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五之章 薫りの館にて

 藤の季節が過ぎ、庭の花々は早咲きの百合へと姿を変えていた。


 今宵、屋敷には人が集まっていた。


 伯爵家の令嬢、士族の夫人、軍属の若者たち。どの顔も華やかで、撫子が心を込めて選んだ蒔絵の器や、西洋仕込みの前菜が、夜を飾っていた。


 その中心にいたのは、もちろん撫子だった。


「まぁ、嬉しいわ。皆さんがいらしてくださるなんて。ねえ姉さま、こんなに素敵な夜会、退屈だなんておっしゃらないで」


 紫乃は、撫子の向かいに座っていた。

 ごく控えめな、墨色の着物。母の形見。帯は銀鼠の刺繍入りだが、目立たない。


「……いえ。とても、賑やかで、嬉しいです」

 紫乃はかすかに目を伏せて言った。


 撫子は、ああ、と楽しげに頷いた。


「姉さまが居てくださって、心が落ち着くわ。他の方々は華やかで、気が引いてしまいますもの」


 紫乃は、黙って湯呑を持ち上げた。指先が、少しだけ震えている。



 一方、遠巻きにその様子を見ていたのは、黒の軍服をまとった青年だった。

 藤真である。


 彼は、冷たい茶を一口含みながら、ひとつの椅子に腰かけていた。

 誰とも視線を交わさず、両目の奥で撫子の笑顔をじっと見つめている。


 その視線の意味に気づいた者は、まだ誰もいなかった。



「皆さま、今宵はお集まりいただきまして──」


 撫子がすっと立ち上がると、会場の空気がふわりと変わった。

 栗色の髪に椿油の艶を宿し、牡丹の刺繍があしらわれた洋装姿。扇子を広げるだけで、周囲の視線が自然と集まる。


 微笑をたたえたまま、撫子は声を響かせた。


「本日は、特別なおもてなしをご用意いたしましたの。──姉さまによる、和歌のご披露です」


 ざわ、と場がどよめく。


「えっ……」


 紫乃の目が、ゆっくりと見開かれた。


「まあ、すてき!」「紫乃さまって、ご趣味がご立派だったのねぇ」


 口々に賛辞が飛ぶが、その裏にある興味は明白だった。

 『あの地味な姉』が、いったいどんな振る舞いをするのか。

 まるで、見世物でも待つような、好奇の視線。


「撫子……」

 紫乃は、なぜそんな仕打ちを受けるのか分からなかった。撫子の美しさや、皆を惹きつけるその華やかさを、ただ、羨んでいただけなのに──。


 撫子は、何食わぬ顔で続ける。


「姉さま、昔からお歌がたいそうお得意でしたの。母上の形見の古今和歌集も、いつも抱えておいでで」


 その言葉に、紫乃の膝の上で置かれていた和歌集へ、視線が集まる。


 それは、亡き母から受け継いだ、唯一の宝物。


「どうぞ姉さま、あなたのご自慢の声で、皆さまにお聞かせして?」


 その笑顔は美しく、慈愛に満ちているようにさえ見える。だが、その声には棘が潜み、目は冷たく光っていた。


(やめて、皆さまの前で……)


 紫乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。明確な、撫子の悪意。


 よろめきながら立ち上がると、広間は静まり返った。容赦ない視線が紫乃を刺した。


 和歌集を開く手が、小刻みに震える。


「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに……」


 紫乃は懸命に言葉を紡いだ。客たちの囁きが、鋭い針のように刺さる。


 「地味ね」「声が弱いわ」。撫子の輝きと比べる声が、紫乃の心を締めつけた。耳を塞ぎたいのに、空気がすべてを語っていた。


 そこへ、ひときわ高く、優雅な拍手の音が響く。


「紫乃さん、さすがね。紫鶴しづるさまそっくりの……慎ましやかなお歌」


 撫子の母が紫扇を優雅に揺らし、甘い声で囁いた。紫乃の心が、さらなる棘に刺された。



 ざわめきが収まり、不意に場が静まり返る。撫子はドレスの裾を弾ませて、涼やかな笑みを浮かべた。


「そういえば──今年の花宴はなのえん、もうすぐですね」


 不意の話題に、場がふっと静まる。

 花宴とは、花精を宿す者からたったひとりの「花巫女」を選ぶ神聖な儀式。


 名家の娘たちにとっては、晴れ舞台とも言える日だ。


「どんなお召し物で出ようかしら。やっぱり白百合の刺繍か、それとも紅牡丹かしら……」


 撫子の声音は無邪気そのもの。しかし、その瞳は明らかに、ひとりを射抜いていた。


 紫乃。


 彼女は、変わらずおとなしく膝の上に和歌集をのせ、うつむいている。


 撫子は彼女に近づき、こう耳打ちした。


「……あら、でも姉さまには、きっと一生ご縁のないことね。花巫女には美しさも品位も求められるものだそうだから」


 静かな一言だった。だが、刀のような鋭さを含んでいた。


 美しさ。それは、撫子に与えられたもの。

 紫乃の膝の上から、和歌集がするりと落ちそうになる。


 それを見て、撫子は心の内で満足げに頷いた。


「姉さまのお名は──少し、残念なものでしたわね。紫苑のような、誰の目にも留まらない花」


 風が止まったような静寂。


 紫乃は、反応することもなく、ただ目を伏せたまま座していた。


 その胸の奥で──何かが、ぽたり、と音を立てて崩れ落ちた。


 それは、たったひとつ残っていた、名に込めた誇りだった。



「失礼いたします」


 声がしたのは、その直後だった。


 低く、落ち着いた声。

 そこにいた誰もが、そちらに目を向ける。


 ──藤真である。


 漆黒の詰め襟に、銀の徽章。

 深い紫の瞳が、紫乃へとまっすぐに向けられていた。


 撫子の笑みが、すこし引きつった。


「……おひとりで、来ていらしたの?」


 藤真は答えなかったが、静かに言葉を置く。


「──紫苑は、霜が降りてもなお、色褪せぬ花。

 人目につかずとも、咲くべきときを知っている」


 誰も言葉を返せなかった。夜会のざわめきが一瞬止まり、庭の椿さえ息を呑んだように静寂が広がった。


 紫乃は、少しだけ目を見開いた。


 この夜会の中で、誰ひとり彼女の名を真正面から呼ぶことなどなかった。


 今、藤真の声だけが──優しくその名を口にしたのだ。


 紫乃の胸が、じんと熱くなる。


 藤真の言葉は、誰に向けられたものだったのか。

 それは説明されなかったが、誰もが気づいていた。


 藤真は、隣席の紫乃にだけ小さく頭を下げた。そのまま何も言わず、ひとり人波を離れる。


 その直前、すれ違いざまのほんの囁き。


「少し、話そう。庭に出ないか」


 それだけの言葉に、紫乃は軽くうなずいた。


 彼の背を追うようにして、静かに席を立つ。誰にも悟られぬよう、ひとひらの風のように。



 撫子は、杯を手にしたまま動けずにいた。紅を引いた唇が、笑みのかたちを保ったまま震えていた。


 「撫子」


 声をかけたのは、撫子の母だった。


 「まあ、藤真さまは紫乃さんがお気に入りなのね。……さすが正妻の娘。あんなに地味でも、藤真さまの目には良く映るのね」


 母は撫子の耳もとに、わざとらしくひそひそとささやいた。


 撫子はうつむき、唇を噛んだ。母はそんな彼女の耳元で、さらに柔らかく囁く。


 「撫子、お聞き。この家の未来はあなたの手にあるのよ。あの方の心は、いつも私たちに傾いているもの」


 母の言う「あの方」とは、紫乃の父──つまり、この家の主人だった。妾腹である自分たちを、唯一、守ってくれる存在。


 「わかってるわ、母さま」


 扇の影で交わされる母娘の視線は、誰にも気づかれないまま──まるで絹の糸で結ばれた、共犯の契りのようだった。



 日本庭園は、石灯籠の灯りと月光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。


 藤の花を模したししおどしが、静かに音を立てる。その向こうで、藤真が待っていた。


 「……来てくれて、ありがとう」


 「いえ……」


 紫乃は庭の飛び石を踏みながら、彼のそばに立った。


 夜風がふたりの間をすり抜ける。庭の池には月が淡く映り、鯉が水面を揺らしている。


 「君の朗読、美しかった」


 さらりとした声が、夜気を震わせた。


 「えっ……」


 紫乃が言葉を探して俯くと、藤真はゆっくりと続けた。


「君の声には、心があった。清らかで、強くて、やさしい……それがそのまま、和歌に宿っていた」


 紫乃の胸が、きゅっと痛んだように鳴った。


「……そんな風に、言っていただけるような者では」

「私は、そうは思わない」


 藤真はまっすぐに彼女を見つめた。


「花宴で、君は選ばれる。私は信じている」


 言葉に込められた確信が、まるで紫乃の存在を支えるようだった。


 藤真が一歩、近づく。


 そして、ふと手を伸ばし──紫乃の髪先を、ゆっくりと指先で撫でた。


「風に、少し乱れていたから」


 何気ないようでいて、その仕草には深い想いが滲んでいた。

 紫乃は息を詰め、彼のまなざしを見つめ返すことができなかった。


「どうして、私を信じてくださるのですか……」


 声は震えていた。藤真の確信に満ちた言葉が、彼女の胸に封じていたものを解くようだった。気づけば、ひとつぶの涙が頬を滑っていた。


 藤真はそれを悟らぬように、灯籠の下を指差した。


「紫乃さん、見てごらん」


 そこには、紫苑の花が一輪、静かに咲いていた。


「君は紫苑の花に似ている。霜にも色褪せず、慎ましく、凛と咲く。花宴の舞台でも、君はそう在るはずだ」


 紫乃は、藤真の瞳をまっすぐに見つめる。誰かと比べてではなく、私だけを見てくれる人。その瞳に写る自分を、信じてみたいと初めて思えた。


 そっと微笑み、彼女は言った。

「……この花も、誰にも気づかれずに咲いてきたのですね」


 夜風が二人の間を抜け、紫苑の花弁が揺れる。紫乃の胸に、静かな決意が芽生えていた。



 深夜。藤真はひとり、神祇院の庭に佇んでいた。


 木の影で、静かに息を吐く。


(あの家に、紫乃さんを置いておくわけにはいかない)


 あの場で目にした、あからさまな偏見、毒のある笑み。 言葉にはならずとも、確かに放たれていた圧力。 


 (だが……)


 周囲を納得させるには、「証」がいる。花巫女としての適格、神意の顕れ。


 紫乃の中に眠る、紫苑の花精──それが、目に見える形で顕れなければならない。


 (どうすれば、彼女にその時が訪れる)


 地に膝をつき、藤真は静かに両の手を合わせた。


 「……藤よ」


 長く、深く、呼びかける。


 「我が花精。我が魂の花。 どうか、我が声を届けてほしい。 紫苑の花へ。あの方のもとにいる、もう一柱の精霊へ」


 そのとき──


 どこからともなく、風が吹いた。 藤の葉がざわめき、淡く紫の光が彼の肩に降る。


 応えがあった。


 それは、かつて誰にも心を開かず、藤真自身でさえその顕現に失敗した、孤高の花精。


 今、藤真の祈りに応じるように、その姿は微かに空気を震わせる。


 藤真は目を伏せたまま、祈りを続ける。


 「紫苑は、忘れまじと祈る者の痛みに寄り添う花。……ならば、彼女はすでに、十分すぎるほどの痛みを知っているはずだ。 どうか──その心に、光を。傍らに、力を」


 手のひらに降りた光が、儚く溶ける。


 風が止み、闇が戻った。


 その夜、藤真の願いは風に乗って、ひとつの花へと届こうとしていた。

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