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第三十二話 物語の続き ~平安時代の悪役令嬢~

〝橘の よりちかきは ならのはの はねのはやしは 深き緑と〟


 歌の下の句で「はねのはやしは 深き緑と」と言ったのは、初句の『橘の』は近衛と言う意味ではない(『右近衛府うこのえふ』を『右近の橘』ということがあるため)だと思っていた。


『ならのはの』は枕詞まくらことばなので意味はありませんのよ。


羽林はねのはやし』は近衛府の大将から少将までを指す言葉で官位は従三位から正五位下、深緑ふかきみどりは六位の色、つまり自分は六位だから羽林ではない。


 それでもえて羽林と言う言葉を使ったのは『橘』は『近衛』と言う意味ではなく名字だ、という意味だと解釈していたのだけれど――。


 考えすぎだったのかしら……。


 私は首を傾げた。


 もしかして思っていたより歌が得意ではないとか?


「それに六位って……太政大臣の跡継ぎなら蔭位おんいは従五位下のはずよ」


 六位なのは深緑の位襖を着ているのだから間違いないはずだ(官位によって着ていい色が決まっているんですのよ)。


 自分より下の位階の色を着るのは構わないから(上の官位の色は勅許ちょっきょがない限り禁止)、深緑が好きとかそういう理由で実際は五位だけど六位の位襖を着ていたとか?

 そんなことありますの?


「私が引き取られてしばらくしてから北の方が息子を産んだので」


 ああ……。


 それも良くある話だ。


 正妻に跡継ぎが産まれないからと他の妻が産んだ息子を後継者にしたら嫡男が産まれる。

 昔の帝ですらそれで揉めて一度は皇統が分かれてしまったくらいだ。


 一位の庶子なら蔭位は正六位上しょうろくいじょうである。


「だから橘を名乗っているのです」

「お母様が橘だったってこと?」


 お祖父様(お母様のお父様)の政敵になるほどの大貴族(元)に『橘』なんていたかしら?


 私は首を傾げた。


「いえ、母や妹が住んでいたのは橘の里として有名なところだったので」

「……あなた、太政大臣の跡継ぎじゃないのね?」

「はい」

「ホントに妻はいないのね?」

「いたら邸を出ています」


 それはそうだ。

 太政大臣の北の方だって早く出ていってほしいと思っているだろう。


 まぁそれなら……。


 太政大臣の嫡男だったりしたら妻がどこの誰か分からない(教えられない)というわけにはいかないから少なくとも北の方にはなれないのでしょうで我慢するしかないところだ。


 まぁそれでもいいけど……。


 狐の鳴き真似をしながら庭を徘徊する人の正妃より孔雀を雉子きぎすという人の妾の方がずっといいですわ!




 二年後――




「北の方様、お聞きになりましたか!? 中宮様が皇子をお産みになられたそうです!」

 ツユが嬉しそうな顔で報告してきた。


「まぁ!」

「お二人ともお元気だそうです」

 頼浮がツユの後から入ってきた。


「良かったわ」


 帝と中宮の仲の良さは評判だ。


 あの枯れた吉野の桜(やはり枯れたそうですわ)は縁結びのご利益があると見にいく人が大勢いるのだとか。


 ちなみに今上帝(以前の春宮ですわよ。あの後、即位されましたの)は二の姫こどもに手を出そうとしたのではなく、中の君に会いに来たのだそうですわ。


 中の君が左大臣の次女だということをご存じで、左大臣家には〝みや〟という姫がいると聞いて二の姫(今の三の姫)を中の君だと思っていたとか(部屋が暗かったので顔が見えなかったんですのよ)。


「ところで里帰りは? 大丈夫なの?」

 私は頼浮に訊ねた。


 内裏では出産が出来ないので妃は身籠もると実家に帰って産むのだ。


 中の君は大君ということになっているから当然、里帰りは左大臣邸と言う事になる。

 だが中の君が左大臣家に戻ったらお母様に知られてしまう。叔母様にも。


「中宮様は左大臣家の別邸にいらっしゃったようです。左大臣家からは金神がいる方角の」


 金神は一年間同じ方角に滞在するけど……。


「方違えすれば行かれるでしょう」

「襲撃の指示をしたのは叔父君一人という事になっていますが、中の君を殺そうとした理由を考えたら北の方が関わっていなかったと証明するのは難しいですから」

 頼浮が答える。


 妻(や、その実家)の手伝いで出世してしまったら離縁は出来ない。

 妻やその実家が重罪を犯していない限り――例えば誰かを毒殺するとか。


 離縁されてお母様が困るかどうかは難しいところにしても、毒殺に関わったかもしれないことを理由に中宮にもしものことがあったら大変だとかいって近付けないようにするということは可能なのだろう。


 実際、毒蛇の入っていた箱に春宮からの文(やはりあの歌は春宮からだったそうですわ)が付いていたことを考えるとお母様が関わっていないとは思えない。

 少なくとも、あの毒蛇の箱に関しては。


 叔父様がやったことを聞いたとき、何か足りないと思っていたんですけど毒蛇のことを言ってなかったからですわ。


 お菓子に毒を入れたのにはお母様は関わっていないと思いたいのですけれど……。


「ただ……」

 ツユの表情が暗くなる。


「中宮様にイヤな噂があるそうです」

「噂……?」

「中宮様は入内するために春宮様の幼馴染みの中の君の邪魔をした挙げ句、中の君は行方知れずになったと……」

 ツユが沈んだ声で言った。


「え……」

 私は息を飲んだ。

 顔を上げると頼浮と視線が合った。


 頼浮には仮託継子いじめ譚のことは話してある。


 牛車にかれて死んだという恥ずかしい過去も……。


 仏教には三世さんぜという考え方がある。


 前世はさきの世とか宿世すくせ、現世は今世とか今の世、来世は次の世とか来世と言って人は生まれ変わるというものだ。


 前世の行いによって今の世で起きることが決まっており、今の世での行いで次の世のことが決まる(これを因果応報と言うんですのよ)。


 これが普通の考えなので生まれ変わるのは当たり前。


 前世のことを覚えているのは珍しいが、生まれ変わり自体はするものだと考えられているから頼浮も驚いたりしなかった。


 と言っても、幼馴染みの男と再会するところまでは松姫が書いた普通の継子いじめ譚だし、その後の孔雀や鸚鵡オウムの香炉が出てくる物語は未だに見付かっていない(頼浮が探してくれているんですの)。


 今の大君は中の君だ。

 当然、春宮の幼馴染みをいじめて行方知れずに追い込んだのも中の君がしたことになっているということである。


 というか中の君は毒殺された(ということになっている)んですけど……。


 噂がおかしな伝わり方をしているのだろう。


 今上帝は幼馴染みの姫が行方不明になっていないことは知っているが中の君を守るためとはいえそれを言う訳にはいかない。


 中宮なかのきみは今頃、陰口を言われてつらい思いをしているかもしれない……。


頼浮との、お父様に会ったら伝えていただきたいことがあるのですけど」


 入内したはずの私の筆跡の文をお父様の元に送るわけにはいかない(他の誰かに見られて入れ替わりのことを知られる危険がある)ので、形に残らない言伝ことづて以外で伝えるわけにはいかないのだ。


 ちなみに、お父様には出世を手伝っていただけないのですけれど、今上帝の覚えめでたいので(理由はお分かりですよね?)頼浮は順調に出世している。


 今は太政大臣の邸を出て小さいけれど自分達の邸に住んでいますのよ。


「なんでしょう」

「お父様は以前、欲しい物はなんでも買って下さるおっしゃったの。だから、ありったけの紙が欲しいと伝えて下さい。それから筆と墨も」

「分かりました」



 しばらくして左大臣家から山のような紙と筆と墨が届いた。


 私はそれを受け取ると松姫の物語の続きを書き始めた。


 孔雀のいる邸に住んでいた、青い鸚鵡おほむの香炉を愛用している左大臣家から入内した姫の話を。


 結末はもちろん中の君が大君として入内して、姿を消した姫はさる殿方の北の方になっていて――――――頼浮とのにはまだ打ち明けてないのですが子供が生まれますのよ!


〝夏に咲き 風の吹くよを 野で見つつ 雉子きぎす言祝ことほげ みやの栄えを〟


       完

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