神祇院の最奥──神聖な婚礼の場は、張りつめた空気で満たされていた。
そこへ、一人の少女が姿を現す。
撫子である。
絢爛な紅色の振袖に、宝石のようにきらめく簪をいくつも飾った髪。美貌に自信を持つ彼女は、その場の視線が自分に注がれることを疑わなかった。
(……姉さまが花嫁になっても、私のほうが目立つ)
そう思いながら、しずしずと列席の場へ向かう。実際、幾人かが彼女を振り返り、感嘆のようなささやきを漏らした。
だが空気が変わったのは、その直後。
白無垢に身を包んだ紫乃が、神官に導かれ姿を現した、そのときだった。
場の空気がぴたりと静まる。誰もが自然と息を呑み、目を奪われる。
美しく結い上げられた黒髪に、繊細な簪が揺れていた。染めのない純白の布が、彼女の気品ある佇まいを際立たせている。
そしてなにより──引き結ばれた紅の唇、ひと筆で描かれたような眉。知的で凛とした面差しに、静かな覚悟と気高さが宿っていた。
「……まあ」「なんてお綺麗なの」
小声で交わされる賛嘆の声。
紫乃の父親ですら、思わず漏らした。
「……よい娘を、持ったな」
撫子は、耐えきれず唇を噛みしめる。その端からは、紅よりも鮮やかな血が滲んでいた。
撫子の母もまた、無表情の仮面を貼りつけたまま、唇の端をひきつらせていた。
──そして、時は訪れる。
神官が祝詞を奏上し、ふたりが向かい合うとき。境内に、ふわりと甘い香が立ちのぼった。
それは、藤の香だった。
藤真の後ろに、気高く咲き誇る藤の花が揺れる。その花弁が、ひとひら、ひとひら──式場に舞い落ちる。
続いて、紫乃の背に風が吹いた。紫苑の花が、空から降るように、あたりを覆いはじめた。
ふたりの花精が、寄り添うように舞い、やがて溶け合う。
神が、祝福を与えた。
その夜、全国の神域で、不思議な現象が起きた。
藤の季節は終わったばかりだというのに、藤が咲いたのだ。
また、誰も手を加えていない山野の一角で、紫苑の花畑が忽然と姿を現したという。
「これは、神に選ばれた婚姻だ」
そう噂されるまでに、時間はかからなかった。
*
式のあと、ふたりは静かに席を外した。
夜の庭に、薄明かりの灯籠がぽつりぽつりと灯っている。
風が少しだけ涼しい。香の煙が、かすかに立ちのぼる。
白無垢姿のまま、紫乃は池のほとりに立っていた。水面には、藤の花びらと紫苑の花弁が、まるで祝詞のように浮かんでいた。
「……少し、信じられません」
紫乃はそう言って、微笑んだ。
「私などが、神に選ばれるなんて。こんな日が来るなんて……」
その声には、震えがあった。静まり返った夜に、とても澄んで響いた。
藤真は、何も言わず彼女の隣に立った。しばらく、ふたりで水面を眺めていた。
「あなたは、ただ選ばれたのではない」
藤真が、低く言った。
「選ばれるほどに、祈っていたのだ。
だれにも見えぬところで、ずっと……」
紫乃は目を見開いた。彼に、見られていたとは思わなかった。
「……掃き清められた神棚の前に、あなたはいた。
だれも見ない朝に、箒をとり、手を合わせていた。神は見ておられた。それだけのことだ」
紫乃の頬に、夜風がやさしく触れた。
「……ありがとう、ございます」
震えた声には、深い感謝の思いが滲んでいた。
藤真は、彼女の手を取った。
「これより先は、私が祈ろう。
あなたの願いが、もう二度と踏みにじられぬように。あなたが、傷つかぬように」
その手のぬくもりが、紫乃の目に静かなしずくを宿した。
風が吹いた。池の水面がゆらぎ、ふたりの影が重なった。
神に祝福された婚礼の夜。
ふたりは、初めて「夫婦」として、ひとつの静けさを分かち合った。