桜庭千雪は、その言葉にどう答えていいかわからず、慌てて口を開き、彼が剥いてくれたキャンディーを受け取った。
舌先で飴玉を包み込むと、うっかり彼の長い指先に触れてしまった。
その感触に気づいた千雪は、すぐに飴を噛み締めて背もたれに身を引いた。
頬がほんのり熱くなり、そっと隣の兼松倫也を窺う。
彼は伏し目がちに、千雪の唇がかすった自分の指先をじっと見つめていて、どこか複雑な表情を浮かべていた。
きっと、私の不注意を嫌がっているんだろう――
千雪は急いでハンドバッグからティッシュを取り出し、一枚引き抜いて手に握ったまま、体を少し乗り出す。
「拭かせていただきます……」
言い終わらないうちに、前方の車が急ブレーキをかけた。高橋修がハンドルを大きく切り、同時にブレーキを踏み込む。
千雪の体はコントロールを失い、思わず兼松倫也の胸元に倒れ込んでしまった。
慌てて体勢を立て直そうとした手のひらが、偶然にも彼の腰の辺りに触れてしまう。
スーツ越しに、何とも言えない緊張感が伝わってきた。
「そんなに早く夫婦の務めを果たしたいのか?」
耳元に、低く抑えた声が微笑混じりに響き、温かい吐息が触れた。
千雪は一瞬で顔が真っ赤になり、慌てて体を起こして座り直す。
「すみません、急ブレーキで……」運転席の高橋修が申し訳なさそうに後ろを振り返る。「桜庭さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
千雪は背もたれに寄りかかり、平静を装った。
その時、ふいに視界が陰った。
兼松倫也が無言で体を寄せ、一方の手を千雪の胸元に伸ばす。
千雪の心臓が跳ね、思わず身を引く。
まさか、車の中で……?
混乱する間もなく、彼の手は千雪の胸元を通り過ぎてシートベルトを取り、カチッと音を立てて留めた。
ほっと胸を撫で下ろす。
「……ありがとうございます」
倫也は横目で千雪の真っ赤な耳先をちらりと見やり、ゆっくりと自分のしわが寄ったズボンのラインを整える。
千雪は口の中のチョコレートキャンディーを舐めながら、きちんと姿勢を正して、彼の仕草を見ていないふりをした。
だが、自分の右手だけがどうにもぎこちなく、どこに置けばいいのか分からない。
幸い、東京芸術大学は区役所から近く、数ブロックで車は校門のそばに止まった。
「ありがとうございました」
千雪はシートベルトを外し、ドアを開けて車を降りた。
「待って」倫也も続けて降り、手のひらを差し出す。「スマホのロックを解除して」
千雪は理由が分からぬまま、素直にスマホを渡した。
倫也は素早く操作し、スマホを千雪に返す。
「電話に出ないのは嫌いだ」
画面には連絡先の画面が開かれていた。
新しく追加された番号が、一番上に表示されている。
連絡先の名前は大きく「旦那様」となっており、さらにアルファベットの“A”がつけられて、必ずトップに来るようになっている。
千雪は思わず口元を引きつらせた。
……この人、強引なのか、それとも子供っぽいのか、どっちなんだろう。
「もう行ってもいいですか?」
「まだだ」
「兼松さん、何かご用ですか?」
倫也は手を伸ばし、千雪の開いたコートの襟を整える。
オーバーサイズのコートを羽織った千雪の体は、余計に華奢に見えた。
「ちゃんと食事を取ること。痩せすぎは好きじゃないから」
彼は千雪の顎をそっと持ち上げ、無理やり目を合わせさせる。
「これからは……“旦那様”と呼びなさい」
「はい、兼松……」と言いかけて、顎の力が強まった。
「えっ……?!」
千雪は唇を噛み、ぎこちなく答える。「旦那様。すみません、まだ慣れなくて」
「気にしなくていい」倫也は身を寄せ、唇がほとんど耳に触れるほど近づいた。「何度も呼べば、そのうち慣れるさ」
冷たい鼻先が耳たぶをかすめ、温かな息が敏感な肌を撫でていく。
千雪はその部分が一気に熱くなり、髪の毛まで逆立つような気がした。
「わ、私……もう行きます!」
千雪はくるりと向きを変え、逃げるように学院の門の中へ駆けていった。
倫也は片手をポケットに入れたまま、その細い背中が見えなくなるまで見送り、ようやく車に戻った。
「出発して」
車が走り出すと、倫也は右手を広げ、視線を人差し指の側面に落とす。
そこには、薄っすらとピンク色が残っていた。
千雪のリップクリームの跡だ。
その色を見て、昨夜のキスや、灯りの下で少し腫れた彼女の唇が自然と思い出される。
「今夜の予定、全部キャンセルしろ」
「ですが……」高橋修が戸惑いがちに言う。「今晩はお約束が……」
倫也は淡いピンクを指でなぞりながら、
「全部だ」
……
千雪は小走りに進みながら、左耳の熱がまだ引かないのを感じていた。
「何度も呼べば慣れる」――あの言葉、どこか別の意味に聞こえてしまうのは気のせいだろうか。
一度矢を放ったら、もう引き返せない。
結婚契約書にサインしたその瞬間から、どんなことも受け入れる覚悟はできていた。
大人の世界で、「夫婦の務め」がどれほど重いかも知っている。
タダより高いものはない。
ウォール街の投資銀行で名を馳せるLION――冷徹な彼が、見返りもなく助けてくれるはずがない。
頭を振り、余計なことを考えないようにして、校舎へと歩を進めた。
キャンパスには「学園祭」の横断幕があちこちに掲げられ、道端の看板も目につく。
千雪はふと足を止めた。
家のことで手一杯で、もうすぐ学園祭だということをすっかり忘れていた。
こんな時、学科長はきっと講堂にいるはずだ。千雪は方向を変えて、早足で講堂へ向かった。
講堂の外は人でごった返している。
学内オーケストラの演奏は学園祭の目玉。例年、業界関係者やメディア、保護者も多く訪れる。
オーケストラ学科主任の白井慕岐が保護者と話していたが、千雪を見つけて少し驚いた様子で声をかけてきた。
「千雪さん?どうしたの?本来なら今ごろ、海外行きの飛行機に乗っているはずじゃ……」
千雪は簡単に事情を説明した。
「都内で父の世話をしたいので、留学の枠をキャンセルしていただけませんか」
天城グループの騒動はすでに世間の話題になっている。白井も事情を察し、惜しみつつも快く了承した。
「分かった、こちらで手続きする。来週からは授業に出てくれればいいよ」
「それと……」千雪は小さく咳払いした。「もし商業イベントの演奏出演があれば、参加したいです」
今は天城グループを守るだけでなく、収入も急務だった。
白井はにっこりと笑う。「大丈夫、年末はイベントが多いから、優秀なヴァイオリン奏者が足りなくて困ってたんだ」
遠くで他の先生が白井を呼んでいる。
「千雪さん、あまり無理しないで。人生には浮き沈みがつきものだから」白井は優しく肩を叩いた。「何かあれば、いつでも相談しなさい」
この数日、世間の冷たさを思い知った千雪だったが、主任の気遣いに心が少し温かくなった。
「ありがとうございます、白井先生。お忙しいところ失礼します」
白井に頭を下げ、千雪は講堂の階段を足早に降りていく。
「やぁ、これはこれは――桜庭家のお嬢様じゃないか?」
階段下から、どこか嫌味な声が響いた。