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第8話 細く白い背中


海のように青いブガッティ・ヴェイロンが、矢のような勢いで東京都中央警察署の交番に滑り込んだ。


兼松倫也は車を降りると、迷うことなく玄関へ駆け込む。


「千雪はどこだ!」


当直の警官が奥を指さす。兼松は勢いよく取調室のドアを開けた。隅で小さくうずくまる姿が目に入る。


千雪は膝を抱えてしゃがみ込み、薄手のドレスだけを身にまとっていた。


スカートや腕には、目を覆いたくなるような血の跡と汚れが広がっている。


「千雪!」


兼松は急いで駆け寄り、自分のジャケットを脱いで冷え切った彼女の体を包む。顔にかかる乱れた髪をそっとかきあげると、そこにも汚れがついていた。


「どこを怪我した?」


「怪我はしていません。暴れたのは彼女の方です。」取調べをしていた警官が首を振る。「見かけによらない子で、静かそうに見えて、なかなかやるね。」


突然、冷たい手が兼松の腕を強くつかんだ。千雪が顔を上げる。蒼白な頬に、怯えと酒に酔ったような色が混じる。


「違うの……彼らが私をいじめたから……私は……仕方なく……本当に……うそなんて……」


「分かってる。」


兼松はジャケットをきつくかけ直し、彼女をそっと抱き上げる。そのまま振り返って部屋を出ようとした。


「まだ手続きが……」警官が制止しかけるが、


その時、高橋が弁護士を連れて駆け込んできた。


「こちらが桜庭さんの代理人です。すでに手続きは済ませましたので、以降はこちらで対応します。」


兼松は何も言わず、千雪を抱えたまま交番を後にした。


夜風が吹き抜けると、彼女は小さく震え、無意識に彼の胸元に身を寄せる。


兼松は腕に力を込め、足早に階段を降りた。


車に戻ると、千雪を助手席に座らせ、シートベルトを丁寧に締め直す。


濃い酒と血の匂いが車内に漂う。千雪は酔いがひどく、彼の顔を認識できず、ただ本能的にスーツの袖を握りしめ、繰り返しつぶやく。


「本当に……うそじゃないの……あの……久瀬……久瀬栄一が……無理やりキスしてきて……だから……私……やり返しただけ……」


「無理やり」という言葉が、鋭い針のように兼松の耳に突き刺さった。


シートの背もたれに置いた手が、無意識に力を込めて白くなる。


深く息を吸い込み、兼松は千雪の細い肩をしっかりと支え、低く落ち着いた声で言った。


「信じてる。もう大丈夫だ、家に帰ろう。」


「……家に?」


「ああ、帰ろう。」


「家に帰る」という言葉に、千雪のこわばった体がふっと緩む。彼女は力なく彼の腕を離し、シートに身を委ねた。


兼松はジャケットを整え、運転席へ戻る。エンジンをかけると、千雪の凍えた脚が目に入り、すぐに暖房を強めた。


海のように青いスーパーカーが交番を出たその時、黒いベンツがちょうど敷地に入ってきた。


二台の車がすれ違う。


黒いベンツは階段下に停まり、日下研一が弁護士と共に降り立つ。


弁護士が交渉し、すぐに日下璃子を連れ出した。


妹を車のそばまで送り、弁護士は小声で研一に報告する。


「桜庭千雪が、誕生日の久瀬栄一の頭を殴りました。お嬢様は現場にいただけなので、特に問題ありません。」


研一の眉間に深いしわが寄り、鋭い視線で璃子をにらむ。


「お前の仕業か?千雪が自分から久瀬の誕生日に行くはずがない。」


「そうよ!」璃子はそっけなく唇を尖らせる。「あんなふうに婚約破棄して日下家に恥をかかせたのよ。ちょっと仕返ししただけ!」


バシン——!


鋭い音とともに、璃子の頬に平手打ちが飛ぶ。弁護士も驚いて一歩下がった。


「な、何するのよ!?」璃子は頬を押さえ、涙目で兄を見上げる。


「馬鹿者!桜庭千雪は天城グループの株を10%持っているんだぞ!余計なことをしてくれたな!」


彼は璃子を車に押し込む。


「さっさと乗れ!」


弁護士が慌てて後部座席のドアを開ける。


「株なんて関係ないでしょ!本当は千雪のこと好きなんでしょ!」璃子は泣きながら反抗する。


研一の怒りがさらに燃え上がるが、弁護士が慌てて止めに入る。


「社長、お嬢様はまだ子供です。どうかお怒りを鎮めてください。」


研一は苦々しい表情でしばらく黙り、やがて交番の方へと歩き出した。


「一緒に来い。千雪を保釈する。」


「桜庭さんはもう引き取られました。」弁護士が急いで説明する。「先ほど確認したところ、家族の方が迎えに来たそうです。」


「家族?」研一は足を止めて呆然とする。「彼女に家族なんて……?」


千雪の母は早くに亡くなり、父も意識がなく、兄も今は海外だ。今や彼女は一人きりのはずだ。


「そ、それが……詳しいことはまだ……」


「分からないなら調べろ!何のための高い給料だ!」


研一は苛立ちを隠さず後部座席に戻り、ドアを強く閉めた。鋭い眼差しを、車の隅に小さくなった璃子に投げる。


「これからは、二度と千雪に手を出すな。分かったな?」


その目は、嵐の前の空のように冷たく重い。


璃子は腫れた頬を押さえ、怯えたように小さくなり、か細い声で「……分かった」と答えた。


……

……


海色のスーパーカーが桜庭家の屋敷の前で止まったとき、千雪は助手席ですでに深い眠りについていた。


兼松は車を降りて玄関をノックしたが、屋敷は真っ暗で応答がない。


仕方なく千雪のバッグから鍵を取り出し、彼女を抱えて二階の寝室へ運ぶ。


ぬるま湯を半分ほど飲ませると、バスルームで温かいタオルを用意し、乾いた血が付いた彼女の手をそっと拭き始めた。


その時、ポケットの携帯が震えた。


兼松は片手で通話ボタンを押す。


「どうした。」


「兼松さん、調べがつきました。久瀬栄一のやつ、酒に酔って桜庭さんに無理やり手を出そうとしたみたいです。千雪さんは正当防衛です!」高橋の声には怒りが滲んでいた。「あいつ、和解を申し出てきましたが、もちろん断っておきました。しばらく反省してもらいます!」


兼松はベッドで丸くなった千雪を見下ろす。


今の千雪は、怯えた小動物のように静かで、守ってやりたいほど儚い。


兼松の目が細くなり、鋭い光を帯びる。


「出してやれ。」


高橋が驚いて声を上げる。「え?もう許すんですか?それじゃあ奴が得するだけですよ。形式上とはいえ、千雪さんは兼松さんの奥さんなのに!」


兼松は温かいタオルで、細心の注意を払いながら血を拭い取る。指先が薄い傷跡に触れた時、氷のような声で言った。


「出してやれ。その代わり……病院送りにしろ。」


数日拘留されるだけでは、到底足りない。


電話の向こうで短い沈黙があった。


「了解しました。」


携帯を脇に置き、兼松は千雪の手と顔を丁寧に拭き終える。乱れた髪をそっと耳にかけ、しばらく彼女の寝顔を見つめていた。


やがて、千雪をそっと抱き起こす。


長い指がドレスの背中のジッパーにかかると、静かに下ろした。


薄い布地が音もなく両側に開き、白く華奢な背中と、細い腰のラインがそっと露わになった。


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