「見てごらん、みんな。桜庭さんがすっかり怯えちゃってるじゃないの」
日下璃子はわざとらしく桜庭千雪の肩を抱き、強引にバーカウンターの前に引き戻した。
「改めてご紹介します!」と声を張り上げ、得意げに続けた。「こちらは私たちの東京芸術大学の才女、全国コンクールで賞も取ったんだから!今日は“お仕事”でわざわざ来てくれたのよ!」――「お仕事」の部分を、わざと強調して言った。
最初は桜庭千雪が久瀬栄一の客だと思われていたので、みんなも少しは遠慮していた。だが、「お金を稼ぎに来た」と聞いた途端、空気が一変した。
「おう、じゃあ桜庭さん、俺たちのために一曲弾いて盛り上げてくれよ!」
「そうそう!久瀬のために『小蛮腰』を頼む!」
「俺も知ってるぞ、例のSNSで流行ってるやつだろ。左にひねって、右に揺れて……うん、まだ足りない、もう一回あの腰つきで……」男の一人が下品な腰振りを真似しながら、いやらしく笑った。
――
部屋中が一気に大爆笑に包まれる。
「やれやれ、見てみたいな!」
「久瀬も絶対喜ぶぞ!」
――
「ごめんなさい」桜庭千雪は日下璃子の手を振り払い、冷たい声で言った。「私はクラシックしか演奏しません」
「弾かなくてもいいじゃない」日下璃子は隣の男のグラスを取り上げ、無理やり桜庭千雪の前に差し出した。「高校時代の同級生なんだし、今日は久瀬の誕生日よ。一杯くらい付き合ってあげなさいよ」
「私は演奏しに来たのであって、飲み相手じゃありません」桜庭千雪はグラスを押し返し、そのまま背を向けて出て行こうとした。
だが、誰も彼女を逃がそうとしない。一斉に立ちふさがった。
「おいおい、久瀬に恥かかせる気?」
「そうだよ!弾きもしない、酒も飲まない、どういうつもりだ?」
「金稼ぎに来て、清純ぶるなよ」
――
ドン!
久瀬栄一がグラスをカウンターに叩きつけ、大股で桜庭千雪の前に立ちはだかった。
そして、彼女が大事そうに抱えていたバイオリンケースを一気に奪い取った。
カウンターにもたれ、久瀬は顎をしゃくって合図を送った。
「酒を注げ」
すぐに誰かが三つのグラスを並べ、ウイスキーをなみなみと注いだ。
「金が欲しいんだろ?」久瀬はバイオリンケースをカウンターにドンと置き、威圧的に手を叩いた。「一杯二十万!何杯でも飲んだ分だけ払ってやる。この三杯全部飲んだら帰っていい。飲めないなら……フン、今日は絶対にここから出られないぞ」
日下璃子はカウンターにもたれ、スマホで撮影しながら、意地悪な笑みを浮かべた。
桜庭さん?
桜庭家のお嬢様?
ふん、今日はどうやって桜庭千雪が泣いて許しを請うのか、見ものだわ。
桜庭千雪は周囲を見渡した。
バイオリンは久瀬の手にあり、部屋の中は彼の取り巻きでいっぱい。ドアの前にも数人が立ちふさがっている。
飲まなければ、絶対に帰れない。
深く息を吸い、彼女はカウンターの前に立った。
「一杯、二十万?」
「二十万だ」
「飲めば、帰れる?」
「帰れるさ」
「男なら、約束は守ってよ」
言い終わると同時に、桜庭千雪は最初のグラスを手に取り、一気に飲み干した。
焼けつくような液体が喉を裂き、胃を激しく焼いた。吐き気を必死にこらえ、迷わず二杯目へ。
一杯!
二杯!
三杯!
三つのグラスは瞬く間に空になり、彼女はそれらを力強くカウンターに重ねた。
左手でスマホを取り出し、すぐさま送金コードを久瀬の前に突きつける。
「六十万、今すぐ振り込んで」
二十万あれば、父がICUであと一日過ごせる。
三杯で済むなら、命は取られない!
部屋が水を打ったように静まり返った。久瀬でさえ、しばらく呆然とした。
これほどまでに気の強い子だったとは、誰も思っていなかったのだ。
「どうしたの?」桜庭千雪は唇の酒を拭い、鋭い眼差しで睨みつけた。「怖じ気づいた?男じゃないの?」
久瀬は周囲の視線に耐えきれず、苦々しい顔でスマホを取り出した。
その隙に、桜庭千雪はバイオリンケースを奪い返し、ドアへと駆け出す。
彼女の覚悟に圧倒され、誰もすぐには動けなかった。
もう少しでドアノブに手が届く、その時――
「止めろ!」久瀬が怒鳴った。
ドア前の数人が壁のように立ちはだかる。
桜庭千雪はすぐに振り返り、バイオリンケースを胸に抱きしめて叫んだ。
「あなた、自分で言ったでしょ。飲み干したら帰っていいって!」
久瀬はニヤリと笑い、ゆっくりと彼女に近づき、耳元で冷たく囁いた。
「昔、お前のせいで俺は学校中で恥をかいた。簡単に許すと思ったか?」
彼は身を起こし、いやらしい視線で千雪の細い体を舐め回す。
「金が欲しいんだろ?じゃあもう一度チャンスをやる。服を一枚脱ぐごとに二十万。全部脱いだら……二百万だ!」
「うおーっ!」
「久瀬、やるな!最高だ!」
――
部屋には歓声と口笛、下品な笑い声が響き渡る。
桜庭千雪は奥歯を噛みしめ、顔を真っ赤にした。
「久瀬栄一、いい加減にして!」
「いい加減?」久瀬は彼女をソファに押し倒し、顎をつかみあげた。「もっとひどいことだってできるぞ」
酒臭い息を吐きながら、久瀬は千雪の唇に無理やりキスしようと迫る。
桜庭千雪は必死に抵抗した。
粘つく唇が頬をなぞる。
誰一人、助ける者はいない。
みんな狂ったように笑い、スマホでその様子を撮影していた。
混乱の中、千雪は手探りでソファの上を探り、捨てられた空き瓶をつかんだ。
ためらいなく、渾身の力で男の頭めがけて振り下ろす!
ガンッ――!
瓶は久瀬の頭上で砕け、ガラスの破片が飛び散った。
「久瀬!」
「大丈夫か!」
――
叫び声が飛び交い、慌てて久瀬を支える者たち。
「どけ!」久瀬は仲間を突き飛ばし、額から流れる血を拭いながら、ソファの隅で震える千雪を睨みつけた。「千雪、殺されたいのか?!」
桜庭千雪は髪を振り乱し、血のついた瓶の首を握りしめながら、赤い目で睨み返す。
「これ以上近付いたら……一緒に地獄に落ちるだけよ!」
――
――
忘れられていたバッグの中で、スマホが震え続ける。
画面には、鮮やかに浮かぶ着信名――
旦那様!
――
――
グローバルタワー最上階のレストラン。
兼松倫也は眉をひそめ、九度目のリダイヤルを押す。
「おかけになった電話は、現在おつなぎできません……」
冷たい自動音声がまた流れる。
一時間で九回も電話しているのに、一本も出ないとは。
「千雪、いい度胸だな」彼は奥歯を噛みしめ、再び発信ボタンを押す。
「これが最後だ」
すると、今度は電話がつながった。
「電話に出なかった理由、完璧に説明してもらおうか」一語一語、怒りを押し殺した声が続く。
「すみません、桜庭千雪さんのご主人ですか?」電話の向こうから、見知らぬ男性の声が聞こえた。
男だと?
彼女は男と一緒にいるのか?
「お前は誰だ?桜庭千雪の携帯がなぜお前の手に?」
「こちらは中央警察署の交番です。私は担当警察官です。奥様が事件に巻き込まれました。至急、署までお越しください」
交番?
事件に巻き込まれた?
兼松倫也の心臓が凍りつき、椅子から跳ね起きた。
勢い余って膝をテーブルにぶつけ、皿やカップがガチャガチャと音を立て、スープが飛び散る。
痛みも、テーブルの惨状も気にせず、矢のようにレストランの出口へ駆け出した。
「お客様!お上着を!」と、サービススタッフがコートを手に追いかける。
ちょうど閉じかけたエレベーターの扉に、兼松倫也の焦燥と怒りが浮かんだ顔が映っていた。