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第3話 「食べさせてほしいのか?」


翌朝、桜庭千雪は早くに目を覚まし、丁寧に薄化粧を施した。

着替えて階下に降りると、運転手の周藤が朝食の袋を提げて玄関に入ってきた。

「お嬢様、ミルクとパンを買ってきました。温めましょうか?」

「いいの、周藤さん。今日は急いでるから。」千雪はハンドバッグから封筒を取り出し、両手で差し出した。

周藤は一瞬目を見開く。「お嬢様、これは……」

「今月のお給料です。」千雪は申し訳なさそうに封筒を差し出した。「周藤さん、最近は本当にお世話になりました。本当はもっとお支払いすべきですが……多くは用意できなくて、ごめんなさい。」

周藤は後ずさりしながら首を振る。「今はお嬢様の方がお金に困ってるんですよ。今度で構いません……」

千雪は強引に彼の腕をつかみ、封筒をその大きな手に押し込んだ。

「もう来なくていいんです。車は全部差し押さえられたし、家ももうすぐ出て行かなきゃいけない。私も数日後には寮に移ります。」

兄・大和の荷物が入ったリュックを持ち、千雪は足早に玄関を出た。


周藤が情に厚い人だということは千雪も分かっていた。きっと給料など気にしていなかっただろう。

だが、桜庭家はもう行き詰まっていた。車もなくなり、運転手に頼る余裕などもうない。

親戚も友人も皆、桜庭家が没落したと知るや否や、まるで腫れ物に触るように遠ざかっていった。

唯一、周藤だけが変わらず支えてくれたが、彼にも家族がある。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。


千雪は邸宅の門を出て、歩道に立った。タクシーが次々と目の前を通り過ぎていく。

自然と手が上がりかけて、すぐに下ろした。

口座にはもう200万円も残っていない。

父はICUに入院中で、毎日莫大な費用がかかる。無駄遣いはできなかった。


彼女はスマートフォンで地図を開き、最寄りのバス停を確認して歩き出した。


朝のラッシュで電車は混み合い、ようやく乗り換えたバスも渋滞に巻き込まれる。

区役所の前に着いた時には、すでに八時半を過ぎていた。

きょろきょろと辺りを見渡したが、兼松倫也の姿は見当たらない。

――もう帰ってしまったのだろうか?


「千雪さん?」

端正なスーツ姿の青年が微笑みながら近づいてきた。「兼松の秘書、高橋脩です。兼松は車でお待ちです。」

千雪はほっと胸を撫で下ろし、高橋について交差点まで歩いた。

そこには、ひときわ目立つ深い青のロールスロイス・ファントムが停まっていた。


高橋が後部座席のドアを開けると、千雪は中に座る兼松倫也の姿を目にした。

パーフェクトに仕立てられたブラックのスリーピーススーツ。冷たい玉のような美貌。

一目で只者ではないと分かる、その圧倒的な存在感。


彼はスマホを見下ろしていたが、千雪が乗り込むと、ふと画面が視界に入った。

そこには、白いワンピースに長い髪をなびかせた少女の写真。

横顔は、どこか自分とよく似ているような気がした。


千雪の視線に気づいたのか、兼松は指先で画面をタップし、すぐにスリープにした。

千雪はその少女の顔をちゃんと見る間もなかった。


高橋が静かにドアを閉め、車の外に残った。

兼松は膝の上の書類を千雪に差し出した。

「婚前契約書だ。」


千雪は驚きもしなかった。

これは取引であり、結婚ではない。

彼が自分の財産を守ろうとするのは当然だ。


書類を受け取って、丁寧に目を通す。

婚後、彼女が所有する天城グループの株式は兼松が管理するが、利益も損失も千雪のものという内容だった。彼が不当に得をするような条項はない。


だが、次のページで彼女の指が止まった。


「配偶者としての義務を果たすこと。」


あまりに明瞭な文言に、心臓が跳ねる。


兼松は千雪の指先を一瞥し、未点火の煙草を指の間で弄びながら、意味ありげな笑みを浮かべた。

「桜庭さん、僕は聖人君子じゃない。今ならまだやめられるよ?」


日下研一が陰湿な狼だとしたら、兼松倫也はまるで王者のライオン。

欲しいものは、絶対に隠さない。


千雪は唇を固く結び、続きを読まずに最後のページを開き、署名した。

書類を返し、ドアに手をかける。


「じゃあ、籍を入れに行きましょう。」


これが新たな奈落の始まりなのかどうか、千雪には分からなかった。

ただ、天城グループは父の命そのもの。日下研一に渡すわけにはいかない。

たとえ、自分のすべてを賭けてでも。


写真撮影、書類記入、婚姻届の提出……。

すべての手続きは二十分もかからなかった。


新しい姓の記された婚姻受理証明書を手に区役所を出ても、現実感はなかった。

数か月前――日下研一との婚約が決まった時には、卒業後の幸せな未来だけを夢見ていた。

それが今、証明書の配偶者欄に記されているのは、かつての婚約者のライバル――兼松倫也の名前。


これほどまでに運命は皮肉だ。


階段下で兼松が立ち止まり、「どこまで行くんだ?送るよ」と声をかけてきた。

千雪は気持ちを引き締めて、「お構いなく」と答えた。

兼松の時間は何よりも貴重だ。

すでに三十分も遅れているのに、これ以上迷惑はかけられない。


兼松は眉を上げる。「千雪さん、自分の新しい立場を忘れてない?」

「……」

そうだった、自分はもう既婚者なのだ。


「東京芸術大学に寄りたいんです。手続きがあって。」

本来なら、海外の名門音楽大学から全額奨学金をもらっていた。

一年間の留学を経て、そのまま進学する予定だったが、家の事情で断念した。

そのための手続きがまだ残っている。


兼松はドアを開け、さりげなく千雪の頭上をかばった。

「ちょうどいい、乗って。」

有無を言わせぬ口調だった。


無料で高級車に乗れるのに、わざわざ混雑した電車に乗る必要もない。

千雪はそれ以上拒まず、後部座席に腰を下ろした。


「ちょうどいい」?

運転席の高橋は、わずかに口元を引きつらせた。

自分の上司が息をするように嘘をつくのを、もはや驚きもせず受け入れていた。

このまま会議に向かえばいいものを、大学まで寄り道すれば少なくとも三十分は遅れる。


車は東京芸術大学へと向かう。

朝の渋滞で、車は何度も止まったり進んだり。


急いで家を出たせいで朝食を抜いた千雪は、低血糖の症状が出始めていた。

めまいがして、バッグの中を探るが、ポケットの中は空だった。

出がけに飴を持ってくるのを忘れていた。


そんな時、すっと細く長い指がチョコレートを差し出してきた。

兼松は、千雪の低血糖を知っていたのだろうか?


千雪は横目で彼の顔を見つめた。

「結婚祝いのお菓子だ。」彼は淡々と言う。


結婚祝い?

こんな裏取引のような結婚に、わざわざそんなことを言うとは。

千雪は自嘲気味に微笑んだ。

そもそも、学生時代は接点もなかった彼が、自分の持病など知るはずもない。


千雪が手を伸ばさないのを見て、兼松は少し眉を上げた。


「食べさせてほしいのか?」


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