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第10話 唇に触れたぬくもり


桜庭千雪が顔を向けると、彼の手には自分のヴァイオリンケースがあった。目が一瞬で輝く。

小走りで彼のもとへ駆け寄り、ケースを受け取ると、待ちきれない様子で蓋を開け、ヴァイオリンを大事そうに取り出して隅々まで確認した。

楽器に傷一つないことを確かめてから、ようやくほっと息をつき、胸にしっかりと抱きしめる。そして顔を上げて兼松倫也を見ると、瞳には感謝の気持ちが溢れていた。

お礼を言おうとした瞬間、兼松倫也が先に口を開いた。


「これで、心置きなく朝ごはんを食べられるか?」


千雪はヴァイオリンを丁寧に片付けて脇に置き、彼の隣の椅子に腰を下ろす。ふとテーブルに目をやって、思わず固まった。

そこには、銀座松崎のあんまんとおしるこが並んでいる――どちらも千雪の大好物だ。

まさか、彼のような人が、こんな甘い朝食を選ぶとは思わなかった。


千雪はおしるこを両手で包み、そっと一口、口に運ぶ。

デーツの甘みと豆や米の風味が絶妙に混ざり合い、懐かしい味が口いっぱいに広がる。

家が傾いてからというもの、もう長いことこの店の朝食には手が届かなかった。今の自分には、あの値段はとても払えない。


おしるこの温かさはちょうどよく、ほのかな甘みが二日酔いで重かった胃をやさしく癒してくれる。

両手で湯気の立つ器を抱きしめたまま、千雪は真剣な表情で顔を横に向けた。


「今回ばかりは……大きな借りができました。」


二人はあくまで契約結婚であり、彼にはこんな面倒まで見る義務はないはずなのに――。


兼松倫也は静かに顔を上げ、その深い黒い瞳で千雪をじっと見つめた。

その視線はあまりに複雑で、千雪には読み取れなかった。

でも――

なぜか、少し機嫌が悪そうな気がしてならない。

私が無駄口を叩いたせいかな?

これ以上余計なことは言うまいと、千雪は再びおしるこに集中し、静かに食べ始めた。


兼松倫也はあんまんを一つ取り、具を一口だけかじると、ほんのわずかに眉をひそめてから、そっと置いた。おしるこにはまったく手をつけなかった。


千雪はその様子をちらりと見て、内心で首を傾げる。せっかく自分で買ったのに、食べないなんて……。こういう人の考えは本当に分からない。


その時、兼松倫也のポケットの中でスマートフォンが振動した。彼は短く通話を終え、電話を切る。


「会社で用事ができた。先に出る。」


やっと出かけてくれると、千雪は密かに胸をなで下ろす。


「はい。」


「そんなに俺が出ていくのが嬉しいのか?」と、兼松倫也は片眉を上げる。


「……」


そんなに分かりやすかった?と千雪は内心焦る。


「もちろん……そんなことありません。」と、軽く咳払いをして取り繕う。「お仕事の邪魔をしたくないだけです。」


兼松倫也は千雪の心の中を見透かしていたが、あえて何も言わなかった。


千雪は自ら立ち上がり、彼を玄関まで見送る。

玄関の扉を開けると、冷たい秋風が吹き込んできた。彼が薄手の黒シャツ一枚しか着ていないことに気づき、千雪はふと思い出す。ゴミ箱には破れた高級スーツが捨てられていたのだ。


「ちょっと待っててください。」


千雪は足早に階段を駆け上がり、すぐに新しいグレーのメンズセーターを持って戻ってきた。


「このセーター……本当は別の人にあげるつもりだったんです。外は寒いですし、もしよければ着て行ってください。」


兼松倫也はそのセーターに目を落とす。


「日下研一に渡す予定だったのか?」


なんて言い草!と千雪はムッとして、


「いらないなら、無理して着なくてもいいです!」


実はこれは兄の桜庭大和の誕生日プレゼントだったのだ。今はもう渡す相手もいない。


兼松倫也はさっと手を伸ばすと、そのままセーターを受け取り、身につけた。

彼は長身でスタイルが良く、このセーターも見事に似合っていた。黒いシャツと合わせると、まるでファッション雑誌のモデルのようだ。


千雪は襟元にタグがついているのに気づき、玄関の棚から小さなハサミを取って手際よく切り取ってあげた。


「はい、できました。」


千雪が離れようとした瞬間、兼松倫也の腕がそっと千雪の腰を引き寄せた。

彼は顔を近づけ、優しい声でささやく。


「千雪、何か忘れていないか?」


「……何のことですか?」


「妻が夫を見送るときは、キスと『いってらっしゃい』が必要だろう?」と、いたずらっぽく微笑みながら言った。


その黒い瞳はやわらかく笑いを含み、どこか色っぽい。


早くこの“厄介者”を送り出してしまいたい一心で、千雪は背伸びして頬に軽くキスしようとした。

だが、兼松倫也はそれを見越していたかのように顔をほんの少しだけ傾けた――


千雪の唇は、ぴったりと彼の温かな唇の端に触れた。


胸が、何かに激しく打たれたように跳ね上がる。

千雪は驚いたウサギのように彼の腕から逃れ、慌てて室内へと飛び込み、「バタン!」とドアを閉めた。


「いってらっしゃい!」ドア越しに、わずかに震える声が漏れる。


外では、

兼松倫也が車の鍵を指先で回しながら、口元にかすかな微笑みを浮かべて階段を下りていく。


室内では、

千雪がドアにもたれ、まだドキドキと胸の鼓動が収まらないでいた。


トントントン!

再びドアがノックされる。


また兼松倫也が戻ってきてからかわれるのかと思い、千雪はむっとしてドアを勢いよく開いた。


「いい加減にしてくれない?」


しかし、そこに立っていたのは、幼なじみの朝比奈ひかりだった。


「ちょっと!」と、ひかりは冗談めかして不満を言う。「歓迎してくれないの?」


「そんなことないよ!」千雪は急いで笑顔を作り、ひかりを中へと招き入れる。「また助けてもらってごめんね、ひかり。」


「そんな他人行儀なこと言わないの!」と、ひかりは軽く睨みながらバッグをソファに投げる。「荷物は全部まとめてある?」


「うん、二階に。全部箱詰めしてあるよ。」


今日、銀行が正式にこの家を差し押さえることになっていた。千雪は学校の寮に移ることにしていた。その方が節約になるし、通学も楽だ。ただ、コレクションしていたレコードや私物が多すぎて寮には入りきらず、しばらくの間ひかりの家に預かってもらうことになった。


二人で二階に上がり、十数箱もの荷物を手分けして下ろし、ひかりの車のトランクに積み込む。終わった頃には、二人とも汗びっしょりになっていた。


千雪が冷蔵庫を開けて飲み物を探すが、何も入っていない。ここ数日、生活用品を買いに行く余裕もなかった。


「大丈夫、車に水があるから。」と、ひかりは車からペットボトルを二本持ってきて、一本を千雪に手渡した。


「もしよかったら、うちに住まない?」


「大丈夫。寮で十分だし、通学も食事も楽だから。」


「そう。まあ、それならいいけど。」と、ひかりはうなずき、ふと心配そうに聞いた。「でも……日下研一のやつ、もうしつこくしてこない?」


「大丈夫。もうきっぱり別れたから。」


ひかりを心配させたくなかったし、彼女の家も今ごたごたしている。ひかりの父親が外で作った子供と愛人を家に連れて帰ったばかりなのだ。だから、兼松倫也のことはあえて話さなかった。今のひかりに余計な悩みを増やしたくない。


「それなら良かった!」と、ひかりは満足そうにうなずく。「あんなやつ、最初から千雪には釣り合わないんだから!」


これ以上、嫌な話はしたくないと、ひかりはすぐに話題を変える。


「ねえ、知ってる?久瀬栄一――あの中学のときラブレター送ってきたバカ――あいつ、やられたんだって!」


千雪の心がざわめく。「いつの話?」


「昨夜だよ!警察から出たばっかりで家に戻る前に、路地裏で誰かに襲われて、足を折られたんだって!粉砕骨折で、もうまともに歩けなくなるかもってお医者さんが言ってた。どこの誰がやったのか分からないけど、あんな悪党、やられて当然だよね!私が知ってたら、その人におごってあげたいくらい!」


千雪の脳裏に一瞬、兼松倫也の冷たい顔が浮かんだが、すぐにその考えを打ち消した。あの人が自分のためにそんなことするはずがない。


「そうだ!」と、ひかりが急に思い出したように千雪の腕をつかむ。「昨日、うちの父さんたちが話してたけど、兼松家の“悪魔”が日本へ戻ってきて、都内で活動してるって!本当に気をつけて、絶対に近づいちゃダメだよ!」


昔、兼松倫也と日下研一の派手な喧嘩が、東京の上流社会で大騒ぎになったことを、ひかりは今でもよく覚えている。だから、千雪が元・日下研一の婚約者だったこともあり、兼松倫也が千雪に八つ当たりしないかと心配していた。


でも、逃げる? 

千雪は苦笑いを浮かべる。


きっと、ひかりは夢にも思わないだろう。今の自分が、正式に“兼松さん”になっているなんて。


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