藤の季節が過ぎ、庭の花々は早咲きの百合へと姿を変えていた。
今宵、屋敷には人が集まっていた。
伯爵家の令嬢、士族の夫人、軍属の若者たち。どの顔も華やかで、撫子が心を込めて選んだ蒔絵の器や、西洋仕込みの前菜が、夜を飾っていた。
その中心にいたのは、もちろん撫子だった。
「まぁ、嬉しいわ。皆さんがいらしてくださるなんて。ねえ姉さま、こんなに素敵な夜会、退屈だなんておっしゃらないで」
紫乃は、撫子の向かいに座っていた。
ごく控えめな、墨色の着物。母の形見。帯は銀鼠の刺繍入りだが、目立たない。
「……いえ。とても、賑やかで、嬉しいです」
紫乃はかすかに目を伏せて言った。
撫子は、ああ、と楽しげに頷いた。
「姉さまが居てくださって、心が落ち着くわ。他の方々は華やかで、気が引いてしまいますもの」
紫乃は、黙って湯呑を持ち上げた。指先が、少しだけ震えている。
一方、遠巻きにその様子を見ていたのは、黒の軍服をまとった青年だった。
藤真である。
彼は、冷たい茶を一口含みながら、ひとつの椅子に腰かけていた。
誰とも視線を交わさず、両目の奥で撫子の笑顔をじっと見つめている。
その視線の意味に気づいた者は、まだ誰もいなかった。
「皆さま、今宵はお集まりいただきまして──」
撫子がすっと立ち上がると、会場の空気がふわりと変わった。
栗色の髪に椿油の艶を宿し、牡丹の刺繍があしらわれた洋装姿。扇子を広げるだけで、周囲の視線が自然と集まる。
微笑をたたえたまま、撫子は声を響かせた。
「本日は、特別なおもてなしをご用意いたしましたの。──姉さまによる、和歌のご披露です」
ざわ、と場がどよめく。
「えっ……」
紫乃の目が、ゆっくりと見開かれた。
「まあ、すてき!」「紫乃さまって、ご趣味がご立派だったのねぇ」
口々に賛辞が飛ぶが、その裏にある興味は明白だった。
『あの地味な姉』が、いったいどんな振る舞いをするのか。
まるで、見世物でも待つような、好奇の視線。
「撫子……」
紫乃は、なぜそんな仕打ちを受けるのか分からなかった。撫子の美しさや、皆を惹きつけるその華やかさを、ただ、羨んでいただけなのに──。
撫子は、何食わぬ顔で続ける。
「姉さま、昔からお歌がたいそうお得意でしたの。母上の形見の古今和歌集も、いつも抱えておいでで」
その言葉に、紫乃の膝の上で置かれていた和歌集へ、視線が集まる。
それは、亡き母から受け継いだ、唯一の宝物。
「どうぞ姉さま、あなたのご自慢の声で、皆さまにお聞かせして?」
その笑顔は美しく、慈愛に満ちているようにさえ見える。だが、その声には棘が潜み、目は冷たく光っていた。
(やめて、皆さまの前で……)
紫乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。明確な、撫子の悪意。
よろめきながら立ち上がると、広間は静まり返った。容赦ない視線が紫乃を刺した。
和歌集を開く手が、小刻みに震える。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに……」
紫乃は懸命に言葉を紡いだ。客たちの囁きが、鋭い針のように刺さる。
「地味ね」「声が弱いわ」。撫子の輝きと比べる声が、紫乃の心を締めつけた。耳を塞ぎたいのに、空気がすべてを語っていた。
そこへ、ひときわ高く、優雅な拍手の音が響く。
「紫乃さん、さすがね。
撫子の母が紫扇を優雅に揺らし、甘い声で囁いた。紫乃の心が、さらなる棘に刺された。
ざわめきが収まり、不意に場が静まり返る。撫子はドレスの裾を弾ませて、涼やかな笑みを浮かべた。
「そういえば──今年の
不意の話題に、場がふっと静まる。
花宴とは、花精を宿す者からたったひとりの「花巫女」を選ぶ神聖な儀式。
名家の娘たちにとっては、晴れ舞台とも言える日だ。
「どんなお召し物で出ようかしら。やっぱり白百合の刺繍か、それとも紅牡丹かしら……」
撫子の声音は無邪気そのもの。しかし、その瞳は明らかに、ひとりを射抜いていた。
紫乃。
彼女は、変わらずおとなしく膝の上に和歌集をのせ、うつむいている。
撫子は彼女に近づき、こう耳打ちした。
「……あら、でも姉さまには、きっと一生ご縁のないことね。花巫女には美しさも品位も求められるものだそうだから」
静かな一言だった。だが、刀のような鋭さを含んでいた。
美しさ。それは、撫子に与えられたもの。
紫乃の膝の上から、和歌集がするりと落ちそうになる。
それを見て、撫子は心の内で満足げに頷いた。
「姉さまのお名は──少し、残念なものでしたわね。紫苑のような、誰の目にも留まらない花」
風が止まったような静寂。
紫乃は、反応することもなく、ただ目を伏せたまま座していた。
その胸の奥で──何かが、ぽたり、と音を立てて崩れ落ちた。
それは、たったひとつ残っていた、名に込めた誇りだった。
「失礼いたします」
声がしたのは、その直後だった。
低く、落ち着いた声。
そこにいた誰もが、そちらに目を向ける。
──藤真である。
漆黒の詰め襟に、銀の徽章。
深い紫の瞳が、紫乃へとまっすぐに向けられていた。
撫子の笑みが、すこし引きつった。
「……おひとりで、来ていらしたの?」
藤真は答えなかったが、静かに言葉を置く。
「──紫苑は、霜が降りてもなお、色褪せぬ花。
人目につかずとも、咲くべきときを知っている」
誰も言葉を返せなかった。夜会のざわめきが一瞬止まり、庭の椿さえ息を呑んだように静寂が広がった。
紫乃は、少しだけ目を見開いた。
この夜会の中で、誰ひとり彼女の名を真正面から呼ぶことなどなかった。
今、藤真の声だけが──優しくその名を口にしたのだ。
紫乃の胸が、じんと熱くなる。
藤真の言葉は、誰に向けられたものだったのか。
それは説明されなかったが、誰もが気づいていた。
藤真は、隣席の紫乃にだけ小さく頭を下げた。そのまま何も言わず、ひとり人波を離れる。
その直前、すれ違いざまのほんの囁き。
「少し、話そう。庭に出ないか」
それだけの言葉に、紫乃は軽くうなずいた。
彼の背を追うようにして、静かに席を立つ。誰にも悟られぬよう、ひとひらの風のように。
撫子は、杯を手にしたまま動けずにいた。紅を引いた唇が、笑みのかたちを保ったまま震えていた。
「撫子」
声をかけたのは、撫子の母だった。
「まあ、藤真さまは紫乃さんがお気に入りなのね。……さすが正妻の娘。あんなに地味でも、藤真さまの目には良く映るのね」
母は撫子の耳もとに、わざとらしくひそひそとささやいた。
撫子はうつむき、唇を噛んだ。母はそんな彼女の耳元で、さらに柔らかく囁く。
「撫子、お聞き。この家の未来はあなたの手にあるのよ。あの方の心は、いつも私たちに傾いているもの」
母の言う「あの方」とは、紫乃の父──つまり、この家の主人だった。妾腹である自分たちを、唯一、守ってくれる存在。
「わかってるわ、母さま」
扇の影で交わされる母娘の視線は、誰にも気づかれないまま──まるで絹の糸で結ばれた、共犯の契りのようだった。
*
日本庭園は、石灯籠の灯りと月光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。
藤の花を模したししおどしが、静かに音を立てる。その向こうで、藤真が待っていた。
「……来てくれて、ありがとう」
「いえ……」
紫乃は庭の飛び石を踏みながら、彼のそばに立った。
夜風がふたりの間をすり抜ける。庭の池には月が淡く映り、鯉が水面を揺らしている。
「君の朗読、美しかった」
さらりとした声が、夜気を震わせた。
「えっ……」
紫乃が言葉を探して俯くと、藤真はゆっくりと続けた。
「君の声には、心があった。清らかで、強くて、やさしい……それがそのまま、和歌に宿っていた」
紫乃の胸が、きゅっと痛んだように鳴った。
「……そんな風に、言っていただけるような者では」
「私は、そうは思わない」
藤真はまっすぐに彼女を見つめた。
「花宴で、君は選ばれる。私は信じている」
言葉に込められた確信が、まるで紫乃の存在を支えるようだった。
藤真が一歩、近づく。
そして、ふと手を伸ばし──紫乃の髪先を、ゆっくりと指先で撫でた。
「風に、少し乱れていたから」
何気ないようでいて、その仕草には深い想いが滲んでいた。
紫乃は息を詰め、彼のまなざしを見つめ返すことができなかった。
「どうして、私を信じてくださるのですか……」
声は震えていた。藤真の確信に満ちた言葉が、彼女の胸に封じていたものを解くようだった。気づけば、ひとつぶの涙が頬を滑っていた。
藤真はそれを悟らぬように、灯籠の下を指差した。
「紫乃さん、見てごらん」
そこには、紫苑の花が一輪、静かに咲いていた。
「君は紫苑の花に似ている。霜にも色褪せず、慎ましく、凛と咲く。花宴の舞台でも、君はそう在るはずだ」
紫乃は、藤真の瞳をまっすぐに見つめる。誰かと比べてではなく、私だけを見てくれる人。その瞳に写る自分を、信じてみたいと初めて思えた。
そっと微笑み、彼女は言った。
「……この花も、誰にも気づかれずに咲いてきたのですね」
夜風が二人の間を抜け、紫苑の花弁が揺れる。紫乃の胸に、静かな決意が芽生えていた。
*
深夜。藤真はひとり、神祇院の庭に佇んでいた。
木の影で、静かに息を吐く。
(あの家に、紫乃さんを置いておくわけにはいかない)
あの場で目にした、あからさまな偏見、毒のある笑み。 言葉にはならずとも、確かに放たれていた圧力。
(だが……)
周囲を納得させるには、「証」がいる。花巫女としての適格、神意の顕れ。
紫乃の中に眠る、紫苑の花精──それが、目に見える形で顕れなければならない。
(どうすれば、彼女にその時が訪れる)
地に膝をつき、藤真は静かに両の手を合わせた。
「……藤よ」
長く、深く、呼びかける。
「我が花精。我が魂の花。 どうか、我が声を届けてほしい。 紫苑の花へ。あの方のもとにいる、もう一柱の精霊へ」
そのとき──
どこからともなく、風が吹いた。 藤の葉がざわめき、淡く紫の光が彼の肩に降る。
応えがあった。
それは、かつて誰にも心を開かず、藤真自身でさえその顕現に失敗した、孤高の花精。
今、藤真の祈りに応じるように、その姿は微かに空気を震わせる。
藤真は目を伏せたまま、祈りを続ける。
「紫苑は、忘れまじと祈る者の痛みに寄り添う花。……ならば、彼女はすでに、十分すぎるほどの痛みを知っているはずだ。 どうか──その心に、光を。傍らに、力を」
手のひらに降りた光が、儚く溶ける。
風が止み、闇が戻った。
その夜、藤真の願いは風に乗って、ひとつの花へと届こうとしていた。