学内オーケストラのメンバーたちが、演奏会場から連れだって歩いてきた。
先頭にいたのは、日下研一の妹・璃子だ。
千雪と璃子は同じオーケストラ学科で、どちらもヴァイオリン専攻。
団にいた頃は、千雪が常にコンサートマスターで、璃子は二番手だった。
だが今、千雪が「海外留学を控えている」とあって、璃子は念願のコンサートマスターの座を手に入れた。
初めて主奏を任され、璃子の顔には得意げな表情が浮かんでいる。
千雪は父の見舞いで病院へ急ぐところで、彼女たちにかまっている暇はなかった。足早に階段を降りようとした、その時――
「待って!」璃子が腕を広げて道を塞ぎ、皮肉げに言う。
「千雪さん、空気読んでさっさとお兄ちゃんから離れてよ。いつまでもしつこく絡まないで。」
自分が研一に執着しているとでも?
千雪は怒りを抑え、逆に笑みを浮かべる。
「いいわよ。だったら、あなたからも伝えて。これからは彼にも近づかないでって!」
「何その態度!」璃子は鼻で笑う。「お兄ちゃんがすぐに婚約解消しないのは、心が優しいからよ。あんた、調子に乗らないでよね!」
研一が「心が優しい」?
千雪は心の奥で冷たく笑った。
桜庭家を破滅させておいて、さらに自分をコントロールしようとする。ずいぶん「優しい」ことね。
その時、ちょうど車から降りてきた研一が、急いで二人のもとへ駆け寄ってきた。
「璃子、やめなさい!」
「お兄ちゃん、私は間違ったこと言ってないでしょ? 今の千雪さんなんて、お兄ちゃんにふさわしくないじゃない。」
「その通り、私は高嶺の花よ。」千雪は声を張り上げ、鋭い視線を研一に向けた。
「せっかくだから、ここではっきりさせましょう。日下研一、私たちの関係はこれで終わりよ!」
退婚するつもりだった千雪には、ちょうどいいタイミングだった。
周囲には、同級生や保護者たちがざわめきながら立ち止まっている。
「何があったの?」
「あれ、桜庭家のお嬢さんじゃない?」
「天城グループが潰れたって、ニュースになってたよね?」
「落ち目になった途端、婚約解消? 日下家も現実的だな。」
「違う!」璃子が声を張り上げる。「婚約解消を言い出したのは千雪さんの方よ!私たち日下家が裏切ったわけじゃない!」
「やめなさい!」研一は鋭い声で璃子を制し、すぐに千雪の腕をつかんだ。表情を切り替え、優しげな顔で言う。
「千雪さん、お願いだから聞いてほしい。僕の想いは本物だ。桜庭家がどうなろうと、気持ちは変わらない。君の力になりたいんだ、信じてくれ!」
学園祭には都内の名士も多く集まっている。ここで千雪に婚約解消を公言されたら、彼の評判も日下家の面目も丸つぶれだ。何よりも、天城の株式を確保するまでは、絶対に千雪を手放すわけにはいかない。
「すごい、一途!」
「こんな男性、なかなかいないよね!」
――まだ演じるつもり?
千雪は眉をひそめ、研一の偽善的な表情を冷ややかに見つめた。
よくも、ここまで平然と嘘がつけるものだ。
あの言葉を昔は信じて疑わなかった自分が、本当に愚かだった。
「愛してる?」千雪は指を握りしめ、顎を上げて研一を見据える。「証明してよ。今すぐ区役所に行って結婚しましょう。できる?」
結婚すれば、桜庭家の莫大な借金も一緒に背負うことになる。
それだけは、研一が絶対に受け入れないはずだ。
「千雪さん、僕は……」研一は視線をそらし、答えを濁した。
「もう演技は終わり?」千雪は彼の手を振り払った。「もう嘘はやめて。これから先、私はあなたとも日下家とも、関わりません!」
「桜庭千雪!」男の目が冷たく光り、仮面が剥がれ落ちた。「今日のこと、きっと後悔するぞ!」
「後悔?」千雪は迷わず婚約指輪を取り出し、力いっぱい彼の顔めがけて投げつけた。
「私が人生で一番後悔してるのは、あんたみたいなクズを信じたことよ!」
千雪はくるりと背を向け、階段を駆け下りる。
鼻の奥がつんと痛み、目元が熱くなる。
喉が締め付けられるように苦しい。
それでも拳を握りしめ、顔を上げて背筋を伸ばす。
絶対に、誰にも――特に研一には弱いところを見せない。
璃子は千雪の背中を冷ややかに見送り、そっぽを向いた。
「お兄ちゃん、あんな女、自分から別れてくれてよかったじゃない。もう放っておけば?」
「何も分かってないな!」研一は苛立ちまぎれに妹を振り払った。
今や彼は天城グループ最大の株主だが、千雪が持つ株までは手に入れていない。もし彼女が他に売り渡したら、全てが水の泡だ。長年苦労して桜庭家を追い落としたこのタイミングで、絶対に失敗するわけにはいかない。
助手が慌てて床に落ちた指輪を拾い、研一に手渡す。
彼はそれを受け取り、千雪の背中に鋭い視線を投げかけた。指が白くなるほど力を込めて。
桜庭千雪――
俺は待ってるからな。
お前が泣きながら戻ってきて、俺にすがりつく日を――
―――――
―――――
東京セントラル病院。
千雪は急いで集中治療室の前に駆けつけた。ちょうど主治医の白井が回診を終えて出てくるところだった。
彼女は駆け寄り、声を震わせる。
「白井先生、父の容態は……今日はどうでしょうか?」
白井はマスクを外し、重い表情で答えた。
「オフィスでお話ししましょう。」
オフィスに入り、白井は水を手渡してくれた。
「桜庭さんの状態は依然として不安定です。ただ、ひとつ朗報があります。」少し声を和らげる。
「ご家族のご了解を得て、ご尊父の詳細なデータを、私の留学先の恩師で神経学の権威、ハンス・フォン・ベルク教授に送りました。もしご希望でしたら、カンファレンスに招き、執刀をお願いすることも可能です。」
「本当ですか!」千雪の目に希望の光が戻る。「白井先生、本当にありがとうございます!」
「ただし……」白井の表情が再び引き締まる。
「現状、ご尊父は転院できません。教授を日本に呼ぶ形になりますが、その場合は手術費用、ファーストクラスの航空券や滞在費、すべてご家族のご負担となります。かなり高額になるでしょう。千雪さん、ご家族でよくご相談ください。」
「相談する必要はありません!」千雪は強い口調で言い切る。「父を救えるのなら、財産のすべてを注ぎ込んでも構いません!だいたいの金額を教えていただけますか?」
「最も保守的に見積もっても、手術と関連費用だけで一千万円は下りません。リハビリ等を含めればさらに増えます。それに……」白井は机越しに、同情のこもったまなざしを向けた。「どんな名医でもリスクはゼロではありません。ハンス教授でも、必ず成功するとは限らない。」
「1%でも希望があるなら、私は絶対に諦めません!」千雪は席を立ち、深く頭を下げる。「お金のことは私が何とかします。教授への連絡、手術の手配、何もかもお願いします!」
母は早くに亡くなり、父の遠正が兄妹を懸命に育ててくれた。父が生きている限り、絶対に諦めない。それが遠くにいる兄にも、自分自身にも誓ったことだった。
白井は慌てて彼女を支え、「大丈夫、私たちも全力を尽くします」と励ました。
「それで……父に会ってもいいでしょうか?」
「もちろんです。」白井はうなずき、看護師に無菌服の準備を頼んだ。
厳重な消毒を経て、千雪は静かな集中治療室に入る。
ベッドには、父・遠正が紙のように青白い顔で横たわり、呼吸はかすか。胸が人工呼吸器の動きに合わせて、かすかに上下しているだけだった。
命の証は、心電図モニターに映る緑色の線と数字だけ。
千雪はゆっくりと手を伸ばし、かつては力強かった父の手をそっと握りしめ、自分の頬に当てる。
こらえていた涙が、目にあふれる。
「お父さん、心配しないで。私も兄さんも元気だから……」
「天城グループ、必ず守り抜いてみせる……」
「だから、お願い、諦めないで……」
「絶対に乗り越えて、早く元気になって……」
「兄さんが帰ったら、一緒に私の演奏会に来てね……」
「これ、お父さんが約束してくれたことだから……絶対に破らないで……」
病床の父は、目を閉じたまま動かない。
返ってくるのは、心電図モニターの冷たい電子音だけだった。
ピッ――
ピッ――
ピッ――
……