王国から真の聖女ミレディアが追放されて、まだ日は浅い。
それでも、王都の空気はすでに変わり始めていた。いや、「変わってしまった」と言うほうが正しいのかもしれない。
街を行き交う人々の表情はどこか暗く、喜びの声や笑顔が減っている。これは天候や季節のせいなどでは決してなく、まるで見えない重苦しい雲が王都全体を覆い始めたような、そんな不可解な空気だった。
しかし、王宮に足を踏み入れると、その重苦しい雰囲気は一変する。広大な回廊には、見目麗しい貴族や廷臣たちが華やかな衣装を纏い、様々な噂話や駆け引きを楽しんでいた。
彼らの目的はただひとつ。――聖女の座に就いたモルガーナに気に入られること。
今や王都では、モルガーナこそが新しき聖女として君臨していた。ミレディアがいなくなった教会の頂点に立ち、王太子レオポルドの寵愛も思うがままに受け、宮廷で最も高い地位を手にしたのだ。
大司教をはじめとした教会の古参たちは、まだモルガーナを認めてはいない。だが、王太子が「聖女はモルガーナだ」と強く言い張る以上、教会は逆らえない。ミレディアを偽聖女と断じた手前、いまさら「やはりミレディアが正しかった」などとは言えない苦しい立場に置かれていた。
モルガーナはそんな状況を思う存分に楽しんでいた。
まず彼女が行ったのは、王宮の内装を華美に飾り立てることだった。
「こんな古臭いタペストリーはすべて外して。もっと鮮やかな色合いのものに変えてちょうだい」
「庭園の噴水には、香料を混ぜた水を流しましょう。あら、もちろんお金ならいくらでも用意できるわよ」
教会や王宮に蓄えられていた資金、さらには王太子が国庫から援助した莫大な財産を、モルガーナは湯水のごとく使い始めた。
絢爛豪華なドレスや宝石を大量に購入し、日々の宴会では最高級の酒と料理を振る舞う。王太子の勅令を使って従わない貴族たちからも無理やり寄付を徴収し、自らの欲望を満たしていく。
きらびやかな衣装をまとったモルガーナは宮廷の中心に立ち、黒い髪を揺らしながら優雅に笑う。その姿は確かに美しく、目を奪われるほどの妖艶さを放っていた。
「聖女モルガーナ様、今日もお美しい……」
誰からともなく賛美の声があがる。
モルガーナは緩やかな動作で振り返り、紅い唇を弧に描く。
「ありがとう。けれど、私の美貌など女神の祝福に比べれば取るに足らないもの。――そうは思わなくて?」
そう言いながら、小首をかしげて笑う姿は、男性ならずとも心を射抜かれそうなほど妖艶だった。
「いえいえ、そんなことはありませんとも! モルガーナ様の美しさこそまさに奇跡――」
取り巻きの貴族たちは一斉に口をそろえ、言葉巧みにモルガーナを褒め称える。従来ならば聖女を賛美するような言葉とは程遠い、まるで下品なゴマすりでしかないが、彼らはそんなことを気にも留めない。モルガーナと近づき、その庇護を得れば、権力を得られるかもしれないと信じて疑わないのだ。
モルガーナの心中は、快感と優越感に満ち溢れていた。
――そう、この国で最も権力を持つのは私。女神の名を騙ってみせたところで、誰も異論を挟めない。ミレディアは追放され、もうどこにいるかもわからない。
追放の一報が国中に伝わったとき、一部の者たちは泣き叫んだが、それも一瞬の嵐のようなもの。結果として、今、王都を牛耳っているのは自分だ。モルガーナは心の中で高笑いを上げる。
「ふふ、こんなに簡単に事が運ぶなんてね。あの愚かな王太子も、私の言葉ひとつで動くのだから造作もないわ」
王太子レオポルドは相変わらずモルガーナに夢中で、政治の実権を彼女にほとんど預けているに等しい。いや、王太子がモルガーナに執心している間に、実質的な国政は停滞していると言っても過言ではない。
レオポルドは表向きは「自分がモルガーナを支え、この国を治める」と言っているが、実際はモルガーナに振り回されるだけの日々を送っていた。彼がすべきはずの政務は山積みのまま放置され、次々と宰相や大臣たちが助言を求めに来るが、王太子は会議にも顔を出さず、モルガーナと宮殿の一室に閉じこもっていることが多かった。
そんな傍若無人な振る舞いがまかり通るようになった理由の一端には、「ミレディアがいなくなった」という事実がある。
以前なら、ミレディアが王太子にささやかな助言をし、教会の重鎮たちもミレディアを介して王家とのパイプを保っていた。彼女は国の潤滑油のような存在で、誰もがその導きと癒しを求めていたのである。
だが、そのミレディアがいなくなった今、王太子を諫める者はいない。モルガーナへの不審を抱く者がいても、彼女の手元にいる神官兵や宮廷警護隊が睨みを利かせているため、反対意見を言い出すことすらできない。
結果として、貴族たちはモルガーナに従うしかなく、しかも彼女が放つ妖艶な魅力に囚われた者から順に、破滅の道を進むことになる。
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黒薔薇の欲望:男漁りの日々
モルガーナの悪行のひとつとして、特に周囲を震え上がらせたのは“男漁り”だった。
美貌と色香を武器に、彼女は既婚未婚を問わず、多くの貴族男性を次々と誘惑する。
「貴方、婚約者がいるのですって? あら、そんなの関係ないわ。私が気に入ったなら、いくらでも理由をつけて別れさせることなんて、造作もないじゃない?」
ある晩餐会で、モルガーナはある若い子爵を気に入り、露骨に誘惑の言葉をかけた。子爵はすでに恋人と婚約しており、周囲の貴族たちはさすがに眉をひそめる。だが、モルガーナはお構いなしだ。
結局その子爵は、モルガーナの要求に逆らえず、その日のうちに婚約者へ一方的に破談を告げる手紙を出させられたという。
同様の事件は、ほかにも数え切れないほど起きていた。
美貌の伯爵令息を見初めれば、父親ごと靡かせて財産を奪い、気が済めば捨てる。また、ある騎士団長を誘惑しては、夫人に離縁を突きつけさせ、さらに夫人の実家の資産を巻き上げる。
モルガーナの贅沢三昧を支える莫大な資金は、王太子の国庫からの援助だけに留まらない。こうした形で、彼女に惚れ込んだ男たちが“自発的”に捧げる財産も多かったのだ。
そんな理不尽な行いに対して、「おかしい」と声を上げる貴族も、当初は幾人か存在した。
しかし、そういった人物はモルガーナによって「王太子に反逆した」という形に仕立て上げられ、ある者は爵位を剥奪され、ある者は投獄され、またある者は不審死を遂げてしまった。
こうして宮廷内には恐怖が広がり、誰もモルガーナに逆らえなくなる。周囲の者たちは、彼女を褒め称えるか、あるいは関わらずに距離を置くかの二択を迫られた。
だが、モルガーナと距離を置いていても安全とは言えない。モルガーナが「面白そう」と思った相手は、たとえ奥方がいようとも容赦なく奪い取ろうとするからだ。
「既婚者? 知りませんわ。そんなもの関係なく私のものにしてみせる。ふふ、私が欲しいと思ったら、絶対に手に入れるわ」
そう妖しく呟くモルガーナに追い詰められて、泣き寝入りする夫人や令嬢も増えていった。むろん、モルガーナの気まぐれで捨てられた男たちの末路も悲惨だ。彼女の機嫌を損ねれば、爵位や財産を奪われるだけでなく、社会的信用さえも失い、破滅へと至る。
「モルガーナ様がそこまで……。これも女神のご意思なのか……?」
多くの貴族たちは、本心では疑問を抱いていても、モルガーナの“聖女としての権威”を真っ向から否定できない。なぜなら、彼女の背後には王太子の権力があるからだ。
こうして貴族社会は大混乱の渦に飲み込まれ、誰もが生き残るためにモルガーナに媚び、あるいは絶望の淵に沈むことになる。
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加護を失った王国:広がる異変
一方、国全体に目を向けると、不可解な出来事が相次いで起こり始めていた。
まず、作物の不作が深刻化する。王都近郊の農地では、例年なら豊富な穀物が採れるはずなのに、芽吹きが悪く、病気にかかったように枯れ落ちていくという報告が頻発する。
さらに、家畜が原因不明の疫病にかかって次々と死んでしまう牧場もあった。獣医や専門家が対処に追われても、従来なら聖女が施す「浄化の奇跡」が見込めず、被害は拡大する一方である。
農村からは「このままでは冬を越せない」「餓死してしまう」と嘆きの声が上がっていたが、王都の宮廷はそれを真剣に取り合おうとはしなかった。王太子はモルガーナに夢中で、彼女は「私にはそうした病を癒す奇跡などないわ」と開き直るばかり。
かつてはミレディアが農民や貧困層のもとへ足を運び、聖女として力を使い、祈りを捧げ、病や災厄を和らげていた。だが、今はそのミレディアがいない。
莫大な寄付を集める教会も、モルガーナに押さえつけられ、まともに動けない。最も信頼されていた高司祭たちは、ミレディア追放の件で権威を失い、いまや意気消沈しているのだ。
さらに都市部では、疫病が流行の兆しを見せ始めていた。まだ初期段階とはいえ、発熱と呼吸困難を引き起こす新種の感染症が散発的に発生し、一部の下町では死者が出るほどの勢いに達していた。
これまでも、国のどこかで疫病が発生したことはあった。しかし、従来なら聖女ミレディアが現地に赴き、浄化の奇跡や回復の祈りを捧げることで被害を最小限に抑え込むことができていたのだ。
ところが今は、「新たな聖女」を名乗るモルガーナが一度も下町に足を運んだ形跡はない。彼女の取り巻きですら、下町の現状をまともに伝えようとしない。
都市の貧民層は恐怖に震え、ある者は教会に駆け込もうとするが、警備兵に追い払われることすらあるという始末だ。
「どうして聖女様は助けてくださらないんだ……」
「まさか、本当にあの方は聖女ではないのでは……」
そんな声が弱々しく囁かれ始めても、王都全体がモルガーナの支配下にある以上、大きな抗議運動が起きることもなく、事態は悪化の一途をたどっていた。
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嘆きの声とモルガーナの高笑い
モルガーナはこれらの報告を聞いても、まったく動じる様子を見せない。
むしろ、自分の権勢が揺るぎなくなっていくことに悦びを感じていた。
「作物の不作ですって? まぁ、農民たちが怠けているのではなくて?」
「疫病? そんなもの、元々この国にあった厄介事でしょう。私にどうしろと言うの?」
そう言い放ち、宮殿の広間で開かれる夜会では、美酒を喉に流し込みながら笑う。周囲の廷臣たちは困惑しつつも、モルガーナに同調するしかなかった。
王太子ですら、下町の惨状を伝え聞いて苦い顔をすることはあるが、モルガーナの艶やかな指先で頬を撫でられれば、一瞬でその憂いは消えてしまう。
「殿下、そんなに深刻そうなお顔をなさらないで。ね? この国は私たちが支えてあげればいいんですもの。全部うまくいきますわ」
上目遣いに微笑むモルガーナの姿に、王太子はすっかり意識を奪われてしまう。
「そ、そうだな……。お前がいれば、この国は……大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるような言葉を呟き、王太子はモルガーナの肩を抱く。周囲の廷臣たちはその様子を見て、胸を痛める者と、したり顔で傍観する者に分かれる。けれど、誰も何も言えない。
こうして、モルガーナの独壇場は続いていく。
彼女はさらに貴族の男たちを誘惑しては、甘い時を過ごし、そして飽きれば捨てる。その余波で財産を失った貴族の家門が没落し、復讐に燃える者も出てくるが、モルガーナに歯向かおうとすれば、王太子が支持する宮廷警護隊が容赦なく制圧する。
時には「モルガーナを聖女と認める嘆願書にサインせよ」という圧力が貴族たちに回覧され、署名しなければ莫大な税を課すなど、事実上の強制が行われていた。
教会内でも、大司教や高司祭の多くが降格や辞任に追い込まれ、新しくモルガーナに取り入った者が要職を与えられるというありさまだ。こうして教会は完全にモルガーナに支配され、「女神の加護」を祈る場が「モルガーナを崇める場」へと形骸化していく。
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モルガーナへの疑い:王国内部のささやき
とはいえ、王国全土の人々がモルガーナを心から崇めているわけではない。特に農村や下町の人々は、**「あの方は本当に聖女なのか?」**という疑問を持ち始めている。
なぜなら、もしモルガーナが真の聖女であれば、過去のミレディアのように奇跡を見せて、王国の危機を救ってくれるはずだ。それがまったく行われないどころか、王都の貴族たちは贅沢に明け暮れる一方で、農民や貧民たちは飢えや疫病に苦しんでいる。
「何かがおかしい……」
そう感じる人々の間には、ごく密かにある噂が広まっていた。
「追放されたミレディア様は、実は偽聖女ではなく、本当の聖女……いや、女神の御使いだったのではないか?」
もちろん公言すれば、王太子とモルガーナの逆鱗に触れるのは必至だ。それでも、救いを求める民衆の中には、かつてミレディアに助けられた経験を忘れられない者たちがいる。彼らは小声で、その事実を確かめあうように囁くのである。
一方、貴族の中にも、心の底ではモルガーナに疑念を抱いている者たちが存在した。
しかし、大半の貴族はモルガーナの恐怖政治に屈し、表立って反対意見を述べられない。わずかに残った数名の勇敢な貴族たちは、王太子に進言しようとしたが、相手にされることはなかった。
「殿下、このままでは国が危ないのです。農民は飢え、疫病が蔓延し、治安も乱れて……」
「うるさい! ミレディアが偽聖女だったからこそ、今の混乱があるのかもしれない。だが、モルガーナなら何とかしてくれる。お前たちは黙っていろ!」
こうして王太子は“現実”を見ようとせず、モルガーナの言葉だけを信じ続ける。
そんな閉塞的な状況下で、静かに、しかし確実に、王国は崩壊の道を進み始めていた。
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王太子とモルガーナの危うい関係
王宮の奥深く、豪華な調度品が並ぶ寝室で、モルガーナは王太子の腕の中に身を横たえる。
夜の闇が濃密に漂い、部屋に灯る燭台の明かりだけが、二人の影を壁へと映し出していた。
モルガーナは王太子の頬を撫でながら、薄く笑う。
「ねぇ、レオポルド殿下。最近、お疲れのご様子ではなくて?」
「う……。ま、まぁな。宰相がいちいち“国政が大変だ”などとうるさくて……。お前がもっと宮廷会議に出てくれれば、あいつらも黙ると思うのだが」
「嫌ですわ。私は聖女ですもの。会議なんて退屈な場に顔を出すより、祈りと儀式に専念しなくては。――まぁ、実際には祈りなんてしていませんけれど、ふふっ」
からかうように言い放つモルガーナに、王太子は苦い表情を見せる。それでも、彼女の手の感触から離れられない。
「本当に、このままでいいのか……? 民の苦しみの声が、最近耳を塞いでも入ってくる。俺にはどうすれば……」
「……そんなに気になるのなら、お金をもっと出してあげればいいじゃない?」
「もう、とっくに国庫は厳しい状況だ。ミレディアを追放するときに、いろいろ出費が増えたからな……」
「私に言われても困りますわ。殿下が考えてくださらないと……。――それとも、私の可愛い子猫ちゃんに相談してみる?」
モルガーナは妖しく笑い、王太子の首筋に唇を寄せる。王太子は身動きを止め、心拍が高まる。
「子猫……? お前、また誰か飼い始めたのか?」
「あら、言ったかしら。ふふ、でも心配ご無用よ。私の可愛い玩具は、殿下に刃向かうようなことはしないわ。私だけを見て、私だけの言うことを聞いてくれる……お人形のように可愛い男の子よ」
その無遠慮な告白を聞かされ、王太子は一瞬、顔をこわばらせる。
「お前……。まさか、また他の男を……」
「仕方ないでしょう? 殿下はいつも忙しくて、私を退屈させるんですもの」
まるで悪びれた様子もなくそう言い放ち、モルガーナはベッドからすっと立ち上がる。薄い夜着が床を滑り、彼女の黒髪が闇に溶けるように揺れる。
「それでも、殿下のことは大切に思っていますわ。だから、私の言うとおりにしてくださるなら、私も貴方を捨てたりはしない」
妖艶な笑みを浮かべる彼女に、王太子は言葉を失い、ただ唇を噛みしめるしかなかった。
――彼女が既に何人もの男を弄び、破滅に追い込んできたことは承知している。それでも惹かれてしまうのは、モルガーナが放つ“魔性”のような力に捕らわれているからだろう。
結果的に王太子はモルガーナの言葉に逆らえず、ますます彼女の欲望を満たすために国庫の財布の紐を緩めていく。
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地下牢の囚人と一枚の手紙
王宮の地下牢には、モルガーナに逆らって投獄された者たちが増え始めていた。反抗した貴族、彼女の男漁りを糾弾した神官、あるいはモルガーナの秘密を掴んでしまった使用人など……。
暗く冷たい独房に閉じ込められた彼らは、もはや裁判を受けることもなく、外界から忘れられたも同然の扱いを受けている。食事は粗末なパンと水だけ、看守の目は厳しく、病に倒れる者が続出した。
その中に、ある老神官がいた。彼はかつてミレディアが幼少の頃から面倒を見ていた神官のひとりであり、ミレディアの追放劇を「明らかな不正だ」と声を上げた結果、投獄されてしまったのだ。
老神官は牢の床にうずくまり、暗がりの中で女神の名を唱えながら、ひそかにある手紙を握りしめていた。
手紙の内容は短く、しかし重大な事実を示すものだった。それは――ミレディアが実は「女神の御使い」であり、彼女が追放されたことで王国が重大な危機に直面していることを訴える言葉が綴られていた。
本来ならこの手紙を王太子や有力な貴族に渡し、ミレディアの潔白と真実を伝えようとしたのだが、老神官は捕らえられる寸前に手紙を隠し持ち、今もそれを所持している。
「女神よ……どうか、私にもう少し力をお与えください……。この手紙を誰か、信頼できる方のもとへ……」
しかし、看守の目は厳重で、老神官は病に侵されながら、身動きすらままならない。やがて看守が現れると、彼は慌てて手紙を衣の下にしまい込み、身じろぎもせずやり過ごす。
看守は嫌味な笑みを浮かべて言う。
「何だ、お前。まだ生きてるのか? 早いとこくたばっちまえ。そこから出られる見込みなんてないんだからな」
老神官は何も言わない。ただ、必死に神への祈りを捧げるだけ。
――願わくば、この手紙が、いつの日か光を取り戻してくれる人々の手に渡らんことを……。
その思いが叶うかどうかは、まだ誰にもわからない。
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遠く離れた地にて――追放された聖女の消息
その頃、追放されたミレディアは、まだ王国の外れをかろうじて越えた辺りを放浪していた。実際には第2章の中心は“王国側の混乱”を描く内容であり、ミレディアの描写は多くはないのだが、ここで少しだけ彼女に触れておこう。
ミレディアは王太子の兵士に監視されながら国境を越えさせられたが、途中で何者かの助けを受け、一人きりで逃亡することに成功したのだ。兵士が追っ手をかけなかったのは、モルガーナが「別に生死は問わないわ。どこかで死んでくれればそれでいいのだから」と言い放ったからだとも言われている。
だがミレディアは、女神の御使いとしての力を完全に失ったわけではなかった。むしろ、不遇の境遇に置かれてもなお、行く先々で小さな奇跡を起こし、旅の途中で出会った人々を癒していた。
彼女は自分を救ってくれた恩人のもとに匿われ、しばしの安息を得るとともに、自分を追放した国の行く末を案じて静かに祈りを捧げる。いずれ、ミレディアが本格的に物語に再登場する日は、遠くないかもしれない。だが、そのとき王国はどれほどの混乱と破滅に直面しているのか――。
それはまだ誰も知らない未来の出来事である。
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崩壊の序曲
こうして、ミレディアを失った王国は、モルガーナの独裁と豪奢な宴が続く一方で、民衆は生活苦と疫病に脅かされていく。
貴族たちは恐怖に支配され、モルガーナに従うか、破滅するかの二択。王太子は彼女の色香に惑わされ、国庫の残りもわずかになりつつあるという報告にも耳を貸そうとしない。
教会はすでに形骸化し、女神の加護はどこへやら、神殿にはモルガーナを礼賛するかのような装飾が施される始末。
――しかし、人々の嘆きや恨みは着実に蓄積していた。無理やりモルガーナに奪われた婚約者や夫を持つ女性たちの怨嗟、没落した貴族の怒り、疫病や飢えに苦しむ民の悲鳴、それらはいつしか巨大な暗い渦となり、王都の下でうごめき始める。
何かが起きる、そしてそれは小さなものでは済まない――。そう薄々感じながらも、モルガーナは全く意に介さない。むしろ彼女自身、どこかで破滅を望んでいるかのような振る舞いさえ見せる。
「私が手に入れられないものなどない。欲しいものを好きなだけ貪り尽くして、それで国が滅びようと構わないわ。――だって私は“聖女”なんですもの」
そんな彼女の高笑いは、やがて天にも届くほど大きくなるかもしれない。しかし、それを女神が、そして追放された真の聖女ミレディアが黙って見過ごすはずもないだろう。
異変の連鎖が加速し、王国中に不穏な影が広がるこの時期こそ、崩壊への序曲である。
次なる章では、さらに王国が大きく揺らぎ、モルガーナの悪行が頂点を迎えたとき、女神の怒りが雷鳴のごとく轟き、運命の歯車が回転を速めていくことだろう。
そしてそのときこそ、人々は真に気づくのである。
――ミレディアこそが女神の御使いであり、モルガーナこそが偽聖女であったという事実を。
けれど、その“目覚め”はあまりにも遅すぎる。多くの破滅が、痛ましい犠牲が、国中を覆い尽くしたあとでしか、救済の光は射さないのだろうか。