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七之章 花はまだ咲かずとも

 花宴の前日。


 朝露が石畳を濡らす時刻、屋敷はまだ眠りのなかにあった。


 紫乃は、ひとり箒を手にしていた。

 掃き清めるのは自室だけではない。廊下の隅、障子の桟、祈祷の間の神棚の下──人目につかぬ場所まで、丹念に掃き拭いていく。


 さっさっ。

 静かな箒の音が、朝の静けさの中に響く。


(神さまは、きっと、どこにでもいらっしゃる)


 紫乃は心のなかで、そう呟いた。


 箒を置くと、懐からお守りを取り出す。藤真がくれた藤の守り。彼のまっすぐな信頼が、彼女の心に力を与えた。


 清めを終えると、紫乃は台所に立った。

 籠に並ぶわらびふきを見つめ、淡く笑みを浮かべる。


「……お母様、お好きでしたよね」


 指先は慣れた手つきで芽を摘み、葉を刻む。

 春の香を包んだ湯気が立ちのぼり、部屋の空気をやわらかく染めていった。


 食事を届ける際、紫乃は両手で膳を差し出し、目を見て言葉を添えた。


「いつも、ありがとうございます」


 言葉は小さくても、そこには揺らがぬ真心があった。


 最初は戸惑っていた女中たちも、次第に笑みを返すようになっていた。


「……紫乃さまは本当に、お変わりになった」


 そんな声が、背中越しに聞こえたとき──

 紫乃は手を止めて、ゆっくりと振り返った。


 廊下の端、柱の陰に佇むひとりの老婆。

 神祇院の老巫女であった。


 老巫女は、長く刻まれた皺の間から穏やかな眼差しをのぞかせ、にじむように言った。


「紫苑は、誰も見ぬところでも咲く花だ。紫乃さまの祈りは、その花にそっくりだよ」


 紫乃は、言葉もなくただ頭を下げた。

 その頬に、春の陽があたたかく射し込んだ。


「もう届いておるよ。……あなたさまの祈りは、ちゃんと花に」


 紫乃の胸の奥に、静かな水音のような確信が広がっていく。

 それは「自分を信じてもいい」という、ひとすじの光だった。




 そのころ、撫子は自室の鏡台に向かっていた。


「白百合の飾りがよろしいでしょう。撫子は『美と可憐の象徴』ですもの」


  母の声は甘やかで、どこまでも自信に満ちていた。撫子は鏡越しに笑いかける。いつも通りの優雅な微笑であったが、その胸の奥に、小さなざらつきが残っていた。


(……女中たちが、姉さまを見直していた)


 風に舞う花のように、ささいな変化。

 そのはずなのに、どうしても気に障った。


 母が扇で風を送り、香の煙が髪に宿る。


「何も怖れることはないわ。あなたの花精は、必ず現れる」


 撫子は鏡の中の自分に目を凝らす。

 栗色の髪、白磁の肌、整った顔立ち。


「私が選ばれなければ、意味がないの」


 撫子は鏡の中の自分を見つめ、唇の端をきつく結んだ。白百合の飾りが揺れるたび、胸のざらつきが疼いた。


 その夜、屋敷の上空には一輪の月が浮かんでいた。


 風はやわらぎ、春の花々は沈黙のなかで蕾を震わせている。


 紫乃は神棚の前に立ち、そっと目を閉じた。


 明日、彼女の祈りが、どんな色を放つのか。


 月光の下、紫苑の蕾が今にも咲こうとしていた。

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