「お父様……」
冷たくなった父の手をしっかり握りしめたまま、千雪は喉が詰まって、もう一言も声にできなかった。
「桜庭さん、面会の時間です。」
看護師がそっと肩に手を置き、気遣うように声をかける。
どれほど離れがたくても、千雪は心を鬼にして父の手を放し、病室を後にした。
集中治療室には専門の看護師が24時間体制でついている。自分がここにいても、何の助けにもならない。
今、何よりも急がなければならないのは、莫大な医療費をどうにか工面することだった。
兄の大和が刑務所に入ってから、桜庭家の財産はすべて裁判所に差し押さえられてしまった。
自分名義で持っていた債券も、なんとか兄の多額の罰金を支払うのがやっと。
ジュエリーやバッグ類を全部売り払ったとしても、父のICUでの毎日の費用をどうにか賄える程度だった。
手術代は1000万円、さらにその後の治療費を合わせれば最低でも2000万円が必要だ。
そんな大金、いったいどこで手に入れればいいのか。
ふと、道端で楽器ケースを背負った子供が目に入り、千雪の胸に閃きが走る。
バス停の表示が見えるや否や、慌ててバスを降り、かつて愛用のバイオリンを購入した「清音堂」へと向かった。
店長の瀬戸清和は千雪のことを覚えており、丁寧にオフィスへ案内した。
「千雪さん、今日はどんな楽器をご覧になりますか?」
「いえ、今日は買いに来たわけじゃないんです。」千雪は申し訳なさそうに微笑む。「瀬戸さん、以前こちらでオーダーしたイタリア製のハンドメイド・バイオリン、覚えていらっしゃいますか?清音堂では中古楽器の買取は……?」
「基本的には直接買取はしていませんが、どうしてもということなら委託販売という形でお預かりできます。その場合は、売れた際に手数料をいただくことになります。」
「ありがとうございます。明日、バイオリンを持ってきます。」千雪は頭を下げる。「それと、もし何か仕事の情報があればぜひ教えてください。家庭教師やイベント出演、レコーディング……なんでも構いません。報酬さえ見合えば、どんな仕事でも受けます。」
清音堂は楽器販売だけでなく、演奏や教育の仕事も紹介していた。
千雪は過去にコンクールで受賞歴もあり、業界ではそれなりに知られた存在だ。瀬戸も何度か出演を打診したことがあったが、当時は桜庭家の令嬢として断られてばかりだった。そんな彼女が自ら仕事を頼んできたことに、瀬戸の顔には嬉しさが滲んだ。
「わかりました!良い話があれば、真っ先にご紹介します。」
瀬戸は丁寧に千雪を見送った。
その時、ちょうど演奏帰りの璃子と二人の同級生が清音堂に入ってきた。千雪の後ろ姿を見かけると、璃子は友人たちに合図し、瀬戸の方へと向かった。
「瀬戸さん、さっきの方……何しに来てたの?」璃子は常連客だった。
「ああ、あの方も素晴らしいバイオリニストでね。お仕事を探していらしたんですよ。」瀬戸はにこやかに答える。「それに、彼女は今イタリア製の最高級バイオリンを手放そうとしているんです。もしご興味があれば……」
「中古なんていらないわ。」璃子は鼻で笑うが、ふと思い付いたように、「でも、仕事なら……ちょうどバイオリニストが必要だったの。」
「それは素晴らしい!どうぞ、中で詳しくお話を。」
……
屋敷の音楽室。
千雪は静かにレコードを整理していた。
家中の価値ある絵画や骨董品はすでに東京中央銀行によって封印・リストアップされている。自分が持ち出せるものは、バイオリンとアルバム、服、そして思い出の詰まったレコードだけだった。
この音楽室は父・遠正が千雪のために用意してくれた特別な場所。練習部屋であり、レコードコレクションの宝庫でもあった。
幼い頃からバイオリンに夢中だった千雪のため、家族はどんな手を使ってでもレコードを集めてくれた。棚はぎっしり、ダンボール箱も詰め込まれている。
一番大切なレコードを選び、ターンテーブルにそっと置く。優美な旋律が部屋いっぱいに広がる。
千雪はバイオリンケースを手に取り、丁寧に弓に松脂を塗る。
このバイオリンは、12歳の誕生日に母が贈ってくれたものだ。母は「いつかウィーンの黄金ホールで、このバイオリンでリサイタルを開く千雪が見たい」と笑っていた。
今では、その大切な楽器すら、手元に残せるかどうか分からない。
家族で音楽を奏でていた幸せな日々を思い出し、こらえていた涙がついに静かに頬を伝う。
突然、携帯の着信音が鳴り響いた。
慌ててプレーヤーを止め、電話に出る。
「千雪さん、お仕事のご連絡です。プライベートな誕生日パーティーでバイオリン演奏の依頼です。報酬は1時間2万円。」瀬戸からだった。
千雪は深呼吸し、声の震えを抑えながら答える。
沈黙が続いたので、瀬戸は気を遣って言った。「ご希望にそぐわなければ、無理にとは……」
「いえ!」千雪はすぐに遮った。「やります。」
今の自分には、選ぶ余裕なんてない。
「ありがとうございます。それでは、詳細は後ほどメッセージで送ります。」
電話を切り、千雪は丁寧にシャワーを浴び、シンプルな黒いドレスに着替えた。
「お母さん、ごめんね……」バイオリンケースにそっと語りかけ、指先でその表面をなでる。そして唇を噛みしめ、ケースを静かに閉じた。
今は、父の命を救うことが何よりも大切だ。
バイオリンを手に、階段を駆け下りる。
夜7時、千雪は城南で最も名の知れた会員制バー「闇桜」に到着した。
3階のVIPルーム前。
ドアをノックすると、爆音のダンスミュージックが流れ出す。
扉を開けた青年は、千雪を見るなり言葉を失った。
千雪は静かに名乗る。「こんばんは、こちらは久瀬さんのバースデーパーティーで間違いありませんか?バイオリン演奏を依頼された桜庭千雪です。」
我に返った青年は、部屋の中に向かって叫んだ。「久瀬!頼んでた美人バイオリニストが来たぞ!」
その声で、部屋中の視線が一斉に千雪に注がれる。
バーカウンターで飲んでいた主役の久瀬栄一が振り返る。右手を軽く上げると、音楽がピタリと止まり、場が静まり返る。
久瀬は千雪の方に歩み寄り、上から下までじろじろと見て、皮肉な笑みを浮かべた。
「おや、これはこれは……雲の上から転げ落ちた桜庭家のお嬢様じゃないか。」
千雪はよく見て、やっとこの銀髪の青年が中学時代、告白してきて断った同級生の久瀬栄一だと気付いた。
スパンコールのミニドレスに身を包んだ璃子がカクテルグラスを片手に近づく。
「どう、久瀬さん?これが私からの誕生日プレゼント、気に入った?」彼女は久瀬の腕に絡み、挑発的な目で千雪を見つめた。
「おお、久瀬は今夜はツイてるな!」
「璃子、こういう“プレゼント”もっと持ってきてくれよ!」
……
男たちが好き勝手に盛り上がる。
璃子の姿を見て、千雪はすぐに察した——これは仕組まれた罠だ。
あの時、久瀬が千雪にラブレターを渡し、千雪がそれを無造作に捨てたことが、誰かにより学校中に貼り出され、大騒ぎになった。久瀬は笑い者になり、校長からも名指しで叱られた……それ以来、久瀬は千雪を恨み続けていた。
かつて桜庭家の権威があったから何もできなかったが、今の千雪にはそれがない。久瀬が復讐の機会を逃すはずがない。
千雪はバイオリンケースの取っ手をぎゅっと握り、踵を返して出ていこうとした。
だが璃子がすばやく前に回り込み、その行く手を塞いだ。
唇に冷たい笑みを浮かべ、鋭い視線で千雪を見据えていた。