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六之章 神と花との結び

 翌朝、紫乃は早くに目を覚ましていた。


 まだ薄暗い屋敷の裏庭。風の音も聞こえぬ静寂のなか、彼女はひとり、箒を手にしていた。


 いつものように、庭の落ち葉を掃いてまわる。今日は心なしか、風の香りがやわらかい気がした。


 玄関先で誰かの足音がした。


 音に驚き、紫乃は立ち上がった。見ると、屋敷の女中が小さな包みを手に立っている。


「こちら、お届け物です。藤真さまから──昨夜のお礼にと」


 包みを開くと、小さなお守りと文。藤の花を模した刺繍が艶やかに光る。流麗な文字からは、墨の香がかすかに漂っていた。


『藤の守りだ。君の紫苑の、顕現を願って』


 紫乃の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。


 (……ありがとうございます)


 唇が自然とほころぶ。


(お母様……花宴を前に、わたしは少しずつでも、前に進めているのでしょうか)


 母の面影を胸に、紫乃はお守りを懐にしまった。ふと、母が遺した文机へと足が向いた。


 それから──紫乃は、和綴じの古い冊子を、再び手にしていた。


 母が大切にしていた『古今和歌集』の写本だった。


 表紙の墨跡はかすれているが、母とともに読んだあの夜のことが、まざまざとよみがえる。


(……お母様)


 手のひらで撫でるようにして開いた瞬間──


「まあ……まだそんな古いものに、すがっていらしたのね?」


 いつのまにか、撫子が背後に立っていた。


 紅い帯をしめた艶やかな着物姿。手には文机の上から無造作に取った菓子をつまんだまま、不敵な笑みを浮かべている。


「昨夜は、藤真さまと何をお話されていたの? そのご本について?」


 紫乃は、そっと背を伸ばした。


「これは、母が──」


「──存じているわ。はかなく散られた、あの御方の遺品ね」


 撫子はさらりと言い放つと、無邪気に笑った。


 そして、紫乃の手元の冊子にふと目を留めると、すっと手を伸ばした。


「わたくしにも触らせて?」

「……やめて!」


 紫乃が制止するより早く、撫子の指が表紙をつまんだ。


 ぱらり──


 撫子は、まるで扇子でも開くような手つきで、数ページを軽くめくった。


「……姉さまって、本当に不思議」

 撫子は笑みを浮かべたまま、まるで独り言のように呟いた。


「何も持っていないようで、なぜか『大切にされる』」


 撫子の指先が、和綴じの端にかすかに触れた、そのときだった。


 ぴりっ。


 まるで空気が裂けたかのような、乾いた音が室内に響いた。


 紫乃の瞳が見開かれる。


 和紙が、一枚。


 ふわりと、宙を舞った。


 風もないはずなのに、紙片はゆっくりと弧を描きながら、畳の上にひらりと落ちる。


 そこには、母が何度も口ずさんでいた恋の和歌──

 「忘らるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の 惜しくもあるかな」


 破れた歌の断片が、裂かれていた。


「まあ、破けてしまいましたわ……お大事にされていたのに。ごめんなさいね、姉さま」


「……っ」


「繊細なご本ですこと」


 そう言いながら、撫子は和歌集の頁を一枚一枚、丁寧に、爪先で裂いていった。


「姉さまの大切なものって、こんなに脆いのね」

 同情するように言いながら、その目には一分の揺らぎもない。


 母の声が宿る和歌集が、目の前で無惨に破れていく。紫乃の息が止まり、崩れ落ちそうになる。かすむ視界の端で、撫子が柔らかく微笑んだ。


「お可哀想に。ご自分では、それが『価値あるもの』だと……お思いだったのね?」


 その言葉は、慈悲に似せた毒だった。

 静かな声が、歪んで耳に響く。


 (どうして……どうして、こんなことが……)


 紫乃の中に、怒りと悔しさが、ぐらぐらと煮え立つ。


 撫子の瞳は、夜の底のように暗く澱んでいた。


「『過去』に囚われるのは苦しいこと。姉さまが前を向けるよう、願っていましたのよ」


 その声は、祈りにも似た呪いだった。


 紫乃の拳は、爪が食い込むほど強く握られていた。だが、その手を、振り上げることはできなかった。


 彼女に向けて手を上げた瞬間、自分のすべてが壊れる気がした。

 母が遺した名も、教えも──。


 「花は、強くなくてはいけませんよ。風に倒れそうになっても、根を張り、静かに咲くのです。まことの祈りは、花精に届きます」


 母の声が、耳の奥ではっきりとよみがえる。

 紫乃はぎゅっと目を閉じた。


 (お母様……!)


 震える手で、ちぎれた断片を一枚ずつ拾い上げ、胸に抱きしめた。


 「お母様……ごめんなさい。守れなかった……」


 喉が焼けるようだった。言葉にした瞬間、心が砕けてしまいそうで。


 でも、そうしなければ、立っていられなかった。


 (私は──花の名を持つ娘。紫乃として、生まれたのだから)


 怒りも、悔しさも、胸に飲み込んで。祈るしかなかった。

 花精に。母に。神に。


 「どうか、わたしに、力を……」



 その夜、祈祷の間。

 彼女は、不思議な夢を見ることになる。


 夢の中で、紫乃は知らぬ庭を歩いていた。 月明かりだけが頼りの、静かな夜。


 空は深い藍色で、地には草もなく、ただ砂利が広がっている。 しかし、その中央に一輪の花が咲いていた。


 紫。


 ほんのりと灯のように光るその花は、揺れていた。 風もないのに。誰もいないのに。


(紫苑……?)


 名を呼んだつもりだったが、声にならなかった。


 そのとき、空気が変わる。 背後から、何かが近づいてくる気配。


 振り返ると、そこに人のようで人でない存在が立っていた。

 透けるような衣に紫苑の花弁が揺れ、凛とした姿で佇む。その瞳は、深い紫の光を宿し、夜を貫いていた。


「……あなた」


 声は出ないはずなのに、なぜか届いていた。

 『それ』は、こくりとうなずいた。


「君の祈りは届いている」


 男とも女ともつかぬ声が、紫乃の中に流れ込む。


「苦しみも、嘲りも、怒りも、……すべて、見ている」


 紫乃の胸が、熱くなった。 涙が、ぽろぽろと落ちていく。


「でも、あなたは、祈りに応えてくださらない……!」


 そう叫んだとき、紫苑の花がゆらりと傾いた。


「花は、咲く場所を選べぬ」


 声が続く。


「だが、根を張ることはできる。 陽を求め、夜を耐え、己の色を、諦めぬ者に──神は宿る」


 その瞬間、花がひときわ強く、光を放った。 光は紫乃を包み、やがて視界が白く塗り潰されて──


 祈祷の間に戻っていた。


 紫乃の目の前に、あの花精がふたたび現れていた。


 風もなく、音もない。 ただそこに、確かに在る存在。


 花精は、声も発さず、ゆるやかに片手を上げた。

その指先から、ひとすじの光が静かに流れ出す。


 まるで月明かりを凝縮したかのような細い光は、ゆるやかに伸び、ひとところを指し示す。


 紫乃は、その光が指し示す先を見つめた。


(……ここを、示しているの?)


 そうして彼女は、示された場所──館の奥にある物置部屋へと足を運んだ。


 そこには、誰も寄りつかぬ古い帳面や文箱が静かに積まれていた。


 薄暗い中、埃をかぶった木箱をひとつひとつ開ける。 やがて彼女の手が、一冊の和綴じの古本に触れた。


「……これは」


 表紙に墨で記された『神と花との結び』。黄ばんだ頁からは、母の気配が漂うようだった。


 その頁をめくるたび浮かび上がるのは、見たこともない古文と、繊細な絵図。


 紫乃は、膝を折って座る。息を殺すようにして、読み進めていった。


〈神の血を引く者は、花を戴く。その花に宿る精霊は、誠実な祈りに応えて顕現する〉


 紫乃の胸の奥が、静かにざわめいた。 


 頁の下には、小さく母の名が記されていた。


 ──「紫鶴しづる


(お母様……)


 手がふるえた。そして紫乃は、はっきりと思い出した。受け継いだものへの「誇り」を。


 彼女はそっと書物を閉じ、懐に抱いた。


 この一冊があれば、何があっても揺るがない。  私は、母の娘。


 そのとき、部屋の隅にあった壺の中── 長らく枯れていたはずの紫苑の枝先に、小さな蕾が生まれた。


「紫苑よ……どうか、私を導いてください」


──それは、掠れた声で紡がれた、たったひとすじの祈り。


 両の手を膝に重ね、紫乃は静かに目を閉じた。


 空腹で、思考は霞んでいた。


 だが、それでも、祈ることだけはやめられなかった。息を潜め、祈祷を繰り返す。


 どうか、この声が届きますように。


 やがて声は掠れきって、言葉すら出なくなった。それでも、手だけは合わされたまま、崩れるように祈り続けていた。


 そしてようやく、東の空に白光が差しはじめた。


 夜が明ける。紫乃は、まだ祈っていた。


 喉は乾き、足は震えても──それが、母の教えた「まことの祈り」だったから。

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