおう(随身の衣裳)は……。


 ツユの手当てをしていた随身が着ていた位襖いおうに色やもんが似ているし、何度か助けてくれた人かも知れない(機織はたおりや染色も自宅でするので紋も家ごとに違うんですのよ)。


 お礼を言いたいけど……。


 貴族の女性は夫でもない男性と軽々しく口を利くわけにはいかない。

 私はちょっと考えてから歌を詠んだ。


「散る葉ち は咲くなりや 橘の ちかきまもりの 名こそなのらめ」


くちなわ斬ったさいたのがあなたならお名前を知りたいですわ)


 上手いとは言いがたいが急がないと行ってしまうのだから仕方ない。


 これなら話し掛けたわけではない。

 私が勝手に歌を詠んだだけだ。


 歌を聞いた人が別の歌を詠んだとしても関係ない。

 貴族というのは何もなくても歌を詠んでいるものだからである。歌が好きな人は、だけど。


 分かってくれるかしら……。


 随身というのは近衛府の官人だから貴族である。

 当然、歌は詠めるはずなのだ――特に、今まで歌をやりとりしていたのがあの随身なら。


 とはいえ名前によっては歌の中に詠み込むのが難しいこともある(「したごう」とか「公任きんとう」なんて私だって思い付きませんわ)。


 歌を詠むのが苦手なら無理かもしれないが、それなら普通に名乗ればいいだけだ。歌の意味理解できれば、だが。


 随身は足を止めて少し考えていたようだった。

 やがて――。


「橘の よりちかきは ならのはの はねのはやしは 深き緑と」


 あら……。


 自分で聞いておいて驚くのもどうかと思うが、まさか返事が来るとは思わなかった。

 あまり上手いとは言えないけれど必要なことは言っている。


 要は『橘よりちか(漢字は書いてもらわなければ分からない)』と言う名前という事だ。


 名前を歌に詠み込めたと言うことは『くちなわ裂いたさくなりのはあなた?』という質問も分かったはずだ。

 その上で名乗ったなら間違いないだろう。


 随身はかすかに会釈すると言ってしまった。


 う~ん、あの随身の名前は分かったけど……。


 それでどうなるというものでもない。


 けど……。

 橘……?


 二十歳前後に見えるし、それで六位なら蔭位おんいのはずだ。


 六位というのは一番下の官位(少初位下しょうしょいげ)から始めた場合、生涯を掛けてようやく辿り着けるかどうかと言う官位ですのよ。


 蔭位が受けられない下級貴族の息子は一番下から始めなければならない。

 逆に蔭位で六位や五位から始められると中上級貴族の仲間入りしやすい。


 確か近衛で、しかも舎人とねりより上の随身は摂関家など一部の公卿の子弟しかなれないと聞いていたけれど……。


 その一部の中に『橘』はいなかったはずだ。

 皇孫とか?

 しかし臣籍降下しんせきこうかして名字を名乗る場合、源でなければ領地の地名のことが多いはずだが――。


 橘って地名、どこかにあったかしら?


 臣籍降下したときに聞いた事のないような辺鄙へんぴなところにある領地をもらうことはないと思うのだが――。


 私が考え込んでいるうちにトメが物語を持って戻ってきた。

 トメが持ってきてくれた物語を片端から読んでみたものの私の代わりに中の君を入内させる方法は見付からなかった。



 数日後――



 私は中の君の部屋に向かった。


「ツユの具合はどう?」

 私が訪ねていくと中の君が勅撰和歌集を読んでいた。


「大分良くなったようですが念のために休ませています」

 中の君が答える。


「そう。ツユを休ませるために読んでるの?」

 私は勅撰和歌集に目を向けた。


 乳母子めのとご養君やしないぎみ(ツユなら中の君)にどこまででも着いていって世話を焼く。

 だから養君なかのきみが大人しくしていないと乳母子ツユも休めないのだ。


「それもありますけど……」

 中の君が困ったように俯く。


「歌を詠もうと思っているのですが……」

 中の君が口籠くちごもると、きれいな色の文を取り出した。


 蛇騒ぎの時の文だ。


たちばなを 守部もりべは枝を 届けまし 君への思いで 花は咲くらむ〟


「春宮様が昔、左近の桜、右近の橘というお話をして下さったんです」


 内裏に紫宸殿ししんでん南殿なでんともいいますわ)という建物があってその前に桜と橘の木が植わっているらしい。


 左側に桜、右側が橘だから左近の桜、右近の橘といい、それにちなんで左近衛府を左近の桜、右近衛府を右近の橘という事がある。


 だから、よりちかは名乗る時に『羽林はねのはやし』ということで初句の『橘』は近衛と言う意味ではなく名字だと示したのだ(羽林も近衛を指す言葉ですのよ)。


「それで、てっきり春宮様からだと思ったのですが……」

 中の君が沈んだ声で言った。


 確かに……。


 蛇の時に届いたのならあの大量の桜の枝と一緒に来たのではないだろう。


 もしくちなわの入った箱と一緒に届いた文の差出人が春宮だとしたら中の君を殺そうとしたと言う事になるが、それはちょっと考えづらい。


 女を捨てるのに殺す必要はない。

 特に春宮はそう簡単に外には出られないし女の方から内裏に押し掛けることも出来ないのだから別れるのは簡単なのだ。


 それはそれとして――。


 橘は分かるとして……桜?


 私は首を傾げた。

 もう一度文に目を落とす。


たちばなを 守部もりべは枝を 届けまし 君への思いで 花はくらむ〟


 む……。


『咲く』と『桜』を掛けているのだ。


 と言い、物名歌もののなかの好きな方ね……。


 春宮からの文だとしたらだけど……。


 物名歌というのは「書きつ寝ざらぬ」とか「咲くらむ」とか他の言葉に別の言葉を混ぜ込んでいる歌ですの。

 これは掛詞かけことばとはまた別ですのよ。


 勅撰和歌集には『物名もののな』という項目があるくらい好きな人は好きなんですの。


 春宮も物名歌がお好きなようですわね……。


「とりあえず返歌を贈ってみたら?」

「でも、もし春宮様からではなかったら……」

 中の君が躊躇ためらうように俯く。


 どう考えても返歌なのに春宮の方に歌を贈った覚えがなかったら他の男にも歌を贈っていると思われてしまう。


「この歌を知っていれば返歌だと分かるけど、知らなかったら気付かないような歌を詠めば?」

「そういう歌が詠めなくて……」


 なるほど……。


 確かに普通に返歌を詠むより難しいかも……。


「お姉様はお歌がお上手だとか」

 中の君がすがるような目を向けてくる。


「そんなでもないけど……」


 代詠だいえいして欲しいってことかしら……?


 そういえば……。


「これは何通目?」

「四通目だと思います」

「思う?」

「春宮様は今までに三通贈って下さったようなんです」


 あれ以外にも贈られてきているけれどお母様は中の君に渡してないのね……。


 何通目から親が代詠で返すものなのかは分からないが、四通目なら『すぐに返歌するなんて』などと思われたりはしないだろう。

 春宮はそもそもそういうやりとりをして誰かの婿になるものではないのだし。


〝橘の みをりて届く なかぞらに 君の心は ここになしやと〟


(空の箱が届いたのですが、これがあなたのお気持ちですか?=私を想う気持ちがない=私を想ってくれていないということですか?)

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