王太子レオポルドの死と、モルガーナの破滅からおよそ数週間。王都は大混乱の最中にあった。
崩壊した大神殿は取り壊され、瓦礫の山となっている。国庫は尽き、疫病や飢えに苦しむ民衆は増えるばかりだ。さらには、王太子亡き後の継承権を巡って貴族たちが対立し、小規模な内戦が勃発しかけている地域もあるという。
かつては女神の加護で平和を享受してきたこの国は、追放されたミレディアという真の聖女を失ったことで、ここまで悲惨な状態に堕ちていた。その事実を、今になって多くの人々が痛感している。
もっと早く真実に気づいていれば――そう嘆いても、時を巻き戻すことなどできない。国の内外に不安が渦巻くなか、一筋の光が差し込むように、ある噂が人々の間を駆け巡った。
「ミレディア様が生きている。しかも隣国で聖女として称えられているらしい」
確証は乏しいが、一部の商人や旅人がそう囁き始めたのだ。
王都の民衆のなかには、かつてミレディアに助けられた記憶を持つ者が少なくない。モルガーナの横暴に苦しみながらも、“本当の聖女”がいずれ帰ってきてくれると信じ、ひそかに祈っていた者もいた。
しかし実際、王宮や教会の上層部はその噂を聞いても半信半疑のままだった。何しろ、ミレディアは王太子の名のもとに“偽聖女”と断罪され、追放された過去がある。いまさら彼女に国の窮地を救ってくれと頼むなど、あまりに都合が良すぎる話。高司祭や廷臣たちはプライドが邪魔をして、積極的にミレディアを探し出す動きは見せなかった。
――だが、そんな王国の様子とは裏腹に、隣国パラディアの都ではまさに賛美と祝福の渦が起こっていた。
そこには「聖女ミレディア」が存在し、日々、多くの人々を救っているという。病人や貧民のもとへ自ら足を運び、慈悲と奇跡の力を持って寄り添う姿に、パラディア国王は深く感銘を受け、彼女を国の賓客として遇していたのだ。
隣国パラディアでの日々:新たな聖女として
「ミレディア様、今日も治癒の儀式をありがとうございます。どうか、ご無理だけはなさらないでくださいね」
パラディア王宮の医務室に似た一角。その中心で、薄青い衣を纏った女性――ミレディアが静かに微笑んでいる。
ミレディアの周囲には、重病人や怪我を負った兵士が横たわっていたが、彼女が手をかざすたびに人々の顔から苦痛の色が和らいでいくのがわかる。かつて王都で見せた奇跡の力と同じ――いや、それ以上の神聖な光が、彼女の両手から溢れ出していた。
ミレディアは、幼い頃から女神の御使いとして特別な力を与えられていた。だが、追放劇のショックで彼女自身が心を塞ぎかけていた時期もある。それを救ってくれたのが、パラディア国王の若き宰相、カーディナルという男性だった。
カーディナルは政務の一部で治安や医療を担当しており、ある日ミレディアが荒野で衰弱していたところを助けたのだという。当初、彼女は自分の素性を明かさず身を隠そうとしていたが、周囲の病人を見捨てられずに“聖女の奇跡”を起こしてしまい、逆にその力が周囲の目に留まってしまった。
だがカーディナルは、彼女が聖女――それも本物の女神の御使いであると確信すると、王命をあげてミレディアを保護し、その力を最大限に活かせる環境を用意した。王宮の一角を「癒しの区画」として整備し、医師や薬師たちと共にミレディアが病人を治療できるよう、国を挙げて支援したのである。
こうして、ミレディアは追放されてからの苦しい日々を乗り越え、パラディアで少しずつ自信を取り戻していった。
もちろん、彼女の中には祖国への想いがまったく消えたわけではない。いや、むしろ日を追うごとに「国はどうなっているのだろうか」と心を痛めていた。あんな形で追放されたとはいえ、それでも彼女は王太子や民衆を、そして幼い頃から育った教会を憎むことができない。
「私がいなくなったあの国では、きっと多くの人が苦しんでいるはず……」
そう思うたびに涙がこぼれそうになるが、それでもミレディアは耐え、今は自分の目の前にいるパラディアの人々を救うことに専念した。過去を恨むより、今、自分ができることをする。それが彼女の信条だった。
救いの手:パラディアからの支援要請
そんな折、パラディア国王のもとに王国からの使節が訪れた。彼らは一様に疲れ切った表情で、パラディアへの正式な救援要請を申し入れてくる。どうやら、王太子の死後、貴族たちの対立が激化し、国は内戦の危機に陥っているらしい。しかも疫病や飢饉も深刻化し、国力は著しく衰えているという。
使節の一人が、パラディア国王に頭を垂れながら懇願する。
「どうか、お力添えを……。我が国はもはや、異国の侵略を受けても抵抗できぬほど弱っております……。わずかでも物資や軍の派遣をいただければ……」
パラディア国王は深く考え込みながら、忠臣であるカーディナルと相談する。
そもそも隣国が戦乱に陥れば、パラディアにとっても決して好ましいことではない。もし他の勢力が混乱に乗じて侵略しようものなら、国境付近は大変な危険地帯となる。しかし、一歩間違えれば、パラディアが内政干渉したとみなされる恐れもあるのだ。
国王が逡巡していると、カーディナルが一歩前へ進み出る。
「陛下、もし援助をするのであれば、我々だけでなく“真の聖女”の力も必要でしょう。……ミレディア様が名乗りを上げてくださるなら、混乱が鎮まる可能性も高いと思われます」
その言葉を聞いた使節たちは驚き、思わず口走る。
「ま、まさか……“ミレディア”とは、あの追放された聖女のことか……? 本当に、このパラディアに……?」
確信めいた視線がカーディナルに注がれる。カーディナルは微笑むだけで何も言わないが、使節たちの目には期待と躊躇いが入り混じった色が浮かんでいた。
一方、ミレディアは国王が開いた会議に初めて同席することを許され、王座の脇で黙って話を聞いていた。
彼女は肌を隠すような深いブルーのローブを身に纏い、すっかりパラディア風の聖女服に馴染んでいる。かつての王太子の兵士に追われ、荒野をさまよった頃の影はもうない。だが、その瞳には確かに“祖国を想う光”があった。
王国の惨状、民衆の苦しみ、そして王太子の死――そのすべてを耳にしたとき、ミレディアの心は大きく揺さぶられた。祖国が破滅寸前であるという現実を前に、彼女は深く目を伏せる。
「私が国に残っていれば……こんなことには……」
そんな自責の念が込み上げる。もちろん、すべてが彼女の責任ではないとわかっている。モルガーナの陰謀、王太子の愚行、教会の腐敗――さまざまな要因が重なった結果の破滅だ。しかし、それでも彼女の心のどこかに「私がいれば救えたかもしれない」という思いが拭えないのだ。
帰国への決意と葛藤:カーディナルとの対話
会議がひとまず休会となったあと、カーディナルはミレディアを静かな中庭へと誘った。夜風が肌を撫で、しんとした月明かりが石畳を照らしている。
カーディナルは優しい声音で切り出す。
「ミレディア様、先ほどの話を聞いて、どうお考えですか? もしあなたが望むのであれば、パラディアは協力を惜しみません。私たちの軍や物資とともに、あなたを王国にお連れすることもできるでしょう」
ミレディアは少し息を飲む。帰るか、帰らないか――それは追放されて以来、ずっと考え続けてきた問題だ。
「……私が行って、何ができるでしょう。私は確かに、女神の御使いとしての力を持っています。でも、祖国の人々は私を追放した。それは、あの国が選んだ決断でもあります。今さら私が戻っても、受け入れてもらえるはずも……」
その声には躊躇いと恐れが入り混じっている。あれほど愛し、大切に思っていた国と王宮に、ああもあっさりと「偽聖女」扱いされ、追放された傷は深く残っていたのだ。
すると、カーディナルは一歩進み、彼女の手をそっと包む。
「ミレディア様、あなたはそれでも心配しているのでしょう? あの国に取り残された人々のことを。あなたは本当の聖女だからこそ、人々を見捨てられない。違いますか?」
鋭い指摘に、ミレディアは思わず涙を浮かべる。
「……ええ。そうです。私は、結局あの国が恋しい。追放されても、まだ愛してしまっている。それが、女神の導きかもしれないとさえ思ってしまうんです」
カーディナルは微笑む。そして、声を優しく落とす。
「なら、行きましょう。パラディアにはあなたの味方が多い。王も、私も、あなたが望むのなら全力で支援します。……だけど、一つだけ約束していただきたいことがあります」
ミレディアは首をかしげる。
「約束……?」
「もし危険が迫ったら、迷わず私たちのもとへ戻ってきてください。あの国がどれほど混乱していようと、あなたを傷つける権利など誰にもない。あなたは私たちの恩人でもあるのですから」
その言葉を聞き、ミレディアの胸には温かな安心感が広がった。自分が苦境に立たされても、帰る場所がある。もう、孤独ではない。彼女は感謝の気持ちを込めて、カーディナルの手を握り返す。
「ありがとうございます。カーディナル様が……いえ、パラディアのみなさんがそう言ってくださるなら、私は必ず役に立ちたい。祖国を救えるのなら、私の力を惜しみなく使います」
そうして、彼女は再び故郷の地を踏むことを決意したのだった。
王国への帰還:荒れ果てた大地と人々の嘆き
数日後、パラディア軍の一部と医療物資を載せた馬車の隊列が、国境を越える光景があった。前列にはパラディアの紋章を掲げた騎士団が並び、その中央に、パラディア王家の使節とミレディアが乗った馬車がゆっくりと進んでいる。
王国側の国境要塞は、兵力がほとんど残っておらず、疲労しきった守備兵が呆然と見送るだけだった。彼らはパラディア軍を目にして一瞬身構えるが、攻撃の意志がないことを確認すると、どこか安堵したようでもあった。
ミレディアは馬車の窓から外を見て、胸を締めつけられる思いがする。かつて豊かだった農地は荒れ果て、廃村のように人気がない。道端には見捨てられた牛馬の死骸や、雑草が伸び放題の畑が広がっている。
少し進むと、行き場を失った難民が道端で乞食のように座り込み、疲れ切った目でパラディアの行列を見つめていた。中にはミレディアの存在に気づき、顔を上げる者もいるが、すぐに「ああ、まさかそんなはずが……」と首を振ってしまう。
やがて、馬車はかつてミレディアが慣れ親しんだ街道を通り、王都近郊へと差し掛かる。そこでも光景は同じだった。店は閉まり、道には盗賊まがいの集団が徘徊しており、餓えた子どもたちが食べ物を求めてさまよい歩く。これほどまでに国が荒廃しているとは、想像以上だった。
「こんな……ひどい……」
ミレディアは、慟哭に近い声を上げる。パラディアの将兵も言葉を失い、ひそひそと「これがあの大国の姿とは……」と嘆き合う。
王都に着いた頃には、道端の難民や貧民たちが、かつての聖女をはじめて“信じられない”ものを見るような目で取り囲んでいた。
「あれは……まさか、ミレディア様……?」
「嘘だ、だって追放されたはず……」
最初は皆が遠巻きに囁くばかりだったが、やがてミレディアが静かに馬車を降り、人々に向かって微笑むと、恐る恐る近づいてくる者が現れる。
「……本当に、ミレディア様……なのですか?」
ある女性が震える声で尋ね、ミレディアはやわらかな表情で頷く。
「はい。久しぶりですね。私は戻ってきました。ごめんなさい、今まで助けられなくて……」
その瞬間、女性は号泣しながらひれ伏した。周囲の人々も次々に涙を流し、ミレディアの名を呼ぶ。かつて聖女の癒しに救われた者や、孤児院で世話になった者などが一斉に群がり、言葉にならない感情をぶつける。
ミレディアは、そんな人々を優しく抱きしめ、笑顔と共に「大丈夫、もう大丈夫です」と声をかける。周囲のパラディア兵たちはその光景に胸を打たれ、無言で見守るしかなかった。
新たな奇跡:王都の救済活動
ミレディアはパラディアから持ち込んだ医薬品や食糧を、王都郊外の空き地に急造の支援所を作って配給し始めた。カーディナルが率いる医師団も協力し、感染症の防止策を講じながら、できる限り多くの人を救おうと尽力する。
そこには、かつてミレディアを慕っていた王国の下級神官や修道女たちも集まり、涙ながらに謝罪の言葉を述べ、復興支援に協力したいと申し出る者もいた。
ミレディアは過去の恨みを口にせず、ただ「力になってくれるなら嬉しいです。今は、できるだけ多くの命を助けましょう」と答える。裏切った者たちを責めようとしないその姿勢は、次第に周囲の心を揺さぶり、いつしか**「やはりミレディアこそ真の聖女だ」**という声が王都で高まっていった。
驚くべきことに、ミレディアが祈りを捧げるたび、王都の空気が少しずつ澄んでいくのを人々は感じ始めた。疫病にかかった人々が回復したり、渇いていた井戸に水が戻ったりと、ささやかながら目に見える奇跡が幾度も報告されるのだ。
これまで荒れ果てていた土地も、ミレディアが祈りを捧げた翌日には苗が芽吹くなど、わずかだが“復活”の兆しが見られる。王都の人々はこれを心から喜び、久方ぶりに希望を取り戻していった。
「やっぱり、ミレディア様が本物だったんだ……」
そう呟きながら、民衆は次々に支援活動を手伝うようになる。少しでも国が立ち直る助けをしたいと、廃墟同然の神殿跡を片付け、崩れ落ちた街並みを修繕し始める。誰もが等しく窮乏している中で、お互いを助け合う流れができていった。
混乱の鎮圧:貴族派閥の最終決戦
しかし、王都の街が徐々に回復へ向かう兆しを見せる一方、郊外や地方ではまだ暴動や武力衝突が続いていた。王太子を失い、モルガーナも失脚した今、国の頂点が不在となっている。こうした権力の空白に乗じて、野心を持つ貴族たちが軍を率いて覇権を争っているのだ。
ミレディアとパラディアの医師団は避難所の設営や疫病対策で手一杯。戦闘を止めるには、ある程度の軍事力が必要だと判断したカーディナルは、パラディア軍の一部を割いて各地の暴動を鎮圧する作戦を立案する。
当初、王国の反発を懸念する声もあったが、多くの人々が「もはやパラディアに頼るしかない」と考え、むしろ貴族同士の内戦を止めてほしいと願っていた。王国の残存兵力もパラディア軍と共同戦線を張り、「反乱貴族たちを制圧しよう」と立ち上がる。
戦闘は数日で一気に収束へ向かった。というのも、貴族たちも内心では長引く戦乱に疲弊しており、何より**「真の聖女が王都に戻ってきた」**という報せに動揺していたからだ。自分たちこそが正統後継者を名乗ると息巻いていた人物も、ミレディアの存在を知るや否や、その力を恐れて降伏する例が相次いだ。
こうして、内戦の火種は大きな戦乱へ拡大する前に鎮圧され、多くの貴族が武装解除に応じ、王都への帰順を申し出る。彼らはパラディア軍によって裁判にかけられ、罪状が明らかな者は処罰されることになった。
廃墟の神殿にて:新たな王と聖女の宣言
やがて、国の統治を担うために、“暫定の王”を選ぶ必要が生じる。先王はすでに亡く、王太子レオポルドも世を去り、他の王族は遠い血筋か幼子しかいない。暫定的に、王家に連なる遠縁の公爵が王位を継承することとなり、パラディア国王や周辺諸国の代表者が立ち会う形で、その戴冠式が執り行われることが決まった。
場所は、崩壊した大神殿の跡地。一部が片付けられ、即席の礼拝スペースが作られている。廃墟同然の神殿に王位を象徴する即位の椅子が置かれ、その周囲をパラディアと王国の兵士が守るという、不思議な光景だった。
民衆や貴族、神官たちが見守るなか、新たな王として公爵が儀式を受け、正式に“再建王”として名乗りを上げる。そこにはもちろんミレディアの姿もあった。彼女は神官たちの要請で、“真の聖女”として、この国を再び女神の加護へ導いてほしいという公式な要請を受けることとなる。
ミレディアは、王から直接「あなたが再びこの国の聖女となってくれれば、国は救われる」と懇願され、一瞬戸惑いを見せる。自分の心にはまだ、追放されて孤独のまま荒野を彷徨ったあの記憶がこびりついていたからだ。
だが、彼女は思い出す。パラディアでの生活、カーディナルや多くの人々に支えられながらも、祖国を案じ続けてきた日々。自分には、女神の御使いとしてやらなければならない使命がある。
「わかりました。私は、もう一度この国で祈りを捧げます。……二度と同じ過ちが起こらないよう、私にできる限りのことをしましょう」
それを聞いた新王は涙ぐみ、周囲の人々も感極まって歓声を上げる。かつてミレディアを偽聖女と罵倒した者たちも、深く頭を垂れ、口々に「申し訳ありませんでした」「どうかお許しを」と詫びるのだった。
ミレディアは静かに微笑み、過去の罪を責めたりはしない。ただ、「女神は私たちを見捨てません。もう一度、共に歩みましょう」と穏やかに語るだけだった。
別れと新たな選択:カーディナルへの想い
こうして、王都は大きな一歩を踏み出した。
しかし、一連の再建において大きな役割を果たしたパラディアのカーディナルは、滞在期限を迎え、近々国へ戻らねばならなかった。そもそもパラディア軍の派遣は暫定的なものであり、自国の防備も大切である以上、これ以上長期間駐留するわけにはいかないのだ。
王国の人々も、支援に感謝しつつ「いつまでも甘えてはいられない」と理解していた。何より、もうミレディアがここに残り、聖女として国を導くことになったのだ。前のように聖女を追放するような過ちを繰り返さないためにも、国全体で彼女を支えねばならない。
出発を明日に控えた夜、ミレディアは王宮の庭園でカーディナルと二人きりで過ごしていた。月光に照らされ、白い花々が風に揺れている。
カーディナルはいつもの沈着冷静な表情だが、その瞳には何かを言い出せずにいるような戸惑いが漂っていた。
「……明日、私はパラディアへ戻らねばなりません。ミレディア様、あなたはこれから、この国の聖女として忙しくなるでしょうね」
ミレディアは切なげに微笑み、視線を下げる。
「ええ。新王や神官たちと協力して、少しでも早く国を立て直したいと思います。……本当なら、私もパラディアに帰りたい気持ちもあるのです。あそこには、私がようやく見つけた安らぎと、あなたが……」
言葉を噤んだ彼女の頬は、わずかに赤みを帯びる。隣国での穏やかな時間、そしてカーディナルという支え。あれほど幸せな時間はなかったのに、いま彼女は祖国に留まる道を選んだ。
カーディナルはそっとミレディアの手を取り、その手の甲に口づける。
「私は、あなたが決めたことを尊重します。あなたは自由に生きるべきだ。だが、私の国の扉はいつでも開いている。もし、王国があなたを再び傷つけるようなことがあれば、私は迷わずあなたを迎えに来る。……それだけは信じてください」
カーディナルの言葉に、ミレディアは思わず胸が熱くなる。
「ありがとう、カーディナル様。私、あなたのその言葉があれば……きっと強くなれます」
そう呟いたあと、ミレディアは一瞬のためらいを振り切るように、カーディナルの胸に顔を埋める。二人は月明かりの下、静かに抱き合う。
この国が平和になったなら、いつの日か、再び会えるだろう――。そう信じながら。
エピローグ:真の聖女の歩む道
翌朝、パラディア軍は王都を後にし、ミレディアは多くの人々に見送られながら門の前で佇んでいた。馬に乗ったカーディナルが振り返り、最後にひときわ大きく手を振る。ミレディアも笑顔で手を振り返す。やがて隊列は城壁の向こうへ消えていった。
こうして、彼女は祖国を再建する聖女として歩み始めた。廃墟となった大神殿の再建、まだまだ根強く残る疫病や飢饉への対処、戦乱で孤児となった子どもたちの保護――やるべきことは山ほどある。
今度こそ、王や貴族たちはミレディアを裏切らないだろう。なぜなら、彼女だけが唯一、この国に再び女神の加護をもたらせる存在であり、その奇跡を目の当たりにした者は、彼女を真の“女神の御使い”と認めざるを得ないのだから。
何より、ミレディアも同じ過ちを繰り返さない。かつて信じていた人々から裏切られたとしても、彼女はそれを責めることなく許し、人々のために手を差し伸べる道を選んだ。そこに宿るのは、女神の慈悲。
同時に、自らの幸せも大切にしたいという思いが芽生えている。いつかこの国が安定し、民が平和を取り戻したとき――そのときは、きっとカーディナルのもとへ出向き、「自分自身の人生」を歩みたいと願うようにもなっていた。
周囲の者がそれをどう思うかはわからない。しかし、ミレディアはもう孤独ではない。女神の名のもとに過度な責任を押し付けられるだけでなく、多くの仲間や友人の支えを受けながら、“聖女”としても“一人の女性”としても新しい人生を切り開くことができるのだ。
やがて、王都の北方で小さな泉が湧き出たという報告が届く。ミレディアが土地を浄化したあとに突然、清らかな水が溢れ出たのだという。干ばつや渇水に苦しんでいた農民たちは歓喜し、そこを“ミレディアの泉”と呼んで大切に扱うようになった。
その出来事は、王国復興の象徴として語り継がれていく。
「あの黒薔薇の偽聖女がもたらした破滅を乗り越え、真の聖女が再び国を救う――」
王国の人々は新王のもと団結し、過去の過ちから学ぼうと努力する。もはや昔のように聖女を盲信し、すべてを彼女一人に押し付けるのではなく、それぞれが自分たちの手で国を支える意識を育て始めた。それこそが、ミレディアが何よりも望む“真の国力”なのだ。
モルガーナはどうなったのか――その名を口にする者はほとんどいない。彼女は、王都郊外の修道院跡に幽閉され、女神の天罰と人々の呪詛を受けながら生き永らえているという噂だ。今や王都の誰もが、あの悪女を振り返ることなく、新しい時代へ向かって歩み始めていた。
そして、混乱が鎮まった後のある夕暮れどき、ミレディアは廃墟のままの大神殿へ一人で足を運ぶ。中央に残った女神像は半ば壊れているが、その微笑はまるで、彼女を出迎えるかのようだった。
ミレディアはそっと目を閉じ、両手を組んで女神に祈りを捧げる。
「私は、もう一度この国を信じてみます。……いつか本当の意味で平和になったとき、私の心にも自由が訪れますように。――そして、その時にはきっと、私にも“幸せ”と呼べる人生を歩む権利がありますよね、女神さま」
その言葉に答えるかのように、祭壇に差し込む夕日が神秘的な光を放ち、朽ちかけた女神像の背後を優しく照らしていた。
彼女の願いを感じ取ったのかもしれない。いつか必ず、この国は再生するだろう。
そして、その先にある未来でこそ、ミレディアは自分の幸せをも掴むのだ。
それが、女神の御使いに与えられたもう一つの祝福であることを、彼女はまだ知らない。