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第三十一話〝みや〟という名の姫

 私(左大臣の大君の方)が首を傾げていると――。


「〝みや〟は私の父親違いの妹です」

 頼浮よりちかが言った。


「……つまり、私はお母様の不義ふぎの子で、あなたはお兄様ってこと?」

 私が訊ねる。


 お母様がお父様を婿にする前に他の殿方を夫にしていた時期があって、その時に頼浮を産んだのでないのならそういう事になる。

 だとすると――。


 せっかく入内しなくて良くなったのに……。


 帰る家を失った上に頼浮と異父兄妹なんて……。


 これでは結局結ばれることが出来ないのは同じだ。


 なんてことですの……。


 では、通ってきて婿になる気はなかったと言う事ですのね。


 それとも左大臣の姫なら兄妹と言うことを隠して婿になってもいいと思っていたとか?


 そして今は左大臣の姫ではなくなってしまったから明かしたということ?


 帰る家を失った上に散々ですわ……。


 私は肩を落とした。


 とはいえ妻というのは基本的に夫の出世の手伝い(と跡継ぎ)のためにいるのだから左大臣の娘ではないどころか貴族ですらなくなり財産もない今の私では相手にしてくれる殿方などいるはずないのだ。


 夫に養ってもらう妻もいるが、それは男性が出世して財産も出来てからの話である。


「北の方ではない妻が産んだ姫――中の君です。左大臣の中の君の名は美也みやというのです」

「私と同じ名前でしたの!? お父様ったら!」


 いくらなんでもいい加減すぎますわ!


 感傷かんしょうひたっていましたのに、ぶち壊しではありませんか!


「母は私の父に捨てられて苦しい生活を送っていたのです。それで左大臣が一時期、母を援助して下さっていました。美也はその時に出来た娘です」


 援助と言いつつすることはしてたって事なのね……。


 とはいえ、そもそも面倒を見るというのは妻にするという事なのだが。


 親が娘に大して財産を残さなかった場合、女性は夫に捨てられたらすぐに生活に困ることになる(こういう女性は夫に養ってもらうんですのよ)。


 だから夫が通ってこなくなってから決まった年数が経過すると離縁が成立して再婚できるようになるのだ。


 頼浮と中の君の母君の場合、頼浮がいたから二年で成立したはずだ。


 子供がいなければ三年なのに子供がいると二年なのも、子供を養わなければいけない分、生活が大変だからだろう。


 では以前、頼浮が言っていた入内したい妹というのは中の君のことだったんですわね。

 中の君の場合は入内したいというより春宮と一緒にいたいという事でしょうけど。


 それはともかく――。


「一時期?」

「すぐに別れたので……」


〝私も知らなかったのだが……〟


 お父様から聞いた話がよみがえった。


 なるほど……。


 お母様の家と頼浮達の母君の家が昔、揉めたことを知ったから別れざるを得なくなったのだろう。


 お父様は出世してしまったからお母様に相当な落ち度(重罪を犯すとか)がない限り離縁を切り出すことは出来ないが、お母様(やお母様の家)がお父様の後ろ盾になるのをやめることは出来るのだ。


 その頃は離縁が出来ない程度には出世してしまっていたものの、後ろ盾を失ったら困るくらいの官職だったのだろう。

 つまり全てを捨てて中の君の母君を選ぶほどではなかったということになる。


 まぁ官位官職で収入が決まるのだから万が一それらを失ってしまったら妻の面倒を見るどころではない。

 自分ですら暮らしていけなくなるのだから。


「母を援助していた頃、左大臣の北の方が最初の子を身籠みごもっておられて……娘だったら〝水弥みや〟と名付けたいと言っていたそうです。母は左大臣と別れた後に身籠もっていることに気付いて生まれた娘に〝美也〟と付けました」

「……そう」


 ではお父様が手を抜いて同じ名前を付けたわけではないのね。


「だから北の方様はあなた宛だと思ったんです」

「何を?」

「あの桜です」


 ……………………あっ!


 そうか……。


 春宮は間違いなく中の君に届くように左大臣家の〝みや〟という名の姫に届けるようにと指示したのだ。


 私の名前も〝水弥みや〟だとは知らなかったから。


 貴族の女性は顔だけではなく、名前も家族と夫以外には教えないんですのよ(顔と違って名前は教えることもありますけど)。


 では、お母様は本気で春宮が私に桜を贈って下さったのだと思っていたのね。


 それではどうあっても私を入内させたかっただろう。


「それで、これからどういたしますか?」

 頼浮が訊ねた。


 私はもう左大臣家の人間ではないのだから敬語を使う必要ないのだけれど……。


 私は御簾から顔を出して頼浮を見た。

 頼浮はきょかれたようではあったが驚いた様子はない。


「もしかして、私の顔、知ってた?」

「はい。一度、御簾の隙間から……」


垣間見かいまみ〟をしたということだ。


 御簾の隙間や塀の隙間などから女性の姿を覗き見(わざとでも偶然でも)するのを〝垣間見〟といって、これが切っ掛けで殿方が女性を好きになることもあるのだ。


 つまり、いつも近くをうろうろしていたのもそういうことでしたのね。


 それはともかく――。


 頼浮って思ってたよりずっと見目麗みめうるわしいわ……。


 春宮より好ましいですわ!


 良かった……。


 あとは――。


「妻はいないって言ったわよね?」

「はい」

「恋人も」

「はい」


 見目が良くて歌も詠めるのにそんなことある?


 この若さで六位、しかも近衛の随身ということは身分の高い貴族の子弟のはずだ。おそらく摂関家にゆかりの(摂関家に橘という姓はいないけれど)。


 上手くやればかなり出世できるはずだから大抵の女性(と、その家)は求婚されたら承諾しそうなものだが――。


「ホントに? 一人も?」

「いません」

 頼浮が言い切る。


 どうやら本当のようだけど、もしかして……。


「殿方の方がいいというわけではないのね?」


 念のために聞いてみる。


「ええ、違います」

 頼浮が苦笑いを浮かべる。


「なら、あなたの邸へ行って」

「理由を伺っても?」

 頼浮が面白がっているような表情をする。


「私の顔を見たわ。女性は夫以外の殿方には顔を見せないものよ」

「分かりました」

 頼浮はあっさり承諾した。



 牛飼童うしかいわらわは頼浮に促されるとすぐに牛を歩かせ始めた。


 頼浮は行き先を言わなかった――。


 最初から自分の邸に連れていってくれるつもりだったようだ。

 おそらくお父様もご存じなのだろう。


 いくら私が左大臣家と無関係になったからと言って当てもなく放り出すはずがない。


 行く宛てがなくなるからと言う理由で反対していたのだから。

 きっと頼浮に私のことを頼んだのだろう。


 ということは、さっきの『文を頼まれた』という口実も中の君ではなくお父様の指図だったのかもしれない。


 あるいは頼浮の方が申し出たのかもしれない。


 それならお父様が突然承諾してくださったのも頷ける。

 頼浮が面倒を見てくれることになったからだ。


「お父君がいなくなったのなら、あなたも苦労したのね」

 私が牛車の中から言うと、

「いえ、私は父の北の方に子供がいなかったため父に引き取られていたので」

 頼浮が答えた。


 だとしたら、もしかしたら子供がいないと見做みなされて離縁の成立は三年だったかもしれない。


 頼浮と中の君の年の差を考えると、それでもおかしくない。


 牛車の横を歩きながら頼浮が父君の邸の名前を言った。


 その邸の名前に私は思わず牛車の中で引っくり返りそうになって慌てて手形てがた(牛車の中で倒れないように掴まる把手とってですわ)にしがみついた。


「それ、太政大臣だじょうだいじんのお邸じゃない!?」


 太政大臣というのは左大臣より上ですわ!(太政大臣は必要な時だけ置かれる官職で今はいるんですのよ)。


「待って、あなたの名字、橘じゃなかったの!?」


 太政大臣の名字は『橘』ではない。

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