王宮の大広間では、今宵も盛大な宴が催されていた。
きらびやかに着飾った貴族たちが何十人と集まり、豪勢な食事と酒に酔いしれる。その中心で、黒薔薇のドレスを纏ったモルガーナが、まるで舞台女優のように妖艶な笑みを浮かべながら踊っている。周囲の男たちはその美貌にうっとりと目を奪われ、女たちはそんな彼女を妬ましく感じつつも、下手に敵対すれば自分の命や地位が危ういことを知っているがゆえ、ただ隅で震えるしかない。
いつもなら、この夜会に王太子レオポルドが加わり、モルガーナの隣で彼女を賛美しているはずだったが、今日はその姿が見当たらない。最近、王太子は心身共に疲弊しきっており、しばしば部屋に籠もることが増えていた。
しかし、その事実に気づいたとしても、モルガーナはまったく意に介さない。もはや彼女の欲望は、王太子という存在を超え、王国全体を我が物にすることへと向かっているように見えた。
「あら、レオポルド殿下がいないわね」
モルガーナが唇に笑みを湛えたまま呟くと、取り巻きの貴族たちが慌てて頭を下げる。
「殿下は体調を崩されているとのことで、本日の宴には……」
「そう? いいわ。放っておきましょう。どうせ、私がいなくては何もできない人でしょうし」
モルガーナはくすりと笑い、高価なワインを口に含む。そして彼女が目配せをすると、あたりに控えていた楽師たちが再び演奏を始めるのだった。
彼女の視線は、すでに王太子などではなく、周囲の新たな“獲物”へと注がれている。
「あなた、ちょっとこちらへいらして?」
モルガーナが手招きしたのは、新興貴族の三男で、つい最近、莫大な遺産を相続したばかりの青年である。青年は顔を強張らせながらも、彼女の魅力に抗えず、おずおずと近づいていく。その瞳には、欲望と恐怖が入り混じった色が浮かんでいた。
黒薔薇のドレスから覗く白い肌、甘やかに笑う唇。モルガーナの美貌には確かに抗いがたい力があり、彼女の手のひらが青年の手をとった瞬間、青年は完全に心を奪われたように目を潤ませる。
「ふふ、あなた、ちょっと見ない顔だけれど……いいわ。退屈しのぎになりそう」
モルガーナの誘惑の言葉に、青年は恍惚の表情を浮かべる。周囲の貴族たちは、その様子をうんざりと、あるいは羨望のまなざしで見つめていた。こうしてまた一人、モルガーナの毒牙にかかった男が生まれ、やがて破滅の道へ誘われるのだろう。誰もがそれを知っているのに、何も言えない。まさに王宮は、黒薔薇の花弁に呑みこまれつつある。
しかし、この夜会の表面上の華やかさとは裏腹に、王都の街は悲鳴と混乱に満ちあふれていた。
「食糧が足りない!」「疫病で家族が倒れたが、誰も助けてくれない!」「税が高すぎる……もう払えない……!」
そんな声が、下町や農村地帯から絶え間なく上がっていたのだ。元々、ミレディア――真の聖女――がいた頃は、女神の加護によって病や災厄が鎮められ、教会による支援や浄化の儀式が行われていた。しかし、いまやモルガーナにはそうした力はなく、教会も完全に形骸化してしまっている。
人々は絶望しながら暮らし、やがて疲弊や飢え、病に倒れる者が増え始める。表面上はまだ貴族たちの宴が続き、街では豪勢な馬車が走り回っているが、裏では国が根本から崩れ始めているのだ。
崩れゆく秩序:貴族社会の破滅
モルガーナの“聖女宣言”以来、貴族たちの間では信じがたい規模の権力闘争と陰謀が渦巻いていた。
なぜなら、モルガーナに取り入って寵愛を得れば、爵位や領地を手に入れることができる一方、彼女の機嫌を損ねれば一瞬にして破滅へ追いやられるからである。
例えば、ある伯爵はモルガーナに気に入られるため、隣国との重要な交易権を無償で差し出したうえ、自らの娘を護衛役として献上しようとした。だが、モルガーナの興味が娘ではなく伯爵本人に向くとわかった途端、伯爵は躊躇いを見せた。すると、その一瞬のためらいが仇となり、伯爵は「聖女への不敬」の罪を着せられて、爵位剥奪と投獄の憂き目を見る。
また、ある侯爵家の若当主は、モルガーナがすでに何人もの男を飽きたら捨ててきた事実を知り、彼女に近づくことを避けていた。しかし、その慎重さも逆効果となり、モルガーナは「私を避けるなんて、失礼ですこと」と冷たく言い放つ。結果、若当主は莫大な賠償金を支払わされ、領地の大半を失う羽目になった。
こうした事態は当然、貴族たちの財政にも打撃を与える。元々、貴族の家柄は領地の収穫や商売による収益で維持されているものだが、近年の不作や疫病の流行で収益は目減りする一方。さらにモルガーナからの要求や、王宮が課す過剰な税金で、多くの家が破綻寸前へと追い込まれていた。
「これではいつ家名が滅ぼされるかわからない……」
そう嘆きながらも、誰もモルガーナに堂々と反旗を翻せない。何人かの勇気ある者が立ち上がりかけたが、その度に不審な失踪や暗殺が起こり、「あの男は王太子に逆らったから粛清された」という噂が流れる。こうして貴族社会は恐怖の連鎖に縛られていくのだ。
さらに、モルガーナが“聖女”としての威光をちらつかせることで、神を畏れる者たちが下手に意を唱えられないようになっている点も大きい。
形骸化したとはいえ、王太子や取り巻きの新しい高司祭たちはこぞって「モルガーナこそ正当な聖女である」と宣伝を繰り返す。民衆の中にはそれを信じる者もまだ少なくない。かつてはミレディアを慕っていた人々でさえ、日々の生活が苦しくなるにつれ「今の自分たちの不幸は、ミレディアが女神の怒りを買ったせい」と思い込み始める者も出てきた。
こうした民衆の“すり替え”や思考停止が、モルガーナの支配をさらに容易にしていた。なにしろ、敵対する者は貴族・平民問わず容赦なく粛清されるのだから、誰もが自分を守るために嘘や建前を積み上げていくしかないのである。
王太子の苦悩と絶望
その頃、王太子レオポルドは自室の薄暗い寝台の上で、ひとり頭を抱えていた。
かつてはモルガーナの妖艶な魅力に翻弄され、彼女こそが自分の運命を変えてくれる“理想の女性”だと信じていたが、今やその関係は歪んだ主従のようなものとなり、彼自身の自尊心はボロボロに蝕まれていた。
「俺は……どうして、こんなことになってしまったのだ……」
呟いたところで、答えは返ってこない。扉の外にはモルガーナが送り込んだ警護兵が立ち、王太子が外へ出るのを制限しているという異常事態。名目上は「お身体を案じての配慮」ということになっているが、実質は王太子を閉じ込め、モルガーナが好き勝手に宮廷を支配するための措置である。
「モルガーナ……。お前は本当に、聖女……なのか……?」
そう呟くレオポルドの胸中には、不安と後悔が渦巻いていた。
思えば、ミレディアを追放したあのときから、自分は道を踏み外したのだろう。彼女が国を支えていたからこそ、王国は安定していた。にもかかわらず、嫉妬に狂ったモルガーナの讒言を信じ、無実のミレディアを追い出してしまった。それだけでなく、彼女に「偽聖女」の汚名まで着せて。
レオポルドはまだ若く、世間知らずだった。女性の甘言に簡単に惑わされるほど純朴でもあった。しかし、今になって気づいても、モルガーナの支配網はあまりにも強大で、彼ができることなどほとんど残されていない。
「殿下、お部屋に失礼いたします」
扉が開き、入ってきたのは数名の侍従だった。彼らはモルガーナによって選りすぐられた人物で、ほぼ彼女の息がかかっている。その中のひとりが持参した薬瓶を、王太子の枕元へと置く。
「モルガーナ様より、安眠のためにと。薬師が特別に調合した薬でございます。殿下にはこちらを飲んで、ゆっくりお休みいただくようにとの伝言です」
侍従の声はどこか冷たい。レオポルドはその薬瓶を見つめながら、ますます気が滅入る。こんなものを飲んだところで、悪夢にうなされるだけだというのに。
それでも、断るという選択肢は残されていない。王太子といっても、今や彼の権威は形だけでしかなく、モルガーナの意思に反すれば、何をされるかわからないからだ。
レオポルドは重い息を吐き、しぶしぶ薬を口に含む。苦い味が喉を焼き、まるで自分が生きたまま地獄へ落ちていくような錯覚を覚えた。
王国を覆う暗雲:次々と起こる天災
そんな中、王国の各地で異常気象や天災が頻発し始めた。
春には急激な寒波が訪れて作物が枯れ、夏には長雨と洪水が発生して住居が流される。落雷や竜巻など、これまでの気候ではありえない自然災害が相次いで起こり、人々はさらに苦境に立たされていた。
特に洪水被害は甚大で、多くの田畑や町が泥水に浸かったままになり、疫病もさらに広がっていく。ある地域では地震まで発生し、石造りの建物が崩壊して多くの死傷者が出るなど、王国はまるで**“女神の加護”**を一切失ってしまったかのように悲惨な状態へと落ち込んでいた。
もはや誰の目にも明らかだった。――女神の怒りが、この国を取り囲み始めているということに。
しかし、モルガーナはこうした天災についても、自分には責任がないと主張し続ける。
「これはすべて、かつてミレディアという偽聖女がもたらした不幸に違いないわ。私が本当の聖女なのですから、いずれ私が力を使えば治まる……そう信じてちょうだい?」
彼女の口からは、空虚な言葉しか紡がれない。何より、モルガーナは実際に“奇跡”を起こしたことが一度もない。にもかかわらず、まだ彼女の取り巻きの神官や貴族の一部は、自分の保身のために「モルガーナ様を疑うとは不敬だ」と叫び続けるのだ。
その結果、民衆の多くは完全に救いを失い、苦しみに耐えながら日々を生き延びるしかない状況へ追いやられていた。
呪詛と怨嗟:広がるモルガーナへの憎悪
王都の裏通りを歩けば、かつては活気に溢れた市場や商店街が、今は閑散とした空気に包まれている。
パンや穀物、野菜の類は品薄で値が高騰し、買えるのは一部の裕福な者だけ。下町では飢えに苦しむ子どもの姿が目立ち、疫病の蔓延で親を失った孤児が増えていた。
それでも、王宮や貴族街に足を運べば、モルガーナの奢りで連夜の宴が開かれており、美酒と珍味がふんだんにふるまわれる。このあまりにも不公平な状況に、人々の心は次第に恨みを募らせていく。
「あの黒薔薇の女がいる限り、私たちは救われない……」
「“聖女”などと名乗っていながら、実は悪魔の手先じゃないのか……」
そんな呪詛めいた言葉が、街角や居酒屋の片隅で小さく囁かれるようになる。公然と口にすれば、たちまち捕らえられて処罰されるため、人々はひそやかに、しかし確実にモルガーナへの敵意を蓄えていた。
そして、その怨嗟の声は貴族階級の一部にも共有されつつあった。
「これ以上、モルガーナに好き勝手を許しては、王国が滅ぶ……」
そう考えた数名の貴族たちが密かに集まり、モルガーナ打倒を目論むようになる。もちろん、モルガーナを擁護する派閥も強大で、彼女の妖艶な魅力に落ちた者や、利益を得ている者も多い。下手に動けば粛清される可能性が高いことはわかっていても、もはや国の破滅が避けられない状況に追い込まれた今、他に手段はないというのが彼らの決断だった。
こうして水面下で、モルガーナ討伐の謀議が進み始める。しかし、その計画が果たして功を奏するのかどうか――誰にもわからない。ひとたび失敗すれば、一族郎党までもが処刑されるかもしれないのだ。
モルガーナの背徳:王宮の神殿を冒涜する
王宮の中枢にある大神殿は、かつては女神を祀る最も神聖な場所として崇められていた。ミレディアが聖女として祈りを捧げることで、国中の人々の健康と平和を願い、その加護が満ちていた空間だったのである。
ところが今、その大神殿の様子は一変していた。祭壇に飾られるはずの女神像は布を被せられ、まるで放置されたような状態にある一方、中心部にはモルガーナの肖像画が掛けられている。さらに、モルガーナの命によって黒や深紅の花々が大量に飾り付けられ、重苦しく妖艶な雰囲気に染め上げられていた。
そこへ足を踏み入れた者は、口々にこう囁く。
「まるで悪魔の祭壇だ……」
実際、神殿では本来の礼拝や儀式が行われることはなく、モルガーナの顔色を伺う神官たちが形式的な祈祷をするだけ。女神への崇敬は消え失せ、モルガーナを持ち上げる言葉が空虚に響き渡るだけである。
何より許しがたいのは、モルガーナがこの神殿を“自分だけの快楽の場”としても利用しているという噂が絶えないことだ。夜な夜な彼女が数名の男性を引き連れて鍵を閉め、祭壇の前で酒宴と乱行に耽る――そのような話が囁かれていた。
実際に見た者がいるのかは定かではないが、従者たちの怯えた表情や、神殿の床にこぼれた酒の痕、妙に乱れた花束などを考えれば、あり得ない話ではないだろう。
神殿で乱行に耽るなど、明らかに女神への冒涜行為でしかない。しかしモルガーナにとって、聖域を踏みにじることすら快楽の一部なのかもしれない。
「私に女神の力があるなら、これくらい何でもないでしょう? 本当に怒るなら、もっとわかりやすく示しなさいな。――ああ、ミレディアが追放されたときのようにね?」
そんな彼女の嘲笑は、徐々に天へ届いていく。そして天は、静かに牙を剥きはじめていた。
女神の啓示:天を裂く雷鳴
ある夜、王都に異常な雷雲が発生した。まるで空全体が漆黒に染まったかのような暗闇の中、ギラギラと光る稲妻が容赦なく走り、やがて雷鳴が大地を震撼させる。
ひときわ大きな落雷の音がとどろいた瞬間、大神殿の尖塔に雷が直撃した。石造りの尖塔は崩壊し、瓦礫が大神殿の屋根を突き破る。
その時、中で祈祷をしていた神官たちが一斉に悲鳴を上げ、逃げ惑う。しかし、さらに連続した稲妻が建物を穿ち、祭壇付近の柱が次々に崩れていく。
王宮中が騒然となり、衛兵たちが駆けつけるも、火花が散る神殿内にはそう簡単に近づけない。まるで神殿全体が何らかの力によって破壊されているかのように見えた。
その場に居合わせたある侍従は、地面に伏せながら震える声で叫んだ。
「こ、これは……女神の……怒り……! もはや……もはや、この国は……!」
まさしく、それは神の裁きとでも言うべき光景だった。ミレディアが追放されて以来、荒廃しつつあった王国に対し、女神が直接鉄槌を下したように感じられたのだ。
大神殿の屋根は大きく崩落し、雷鳴が轟くたびに火柱が上がって、宵闇の空を赤黒く染めていく。崩れ落ちる壁からは、モルガーナの肖像画が焼け焦げて落ち、破れた布が舞い散る。
しかも恐ろしいことに、その雷はまるで“狙った”かのように、モルガーナの装飾品や肖像が飾られた場所ばかりを集中して打ち砕いていた。まるで「お前こそが偽聖女だ」という神の意志を、雷が示しているかのようだった。
モルガーナ自身は、雷鳴が最も激しかったそのとき、王宮の奥で開いていた夜会に参加していたため、直接の被害は受けなかった。
しかし、急報を受けて神殿の様子を確認したとき、彼女はさすがに表情を硬くした。
「こんな……バカな……。どうして私の神殿が……」
神殿の崩壊は、まさしく神を冒涜した報い、と言わんばかりの凄惨さで、天井や壁が瓦礫と化して散乱し、火の手が上がる。
周囲の兵士や神官たちは恐怖に慄き、誰もが「女神が怒りを表したのだ」と心の内で叫んでいた。それを口にすれば、モルガーナに粛清されるかもしれないからだ。
ところが、モルガーナは雷雨の中で半狂乱に叫びながら、崩れかけた神殿の入口へ足を踏み入れようとする。
「こんなこと……あり得ないわ! 私は聖女なのよ!? 女神の加護を受けているはずなのに……どうして……」
彼女の髪は雨に濡れ、化粧が崩れている。その横顔には、いつもの妖艶さは微塵もない。そこにはただ、現実を受け入れられない哀れな姿があるだけだった。
破滅への引き金:貴族たちの決起
大神殿の崩壊から数日後、王都は混乱の極みに達していた。雷を伴う嵐によって被害は甚大で、しかもモルガーナが関係する建物や部屋に限って、奇妙なほどの集中被害が報告されていたからだ。
もはや誰の目にも明らかだった――**「女神の怒りは、モルガーナに向けられている」**と。
すると、その噂はたちまち広まり、ついに抑圧されてきた人々の恐怖が怒りへと変質していく。
「偽聖女め! お前のせいでこんなことに……!」
「もうモルガーナの好きにさせるな! あんな女、焼き払ってしまえ!」
下町の住民たちの間では、夜陰に乗じて暴動を起こす者まで現れるようになった。貴族たちの中にも「今こそ彼女を討たねば、共倒れになる」と立ち上がろうとする者がいる。
こうして王宮に対する抗議は各地で激化し、衛兵隊による鎮圧が追いつかなくなる。
それでも、王宮の内部はまだまとまりを欠いていた。王太子は動けず、モルガーナを恐れる者たちは依然として彼女を支持し続ける。貴族の有志や一部の騎士団が密かに連携を図り、神殿に囚われた老神官や反対派を救出しようと画策するが、モルガーナの配下によって寸前で阻まれるケースが続出した。
しかし、状況が大きく変わる出来事が起こる。
モルガーナの“愛人”として宮廷に取り入っていた男の一人が、彼女に切り捨てられそうになり、恐怖と復讐心から**「モルガーナの悪行の数々」を暴露**する書簡を知人に託したのだ。
そこには、王太子への毒殺未遂や貴族への恐喝、そして教会における冒涜行為などが詳細に記されていた。その書簡は一部の貴族グループに渡り、彼らはそれを証拠としてモルガーナ討伐の大義名分を高らかに唱え始める。
「このままでは王国が滅ぶ! 我らが誇りある騎士道にかけて、あの黒薔薇の魔女を討つべし!」
これが決起の合図となり、ついに王国のあちこちで反モルガーナの勢力が立ち上がる。農民や町民の一部もこれに同調し、暴動から武装蜂起へと発展する地域も出てきた。
こうなると、モルガーナも黙ってはいられない。王太子の名を利用して「反逆者はすべて処刑する」というお触れを出し、自らの私兵や忠誠を誓う貴族たちを動員して徹底的な鎮圧を行おうとする。
そこにはもはや“聖女”の慈悲など微塵も存在せず、血生臭い内戦の様相を帯び始めたのだった。
王太子の消滅:破滅する愛
反乱が激化するさなか、王太子レオポルドは宮廷の一角で自失状態に陥っていた。周囲は衛兵とモルガーナの私兵が固めており、彼自身はまるで人形のように扱われていたのだ。
ついに立ち上がった貴族たちが「王太子を救出せよ」と突入を試みるが、激しい攻防の末、彼らは王宮の外郭で止められてしまう。
その報告を聞いたモルガーナは苛立ち、王太子の寝室へと乗り込むと、無理やり彼を引きずり起こした。
「殿下、しっかりなさいな。あなたの兵が反乱軍を止めているというのに、そんなところで眠っている場合かしら?」
もはや彼女の口調に愛情のかけらは感じられない。王太子は虚ろな目でモルガーナを見上げる。
「モルガーナ……。もう、やめてくれ……。これ以上、血を流すのは……国が……滅びてしまう……」
その弱々しい言葉に、モルガーナは冷笑を浮かべる。
「殿下? 滅びるのは構わないの。私の望みは、この国を好きなようにすること。手に入らないなら、いっそ焼き尽くしてしまいたいわ」
そのあまりの暴言に、王太子は身震いする。自分が心を奪われた女性が、こんなにも冷酷だったとは――今更ながら、後悔が胸を刺す。
「ど、どうして……ミレディアを……あんな風に……。彼女は、本当に……聖女だったのに……」
思わず王太子の口から飛び出したミレディアの名に、モルガーナの表情が一瞬にして変わる。怒りなのか焦りなのか、形容しがたい表情だ。
「黙りなさい! あの女の名前を、私の前で二度と口にするんじゃないわ!」
凄まじい形相とともに、モルガーナは王太子の胸を思い切り突き飛ばす。王太子は床に倒れ込み、頭を強打した衝撃で意識を失いかける。
モルガーナはそんな彼を見下ろしながら唾棄するかのように言い放つ。
「ふん……役立たずね。仕方ないわ。あなたが目を覚まさないなら、私がすべてを支配するだけ」
そう言い捨て、モルガーナは乱れた黒髪をかき上げて部屋を出て行く。彼女の背中からは、もはやかつての艶やかな魅力など感じられない。あるのは、底知れない欲望と破滅への狂気だけだ。
王太子は床に倒れたまま、血を滲ませながら小さく呟く。
「ミレディア……。すまない……俺が……取り返しのつかないことを……」
それが、レオポルドの最後の意識だった。やがて彼は息も絶え絶えになり、その夜のうちに息を引き取ったという。モルガーナが王太子の死をどれほど悼んだかは、もはや語るまでもない。彼女は翌朝、平然と夜会を再開し、「殿下は病の悪化で崩御された」と発表するにとどまった。
女神の審判:モルガーナへの天罰
王太子の死後、王都はさらに混乱を極める。王位継承権をめぐる騒動が起こり、貴族たちは割拠状態となり、莫大な戦火が国内を覆う危険が高まってきた。
そんな中、モルガーナは自ら「摂政」を名乗り、王太子亡き後の国政を握ろうとする。だが、その権勢も長くは続かなかった。彼女のもとに集まる兵士や貴族が、日に日に減少していったのだ。
理由はただひとつ――「女神の怒りを買った女」という烙印が、モルガーナの存在に重くのしかかるようになったからである。あの大神殿崩壊の夜から、人々は確信していた。モルガーナこそが偽聖女であり、彼女の行いこそが女神の怒りを招いているのだと。
そして、決定的な瞬間が訪れる。摂政を宣言したモルガーナが大神殿の廃墟に立ち、支配力を誇示しようとしたそのとき――眩い光が天から降り注いだのである。
雷ではない。まるで天上から一筋の煌めく柱が落ちてきたような、それは神聖な光だった。周囲にいた兵士や神官たちは目を開けていられず、その場に倒れ込む者も現れるほどの輝き。
次の瞬間、光の中心にある女神像――崩れ落ちた柱の下からかろうじて姿を残していた像が、奇跡のように淡い光を放ちはじめた。
「ば、馬鹿な……。これが女神の……力……?」
モルガーナが目を見開く。しかし、その光は容赦なく広がっていき、彼女の身体を包み込む。黒薔薇のドレスを裂くかのように、いくつもの奔流が体を貫き、周囲の者たちは「ぎゃああ!」と悲鳴を上げながら後ずさる。
モルガーナ自身も、この力にどう抗えばいいのかわからない。焦げるような痛み、そして身体の奥深くをえぐられるような激痛が襲い、思わず悲鳴を上げる。
「いや……いやああああ! 私は……聖女なのよ……! こんなの、嘘よ……!!」
その叫び声も虚しく、光はさらに輝きを増し、モルガーナを完全に覆い尽くした。次に人々が見たとき、モルガーナの美貌は見る影もなく醜く変貌していた。肌はただれ、黒髪は焼け焦げ、瞳には狂気が宿る。
怯えた人々はそれが神の裁きによるものだと悟った。これまでモルガーナに蹂躙され、苦しみ、恨みを抱いていた者たちが、一斉に彼女に向かって罵声と呪詛を投げかける。
「偽聖女め! お前のせいで、どれだけの人々が死んだと思っている!」
「許さない……。地獄に堕ちろ……!!」
モルガーナは光の柱に縛り付けられたまま、両手を振り回して逃れようとするが、まるで見えない鎖が彼女の体を拘束しているかのように一歩も動けない。
歪んだ口元から悲鳴にも似た声が漏れる。
「助けて……誰か、私を……! 私は……聖女……なの……!!」
しかし、その言葉に耳を貸す者はいない。周囲の全員がモルガーナを忌み嫌い、呪詛を吐く。まさに怨嗟の塊が彼女を囲み、光がさらに強くなるたびに、モルガーナの叫びはかき消されていく。
そして、光が消えたとき――モルガーナは地面にうずくまり、完全に意識を失っていた。彼女の肌は見るも無残に焼けただれ、その瞳には生気がまったく感じられない。女神の天罰が降りた瞬間だった。
呪われし末路:永遠の苦しみ
モルガーナは一命こそ取り留めたものの、その日を境にあらゆるものを失った。
美貌も地位も、そして取り巻きの貴族たちも、誰一人として彼女を庇う者はいない。王太子はすでに死に、モルガーナが築いた権力の体系は一夜にして瓦解した。
なにより、彼女の身体には女神の刻印とも言える不気味な痣が浮かび上がり、それが絶え間ない痛みを引き起こすのだ。どれだけ治療を施しても、その痣は決して消えない。さらに、あの光を浴びた瞬間から、モルガーナは人々の呪詛を“直に感じる”という奇妙な苦しみに苛まれている。
彼女の耳には常に、人々の怨嗟の声や憎しみの言葉が聞こえてくる――たとえそこに人がいなくても。幻聴なのか、あるいは本当に怨霊が囁いているのかはわからないが、いずれにせよモルガーナの精神を蝕むには十分な苦痛だった。
「いや……やめて……もう許して……誰か、助けて……」
昼夜を問わず叫び続けるモルガーナを見て、人々は「あれが偽聖女の成れの果てだ」と憐れみを込めて、あるいは嘲りをこめて噂する。
最終的に彼女は、王都郊外の隔離施設とも呼べるような修道院跡へと移され、そこに幽閉される形となった。治療もなされず、ただ最低限の食事と水だけが与えられ、死ぬことさえ許されない。
「モルガーナ、お前は女神の裁きと人々の呪いを、その身で永遠に受け続けろ」
かつて彼女に苦しめられた貴族たちや、兵士たちが言い放つ。誰もが、その罰を当然だと思っていた。
こうして、黒薔薇の偽聖女モルガーナは、すべてを失い、女神の天罰による永遠の苦しみを負うことになったのである。
彼女のうめき声と懺悔の叫びは、薄暗い修道院跡にこだまする。だが、そこに救いの手を差し伸べる者はもういない。「あなたの悲願は報われることなく、ただ永遠の呪縛に囚われるがいい」――それが、女神と人々が下した裁きなのだから。