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第2話 明日の朝8時、区役所の前で


結婚――!?


ゴホッ――


桜庭千雪はむせ込み、腰を折って前にかがみ込んだ。目の前の人物を信じられない思いで見つめる。


彼女はあらゆる可能性を想像していた。兼松倫也が復讐に出るか、彼女を侮辱するか、あるいは愛人や都合のいい相手を強要するかもしれない、と。


だが、彼が口にした条件が「結婚」だとは、まったく予想もしなかった。


「でも……」ようやく声を絞り出す。


「嫌なのか?」兼松倫也が眉を上げ、鋭い視線を向けた。


「違います!」千雪は慌てて否定する。「ただ……私と結婚するなんて、あなたが損をするだけです。」


彼はウォール街で名を轟かす投資のカリスマ、LION。


兼松家の資産は言うまでもなく、彼自身の財力だけでも国家級だ。


名家同士の縁組で最も重視されるのは、常に利益。


かつて桜庭家が全盛だった頃でさえ、兼松家には遠く及ばなかった。


ましてや今の千雪には、一文無しどころか莫大な借金すら背負っている。


自意識過剰でなくとも、兼松倫也が彼女の美貌を目当てにしているとは考えにくい。


仮に見た目だけで判断したとしても――


兼松倫也の容姿なら、彼と結婚したい令嬢たちの列は東京を何周もするだろう。


「結婚だけが最も強固な利益同盟だ。そうでなければ、これも何かの罠だと疑ってしまうからな。」兼松倫也は右手を上げ、ゆっくりと唇についた紅を指先で拭い、口元に不敵な笑みを浮かべた。「それに……」低く笑い、熱い視線を向ける。「君の唇の色が、かなり気に入った。」


千雪の心臓が大きく跳ねた。


この人は、どうしてこうも自然に紳士から悪党に切り替わるのだろうか――


ブ――


スマートフォンのバイブ音が、現実へと引き戻した。


慌ててハンドバッグを拾い、携帯を取り出す。


画面には「周藤」の名が表示されていた。


「お嬢様、早く戻ってください!」周藤の切迫した声。


「何があったの?」


「銀行の人間が来て、家を差し押さえると言っています!」


「すぐ帰る!」


通話を切った千雪は、兼松倫也に顔を上げた。


「考える時間が必要です。」


兼松倫也は近づき、床に落ちたコートを拾い上げて千雪の肩にかけ直した。


その手際で、さりげなくコートの襟元を整え、乱れたセーターから覗く肌を隠してくれる。


長い指先で金箔の名刺を取り出し、コートのポケットに差し込んだ。


「24時間だ。」彼は二歩下がり、デスクの端に気だるげに腰掛け、長い脚を組んだ。「それを過ぎたら、取り合わない。」


千雪は振り返って、急ぎ足で店を飛び出した。


桜庭家の邸宅に戻ると、リビングには銀行員が数名立っていた。


先頭にいたのは東京中央銀行の富田秀明だった。


かつては盆暮れごとに贈り物を持ってきた馴染みの「客」も、今では態度が一変し、冷たく傲慢だった。


「桜庭さん、私たちは法に従っているだけです。」


「裁判所の判決による最終返済期日は、あと三日残っています。」千雪は背筋を伸ばし、毅然と告げた。「家を差し押さえるなら、三日後にしてください!」


「桜庭さん!」富田が嘲笑する。「三日どころか三十日あったって、あんたが自分を売ったって十億円は集まらないだろ?無駄なあがきを――」


パシン!


乾いた音が響いた。


千雪は富田の脂ぎった頬を思い切り平手打ちした。


「出て行け!」


「この女、よくも俺を――!」富田は顔を押さえ、逆上する。


運転手の周藤が間に割って入り、千雪をかばってにらみつけた。「お嬢様に手を出すな!」


「やる気か?」


「なめるなよ!」


……


銀行員たちはすぐに半円状に取り囲んだ。


千雪はとっさに周藤を自分の後ろに引っ張ろうとした。


「やめなさい!」


玄関から鋭い声が響く。


振り返らずとも、千雪は顔をしかめた。


淡いグレーのスーツに金縁眼鏡――


日下研一が落ち着いた足取りでリビングに現れ、変わらぬ穏やかな仮面をまとっている。


彼は千雪の前に歩み寄り、富田をじっと見据えた。


「富田さん、私の顔も立ててくれませんか?」


日下が現れると、富田は態度を一変させ、へつらうような笑顔を浮かべた。


「いやぁ、日下さん!我々も決まりですので……分かりました、あなたの顔を立てて、あと三日だけ待ちますよ!三日後に払えなければ、誰が来てもどうにもならないぞ!」と千雪をにらみつけ、部下を引き連れて出ていった。


日下は千雪の方に向き直り、腕に手を伸ばす。


「千雪、大丈夫かい?」


千雪は思わず一歩下がり、彼の手を避けた。


「出ていって。」


「千雪、君が僕を恨むのは分かる。でも、僕にも事情が――」


「事情?」千雪は冷たく笑った。「兄のせいにしておいて、それが事情?」


「千雪、それは本当に大和さんがやったことだ。僕が嘘をつくわけにはいかない。僕の気持ちは本物だよ。君が天城グループの株を譲ってくれれば、すぐにでも両親や取締役に頼んで――」


「本物?」家を壊したことが愛情の証だとでも?


「もういい!」千雪は声を張り上げる。「日下、私は死んでも天城グループをあなたに渡さない!」


「千雪――」


千雪はテーブルの上のクリスタル製の灰皿を手に取り、力いっぱい投げつけた。


「出ていけ――!」


日下はとっさに身を引き、灰皿は彼の額をかすめて床に砕け散った。


額から血がにじむが、彼はそれをぬぐい取った。


「今は冷静じゃないだろう。何を言っても無駄だな。」悔しさをこらえ、持っていた食事の箱をテーブルに置く。「落ち着いたら話そう。温かいうちに食べてくれ。」


そう言い残し、日下は部屋を出ていった。


「お嬢様、あんな連中、気にしないでください!」周藤が心配そうに千雪の体を支え、ソファに座らせた。「少し休まれてください。」


一ヶ月で顎はとがり、やせ細った体は今にも倒れそうだ。


「何か食べませんか?うどんを作りましょうか?」


千雪は疲れた顔で首を振る。「いいの、周藤。」


今は、食欲なんてまるでない。


「生きてさえいれば、なんとかなりますよ。」周藤は優しく言い、「どんなに大変でも、食事はしないと。もし倒れたら、お父様やお兄様が悲しみます。牛乳だけでも飲みましょう。」


背を丸めて台所へ向かう周藤を見送り、千雪はソファに手をついて立ち上がり、階段を上ってバスルームへ入った。


冷たい水で顔を洗い、刺すような冷たさで少し正気を取り戻す。


どうして銀行は夜遅くに家を差し押さえに来たのか?


なぜ日下が、まるで計ったようなタイミングで現れたのか?


この稚拙な「偶然」は、彼が仕組んだと見て間違いない。


目的は、彼女が持つ天城グループの最後の10%の株式。


千雪はタオルで力いっぱい顔を拭いた。


鏡に映る顔は青白いが、はっきりとした美しさは失われていない。


首筋には、真新しいバラ色のキスマークがはっきりと残っていた。


さきほど会員制バーの個室で、兼松倫也にドア際で強くキスされた情景が脳裏をよぎる。


顔が一気に熱くなる。


中学時代、三人は都立一中に通っていた。


彼女は中等部、兼松倫也と日下は高等部。


あの頃から二人はライバル同士だった。


大学受験前夜、二人はグラウンドで大喧嘩をした。


その時、日下は肋骨を三本折り、長期入院。


兼松は退学処分となり、海外へ。


兼松倫也には、日下研一に復讐する理由が十分にある。


敵の敵は、たとえ友でなくても――少なくとも一時の同盟者にはなれる。


桜庭家が没落し、誰も日下家に逆らおうとしない。


千雪一人の力で、日下に立ち向かうのは無理だ。


彼女には、日下家に対抗できる強力な味方が必要。


すでに決意は固まっていた。


千雪は浴室を出て、コートのポケットから金箔の名刺を取り出す。


指先で冷たい番号をなぞり、深呼吸して携帯の番号を一つずつ押していく。


電話がつながる。


「お受けします。」千雪の声は澄み、強い意志がこもっていた。「期間は一年。」


受話器の向こう、兼松倫也の声は淡々としていて、感情は読み取れない。


「明日の朝8時、区役所の前で。」


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