「
私(左大臣の大君の方)がトメに聞き返した。
「殿が四十を迎えられた御礼参りだそうです」
物詣というのはお寺にお参りに行くことだが泊まり掛けなのだ。
外出することのない貴族の女性が外に出る数少ない機会である。
物詣は娯楽みたいなものだが願掛けや願いが叶ったお礼に行くこともある。
お父様は願いが叶ったというより長生きできたお礼のようなものだ(もしかしたら、ついでに私の入内が早く決まるように新しいお願いをするかもしれない)。
家族(お父様とお母様と私と妹達)で行くのだが当然
当たり前だが、いきなり行くことは出来ない。
支度をしなければならないからだ(するのは侍女達だが)。
だから今すぐ出掛けるというわけではない。
それでも家中の者達が浮き立っているのが分かった。
「物詣?」
私(少納言の大姫の方)は聞き返した。
「伯母君が誘ってくれたそうです」
キヨが嬉しそうに言った。
今回は伯母様が連れていって下さるから行かれるのだ。
「お寺に泊まるの?」
「いつ行くの?」
二の姫と三の姫が嬉しそうにキヨに訊ねる。
私と妹達は楽しみで毎日、物語そっちのけで物詣の話をしていた。
そうだ……!
思い出した……。
私(少納言の大姫)は物詣に行く途中で牛車に跳ねられたのだ。
だから、あのとき外にいたのだ。
物詣に行くところだったから――。
物詣に来た私(左大臣の大君の方)は道を歩いていた。
牛車は石段を上がれないので途中からは徒歩である。
この辺はまだ平らな道だが。
不意に後ろから悲鳴と
かと思うと、誰かの腕が私の腰に回されて思うと抱え上げられた。
そのまま誰かが私ごと後ろに下がる。
同時に目の前を何かがものすごい勢いで駆け抜けていった。
一拍遅れて私の顔の前の布が風で揺れた(顔が見えないように広い笠を被って前に布を垂らしているんですのよ)。
危なかったですわ……。
今世でも暴走した何かに
何かが走り去ってしまうと私は下に降ろされた。
橘の香りがするから頼浮だろう。
「失礼いたしました。おケガはありませんか?」
後ろから頼浮の声がした。
「え、ええ。ありがとう。今のは一体……」
危うく死にかけたことと、殿方に抱き上げられたことで胸がどきどきしていた私は思わず頼浮に直接礼を言ってしまった。
「馬が暴走したようですね」
頼浮が答える。
「あれが馬……」
あっという間に去ってしまったからよく見えなかった。
牛車に
「きゃ!」
別の方向から声が聞こえて来る。
振り返ると女性が石にでも
「大丈夫ですか?」
私が声を掛ける。
トメが女性に駆けより手を貸して立たせようとした。
「痛っ……」
女性が声を上げる。
「足を痛められたようですね」
トメが言った。
「では
私がそう言うと侍女の一人が女性に手を貸して局に向かった。
「お話つまんなかった」
四の姫が口を尖らせる。
物詣というのは一応お参りである。
遊びに来ているわけではないから昼間はお坊さんの長い話を聞くのだ――滞在中、毎日 (うんざりですわ)。
私達はお坊さんの話を聞き終わり局にいた。
「姫様、昼間の女性がお礼を申し上げたいそうです。本来ならこちらに出向くところですが……」
トメが言った。
足を痛めてしまったのだから来られないのだ。
「行くわ」
私は答えた。
なにしろ家族(と使用人)と親戚以外の人に会える機会はほとんどないのだ。
私が女性(松姫と仰るそうですわ)の局に行くと、松姫は何度も礼を言った。
それから互いの話を始めた。
「今回は寝込んでいる母の代わりだったんです」
松姫が言った。
「まぁ! なんて親孝行な……」
私は感心した。
「母は従妹が事故で亡くなったのは自分が物詣に誘ったせいだと後悔していて……だから今回もどうしても来たいと言っていたので私が……」
松姫が俯く。
「事故ならお母様のせいではありませんわ。松姫様の従妹だって物詣に行かれて嬉しかったはずですわ」
だって、私(少納言の大姫)はとても嬉しかったもの……。
大好きな物語のことを忘れてしまうくらい楽しみにしていた。
途中で見るもの全てにわくわくしていた。
死ぬ直前までとても幸せだった。
悔いも恨みもこれっぽっちもありませんわ!
伯母様も松姫のお母様のように後悔されたのかしら……?
私は伯母様を恨んでなどいないし感謝していた。
それを伝えることが出来たらいいのに――。
「そうでしょうか」
松姫が自身なさそうに俯く。
「もちろんですわ。心残りがあるとしたら松姫様のお母様にお礼を言えなかったことですわ。従妹の方はきっと感謝されていたはずです」
「ありがとうございます」
松姫が言った。
「是非お母様にもそうお伝え下さいね」
「はい、母も少しは気が安まると思います」
松姫がそう言って頭を下げた。
翌日――
松姫は大したケガではないからお坊さんの話を聞きに本堂へ行くというので私は女房に言って付き添わせた。
松姫も侍女を連れてきていたが手が足りないかもしれないと思ったので二人ほど手伝いに行かせたのだ。
夕方、私は松姫の局に向かっていた。
何か光るものが目に入った気がして顔を上げると、木々の向こうに見える川面に夕陽が映っている。
「まぁ……」
なんてきれい……。
「あしひきの 沈むる山に 入り日なす 光の花は
そう詠んでから松姫の局がある建物に入った。
松姫も若い頃、物語が好きだとかで私の読んだことのない話のことを知っていた。
左大臣の大君なのに持ってない物語があるのかって?
書き写す人の少ない物語は後世に残らないのですわ。
面白い話でも読んだ人が少ないと無くなってしまいやすい。
ただでさえ少ない写本が火事や大雨、洪水などでダメになってしまうことは良くあるからだ。
何事もなかったとしても蔵の中に放置されていて傷んでしまったりすることもあるから中々残らないのだ。
松姫も紙が手に入らなかったとかで書き写せたものはほとんどないらしい。
「入り日なす 光の花は 天の川 水影草の 影に隠れぬ」
帰り道、どこからか頼浮の声が聞こえてきた。
行きも姿は見えなかったが近くにいたらしい。
邸に帰る日――
寺を出て大分歩き、あと少しで牛車というところまで来た時、道の脇の茂みが揺れたかと思うと何かが飛び出してきた。
思わずその場に凍り付く。
その時、私の目の前に深緑の
甲高い金属音が響く。
誰かが振り下ろした刀を随身――頼浮が太刀で受け止めたのだ。
「姫を牛車へ! 早く!」
頼浮が男の刀を払いながら声を上げた。
「姫様、こちらへ」
我に返ったトメが私を促す。
「左大臣と姫君達の警護を固めろ!」
頼浮が郎党達に声を掛けた。
他の随身や郎党達が私達を守るように固まる。
しばらくして敵を退けたらしい頼浮が郎党を呼んだ。
「他に怪しい者がいないか周囲を捜索しろ」
牛車に乗った私の耳に頼浮の声が聞こえた。
やがて安全を確認できたのか牛車が動き出した。
「あれが盗賊というものでしょうか?」
トメが怯えたように言った。
「恐ろしいですわ」
牛車に同乗している別の女房が言った。
盗賊というのは珍しくないのでほんの二、三日の旅でも命懸けなのだ。牛車が暴走したりしなくても。
だから気軽に旅に行かれないんですのよ。