昼時、桜庭千雪はわざわざ出前を頼み、朝比奈ひかりを桜庭家の屋敷に招いて一緒に昼食をとった。
ひとつは、ここ数日惜しみなく手助けしてくれた親友へのお礼。
もうひとつは、このまもなく失われる屋敷で、最後の食事をしたかったからだ。
今日は銀行が正式に家を引き取る日。これから先、もう二度と、この思い出が詰まった桜庭家の門をくぐることはできないかもしれない。
帰り際、ひかりはバッグからキャッシュカードを取り出し、無理やり千雪に渡そうとした。
千雪は受け取らず、「本当に困った時に、また頼らせてもらうよ」とだけ言った。
ひかりはまだ実習生で、お小遣いも家からもらっている。義母の扱いも厳しく、決して余裕があるわけではない。桜庭家の件でも、ひかりは自分のへそくりを全部千雪に渡してくれた。これ以上迷惑をかけたくなかった。
千雪の強さや誇りを誰よりも知っているひかりは、彼女を傷つけたくなくて、何も言わずにカードをしまい、わざと明るく肩を叩いた。
「よし!待っててよ!私が家をあの意地悪な母娘から取り返したら、毎日二人で美味しいもの食べて、朝比奈家のワインセラーも空っぽにしてやろう!」
「うん!」千雪は笑顔で頷いた。
ひかりを見送ったあと、千雪は屋敷の隅々まで丁寧に掃除し、スマホで部屋の一つ一つを写真や動画に収めた。
この古い家は、彼女が生まれ育った場所だ。
階段の塗装は、幼いころ兄の大和とふざけて剥がした痕。庭には母が植えた桜の木が、いまや大きな木陰を作っている。父が手作りしたブランコもまだ残っている。
すべてが宝物のような思い出だ。
午後二時前、東京中央銀行の融資部長・富田秀明が部下を連れて、威圧的に家の引き渡しにやってきた。
荷物をまとめて階下に降りた千雪を、富田はじろじろと冷たい目で見た。
「荷物、開けなさい」
「私物だけです」
「中に骨董品や書画を隠してないとは限らないだろう。開けろ」
前回千雪に平手打ちを食らったことを根に持ち、この機会を絶対に逃すまいと意地悪く命じた。
千雪は静かにスーツケースのファスナーを開け、中身を見せた。
富田はわざとらしく中を漁り、下着の入った袋を見つけて顎をしゃくった。
「これは何だ?」
若い職員たちも、いやらしい顔で様子をうかがう。
露骨な侮辱だった。
以前なら千雪は泣き出していたかもしれない。しかし今は違う。もう守られるだけの少女ではない。
彼女は背筋を伸ばし、落ち着いた声で言った。
「下着と生理用品です。富田さん、ご自分で確認しますか?」
この数日、彼女は一つの残酷な真理を学んだ。弱く出れば出るほど、相手はますますつけこんでくる。
「生理用品」という言葉に、富田の顔が一瞬ひきつった。彼は腹立たしげにスーツケースを蹴った。
「縁起でもない!」
千雪は無言でスーツケースのファスナーを締め直し、紙ナプキンで靴跡を丁寧に拭き取った。
そして、氷のような目で富田を真っ直ぐ見据えた。
「東京中央銀行、富田秀明部長。あなたのことは忘れません」
いつか必ず、受けた屈辱と痛みをすべて取り返してみせる――
その視線に気圧され、富田は苛立ちまぎれに怒鳴った。
「鍵を置いて、とっとと出ていけ!」
千雪は玄関の棚に鍵を音を立てて置き、スーツケースとヴァイオリンを持って振り返ることなく屋敷を後にした。
彼女は学校には向かわず、まず清音堂楽器店に立ち寄った。
店長の瀬戸清和は、千雪を見かけるなりすぐに深く頭を下げてオフィスに案内した。
「千雪さん、先日の件は本当に申し訳なかった!まさかあんなことになるとは……」――誕生日パーティーでの一件を指していた。
「瀬戸さんのせいじゃありません」千雪は、すべての元凶が日下璃子だと分かっていたので、瀬戸に怒りはなかった。
大切にしていたヴァイオリンの委託販売契約を済ませ、千雪は慎重に契約書をしまい、店頭で安価な練習用ヴァイオリンを選んだ。
瀬戸は申し訳なさから割引をしてくれ、今後良い演奏の機会があれば必ず千雪を優先して推薦すると約束した。
十年連れ添った愛器に最後の別れを告げ、千雪は深々と頭を下げて店を出た。
スーツケースを引きながら学校に戻ると、寮に荷物を置く間もなく、そのまま練習室へと急いだ。新しいヴァイオリンに早く慣れたかったからだ。
練習室では、学内オーケストラが重要な公演のためにリハーサル中だった。
主任の白井慕岐が厳しい顔で日下璃子を叱っていた。
「君はコンサートマスターだろう!オーケストラの心臓だ!その心臓がこれじゃ、全体がだめになる!自分がどんな演奏をしてるかわかってるのか?」
ふと、千雪が入ってくるのが見えると、白井の顔がパッと明るくなった。
「千雪さん!ちょうどいいところに。ちょっと、この曲を弾いてみてくれないか」
璃子はすぐに顔をしかめた。
「先生!今回のコンサートマスターは私って約束だったはずです!」
「その実力を示せなきゃ意味がないだろう」白井は冷たく言い放つ。
「この曲、私は二週間かけてやっとなんとか通したんです。千雪さんは譜面も見てないのに、できるはずがない!」
「そうですよ、白井先生。いきなり交代はリスクが高すぎます」
「区の主催演奏会ですよ、失敗したらどうするんですか?」
校内の先生たちも口々に不安を口にした。千雪の実力は誰もが認めていたが、本番直前の交代はやはり危険だ。
白井も迷い始めた。
千雪はヴァイオリンケースを持って前に進み、まっすぐな目で言った。
「校長先生、白井先生、皆さま。ぜひ、挑戦させていただけませんか?」
「挑戦?」璃子は鼻で笑った。「千雪さん、自信過剰じゃない?」
千雪は黙ってケースを開け、ヴァイオリンを構えて譜面台の前に立った。
「そこ、どいて」
璃子は軽く舌打ちして横に下がった。
この新曲は非常に難しく、璃子は二週間練習してもミスばかりだった。千雪が一度で弾けるはずがない、と信じて疑わなかった。
千雪はさっと譜面を目で追い、目を閉じて旋律を頭の中でなぞると、肩にヴァイオリンをしっかりと構えた。
日下研一に奪われたもの、踏みにじられた誇り――
この手で、すべて取り戻す。
まずは、このコンサートマスターの座から。
深呼吸し、右手を上げて弓を弦にのせる。
清らかで伸びやかな音色が、一瞬で練習室に満ちていった。
最初は少しぎこちなかったが、すぐに完全に演奏に没頭した。
リズムも音程も、表現も――
一切のミスなし。
演奏が終わると、誰もが驚き息を呑んだ。
「素晴らしい!」白井が真っ先に拍手を送る。
校長や先生たちも感嘆の表情で立ち上がった。
副校長がその場で宣言した。
「よし!桜庭千雪さん、今回のコンサートマスターはあなたにお願いします!」
千雪は静かに息をつき、真剣な表情で頭を下げた。
「校長先生、先生方、信頼してくださりありがとうございます。全力で頑張ります」
璃子は悔しそうに足踏みしながら甘えた声をあげた。
「校長先生、私はどうなるんですか?」
副校長はにこやかに答えた。
「君には、千雪さんのサポートをお願いしよう。準備は万全が一番だからね」