花宴の前日。
朝露が石畳を濡らす時刻、屋敷はまだ眠りのなかにあった。
紫乃は、ひとり箒を手にしていた。
掃き清めるのは自室だけではない。廊下の隅、障子の桟、祈祷の間の神棚の下──人目につかぬ場所まで、丹念に掃き拭いていく。
さっさっ。
静かな箒の音が、朝の静けさの中に響く。
(神さまは、きっと、どこにでもいらっしゃる)
紫乃は心のなかで、そう呟いた。
箒を置くと、懐からお守りを取り出す。藤真がくれた藤の守り。彼のまっすぐな信頼が、彼女の心に力を与えた。
清めを終えると、紫乃は台所に立った。
籠に並ぶ
「……お母様、お好きでしたよね」
指先は慣れた手つきで芽を摘み、葉を刻む。
春の香を包んだ湯気が立ちのぼり、部屋の空気をやわらかく染めていった。
食事を届ける際、紫乃は両手で膳を差し出し、目を見て言葉を添えた。
「いつも、ありがとうございます」
言葉は小さくても、そこには揺らがぬ真心があった。
最初は戸惑っていた女中たちも、次第に笑みを返すようになっていた。
「……紫乃さまは本当に、お変わりになった」
そんな声が、背中越しに聞こえたとき──
紫乃は手を止めて、ゆっくりと振り返った。
廊下の端、柱の陰に佇むひとりの老婆。
神祇院の老巫女であった。
老巫女は、長く刻まれた皺の間から穏やかな眼差しをのぞかせ、にじむように言った。
「紫苑は、誰も見ぬところでも咲く花だ。紫乃さまの祈りは、その花にそっくりだよ」
紫乃は、言葉もなくただ頭を下げた。
その頬に、春の陽があたたかく射し込んだ。
「もう届いておるよ。……あなたさまの祈りは、ちゃんと花に」
紫乃の胸の奥に、静かな水音のような確信が広がっていく。
それは「自分を信じてもいい」という、ひとすじの光だった。
*
そのころ、撫子は自室の鏡台に向かっていた。
「白百合の飾りがよろしいでしょう。撫子は『美と可憐の象徴』ですもの」
母の声は甘やかで、どこまでも自信に満ちていた。撫子は鏡越しに笑いかける。いつも通りの優雅な微笑であったが、その胸の奥に、小さなざらつきが残っていた。
(……女中たちが、姉さまを見直していた)
風に舞う花のように、ささいな変化。
そのはずなのに、どうしても気に障った。
母が扇で風を送り、香の煙が髪に宿る。
「何も怖れることはないわ。あなたの花精は、必ず現れる」
撫子は鏡の中の自分に目を凝らす。
栗色の髪、白磁の肌、整った顔立ち。
「私が選ばれなければ、意味がないの」
撫子は鏡の中の自分を見つめ、唇の端をきつく結んだ。白百合の飾りが揺れるたび、胸のざらつきが疼いた。
その夜、屋敷の上空には一輪の月が浮かんでいた。
風はやわらぎ、春の花々は沈黙のなかで蕾を震わせている。
紫乃は神棚の前に立ち、そっと目を閉じた。
明日、彼女の祈りが、どんな色を放つのか。
月光の下、紫苑の蕾が今にも咲こうとしていた。