兼松倫也はそっと顔を背け、視線を外しながらも手際よく桜庭千雪の血で汚れたドレスを脱がせ、すぐに布団をしっかりとかけてやった。
汚れたドレスと自分のジャケットを一緒にゴミ箱へ投げ入れ、手を丁寧に洗う。
ベッドに戻ると、スタンドライトの明かりをやや落とし、優しい灯りの下で彼女の眠る横顔をじっと見つめていた。
ほのかな光が浮かび上がらせる彼女の繊細な顔立ち。ふっくらとした唇がわずかに開き、無意識のうちにキスを誘うような表情を見せている。
兼松倫也は静かに顔を近づけ、そっと額にキスを落とした。
「おやすみ。」
丁寧に布団の端を整え、立ち上がろうとしたその時――
「お父さん……行かないで!」
桜庭千雪が突然身を翻し、彼の腕にぎゅっとしがみついた。
その拍子に布団がずり落ち、なめらかな肩や背中があらわになり、胸元も微かに覗く。
兼松倫也の目が一瞬暗くなったが、すぐに布団を引き寄せ、再び彼女を包み込む。
「離してくれ。」
「やだ……」鼻をすするような甘えた声で、さらに強くしがみつく。「一緒に寝て……お母さんいなくなっちゃったし……ひとりじゃ怖い……」
「ほんとに困った子だな。」
兼松倫也は眉をひそめて小声で叱るが、結局は諦めてベッドの端に腰を下ろした。
その夜、桜庭千雪は久しぶりに安らかな夢を見た。
夢の中では幼い頃に戻っていて、父に甘えて離れなかった自分を思い出す。父の大きな腕の中は温かくて、どこまでも安心できた――
悪夢もなく、眠れぬ夜もなく、気づけば朝までぐっすり眠っていた。
桜庭家に不幸があってから、父が倒れて以来、こんなに深く眠れたのは初めてだった。
朝、ふと目を覚ますと、最初に目に入ったのは男の腕――自分の枕になっている。
骨ばったその手は白く、浮き上がる血管がどこか色気と力強さを感じさせる。
男……?
意識が一気に覚醒した。
桜庭千雪は驚いて跳ね起き、隣を見る。
カーテンの隙間から差し込む淡い朝日が、ぼんやりと部屋を照らしている。
ベッドの端には黒いシャツ姿の男性が横になり、長い脚の片方は窮屈そうにベッドからはみ出していた――
兼松倫也……!?
どうして彼が自分のベッドに――?
まさか……
桜庭千雪は慌てて自分の体を被っている布団をぎゅっと引き上げて包み込む。
その気配で兼松倫也が目を覚まし、眉をしかめながら腕を動かす。どうやら彼女に腕枕をされていたせいで、しびれているようだ。
「目が覚めたか?」
「わ、私の服……脱がせたのはあなた?」桜庭千雪は疑いや羞恥を隠しきれず声を震わせる。
兼松倫也は立ち上がり、見下ろすように彼女を見つめた。どこか余裕を感じさせる瞳だ。
「他に誰がいる?」
桜庭千雪:「……」
人の弱みに付け込んでおいて、なんて言い草なの……!
「次からは……兼松さんに迷惑かけません。」
「次?」兼松倫也は急に身を乗り出し、両手をベッドに突いて顔をぐっと近づけた。呼吸が触れ合うほどの距離で、「桜庭千雪、よく聞け。昨日みたいなこと、二度と許さないからな。」
夜中に交番まで迎えに来させて、彼のような立場の人には、きっと面倒で恥ずかしい思いをさせたはずだ。
桜庭千雪は伏し目がちに「もう迷惑かけません」と小さく呟いた。
迷惑――?
兼松倫也はさらに眉をひそめる。
ふと彼女の首筋の薄い痣に気づき、心の中で渦巻く怒りを必死に抑え込む。
「下で待ってる。」
椅子にかけてあったジャケットを手に取り、足早に部屋を出て行った。
階下に足音が消えると、桜庭千雪はすぐにベッドから飛び降り、タオルケットを巻きつけて浴室へ駆け込んだ。
手早くシャワーを浴び、髪を拭きながらふとゴミ箱に目をやる。
そこには血のついたドレスと、汚れの目立つ男性用ジャケットが――
つまり……
彼が自分のドレスを脱がせたのは、そういう理由だったのか。
男女のことに疎いわけではない。目覚めたとき、兼松倫也は服をきちんと着ていたし、自分の下着も乱れていない。体にも何の異変もない――
彼は交番から助け出してくれ、一晩中世話をしてくれたのに、私は何も知らずに疑ってしまった――
桜庭千雪は顔を真っ赤にし、恥ずかしさと申し訳なさで胸がいっぱいになった。
急いで髪を乾かし、着替えて階下へ駆け降りる。
リビングでは、兼松倫也が窓際に立ち、指先に煙草を挟んでいた。
足音を聞くと、彼は振り返りもせず、一口しか吸っていない煙草を灰皿で消した。
千雪は彼の正面に立ち、真剣な表情で頭を下げた。
「ごめんなさい……さっきは誤解して。あと、昨夜は本当にありがとう。」
彼女はゆったりした白いバスローブ姿で、濡れた髪が肩にかかり、数本の髪が胸元に落ちて肌の白さを際立たせている。
ふいに昨夜の光景が脳裏をよぎり、兼松倫也は喉を鳴らし、そっと視線をそらした。
「それで……感激して身を捧げるつもりか?」
どうしてこの人はこういう時だけ口が達者なんだろう!
「そんなつもりありません!」
秋冬の空気に、煙草の残り香が混じる。喉が弱い彼女は思わず小さく咳き込んだ。
「違うのか?」兼松倫也は眉を上げ、煙を手で払う。「じゃあ、昨日は誰が俺の腕に抱きついて、離れなかったんだ?一緒に寝てくれって。」
まさか……あれは夢じゃなくて、彼だったの……?
「お父さん」って呼んで抱きついた相手が、まさか兼松倫也だったなんて――
「わ、私は……酔ってて、間違えただけ!」
「身を捧げる気がないなら、そんな格好で俺の前をうろつくなよ。」兼松倫也は突然、指の甲で彼女の額の水滴を拭い、低い声で囁く。「男の朝は……危険だぞ。」
この人、ほんとに最低!
せっかく感謝しかけた気持ちが一瞬で吹き飛び、千雪は彼の手を振り払って、慌てて階段の方へ駆け出した。
その時、兼松倫也の視線が千雪を越えて、窓の外に止まった車へ向けられる。彼はリビングのドアを開けた。
ちょうど高橋修が、バイオリンケースとレストランのロゴ入りの朝食袋を持って階段を上がってきたところだった。
兼松倫也は彼をダイニングへ通し、朝食をテーブルに並べる。
「うまくいったか?」
「ご安心ください。」高橋修はいたずらっぽく笑いながら、「あのクズは少なくとも一ヶ月は病院暮らしですよ。これで少しは世の中も平和になります。」
兼松倫也はジャケットを羽織り、テーブルの主席に座り、おしるこをゆっくりとかき混ぜる。
「先に会社に行っててくれ。俺は後から行く。」
高橋修が出ていくと、すぐに階段から千雪の慌ただしい足音が響く。上着とバッグを手に、今にも飛び出しそうな勢いだ。
「こっち来い。」兼松倫也は温かいお粥を彼女の席に置く。「一緒に朝ごはんを食べろ。」
「ダメです!すぐに中央警察署の交番に行かなきゃ!」千雪は玄関で靴を履き替えながら叫ぶ。「大事なものを置いてきちゃったんです!」
着替えた時に思い出した。あのバイオリン。母の形見で、父の治療費でもある大切なものだ。どうしても取り戻さなきゃ――
兼松倫也は静かに左手を上げた。
「これのことか?」