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十之章 静謐と兆し

 十之章 静謐と兆し朝の光がやわらかに差し込む神苑の奥、紫乃は白衣をまとい、花を整えていた。



 巫女として任命されてから数ヶ月。藤宮家の嫁としてではなく、花巫女としてこの地に立てることが、何よりの誇りだった。




 供花に選ばれたのは、白椿と山桜、それに紫苑。どの花にも、紫乃はひとつひとつ名を呼び、祈りを込める。




 ──咲いてください。神に、心を届けるがごとく。




 その祈りに応えるように、花々はほんの少し、陽の光を受けて透き通ったように見えた。




 神祇院の人々は、はじめは彼女を「異例の者」として距離を置いていた。しかし次第に、紫乃の丁寧な所作と誠実な祈りは信頼を集めるようになっていた。




 藤真もまた、神務に携わる傍ら、朝晩にはかならず紫乃の元を訪れた。




「今日は、紫苑の花精が強く響いていました。神前でひときわ香りが強くなって……まるで、こちらを見ていたようでした」




 そう報告する紫乃に、藤真はただ頷き、隣に静かに座る。




「君の祈りは、まことなのだろう。花が応えている」




 紫乃は、その言葉だけで胸が満たされた。


 藤真の肯定は、どんな褒美よりも彼女を救ってくれる。







 冬になると、撫子から手紙が届いた。




 淡い藤色の封筒に、銀の花紋が浮かぶ。それは黒薔薇の家紋──神祇院内でも、もっとも格式高き家のひとつ。




 紫乃は息を呑んで手紙を開いた。




 _____




 わたくし、このたび黒薔薇家の次期当主と婚約いたしました。


 突然のこととお思いでしょうけれど、母が望んだ縁組でして、これもまたわたくしの務めかと存じます。


 _____




 紫乃の指先が、震える。




 欲望と嫉妬にあふれていた彼女が、まるで違う人のような筆致で、それを「務め」と言う。




 (……撫子も、変わったのかもしれない)




 読み終えた紫乃は、ふとそんなことを思った。


 嫁いで、役目を得て、人は変わるのだろうか。




「藤真さま、撫子が婚約されたそうです。黒薔薇の家と──」




 言いかけたとき、彼の表情がわずかに揺らいだ。




「……そうか。黒薔薇と、か」




 それきり、彼は何も言わなかった。




 紫乃は知っていた。藤真の静けさの奥には、決して他者が立ち入れぬ深い淵があることを。








 その晩、紫乃は久しぶりに藤真の胸に抱かれて、まどろみの中にいた。




 囲炉裏の火はもう落ち、灯りはほのかに残るばかり。それでも、部屋の片隅まで、あたたかさが満ちている。




「紫乃……」


「うん……ここにいます」




 藤真の低い声が、寝息のように耳元で囁く。




「眠ってもいい。君が隣にいてくれるなら、それだけで……」




 言葉はそこでとぎれ、紫乃は静かに彼の指先を握りしめた。




 遠くで、木々の葉が風に揺れていた。


 初冬の夜風は、ひんやりと肌を撫でていったが──ふたりの胸の奥には、春のような穏やかさがあった。




 紫乃は、ふと遠い昔を思い出していた。




 幼い日のこと。


 病身の母が恋しくて、しかし誰にも抱きしめてとは言えなかった夜。


 泣きたいのに声を殺して、神棚に向かって、ただただ祈っていた。




(神さま、どうか、わたしたちを守ってください。せめて、母だけでも)




 あのときから、紫苑の花に名を呼び、手を合わせ続けてきた。


 誰にも知られず、見返りもなく、ただ毎晩。


 その祈りは、きっとこのぬくもりのためにあったのだ。




 ──神に選ばれし身だとしても。


 この手のなかにあるものだけは、守れますように。




 世界がどうあろうと、この愛おしさは変わらない。


 紫乃は目を閉じ、藤真の胸にそっと顔をうずめた。

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