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第12話 絶対に君を……毎晩幸せにしてみせる!


補欠?

日下璃子は怒りで胸が張り裂けそうだった。とても納得できるはずがない。

「でも……」

「もういい!」副校長は有無を言わせぬ口調で手を振った。「今回の公演は学校の名誉に関わることだ。皆、余計なことは許さん!従わないなら、それなりの覚悟をしておけ!」

日下璃子は奥歯を噛み締めながらも、結局は言い返すことができなかった。


教員や指導者たちが次々と部屋を出ていき、オーケストラの学生たちも楽器を片付け始めた。

日下璃子は不機嫌そうに、高価なブランドのバイオリンをケースにしまう。その様子を見ていた取り巻きの女子たちがすぐに寄ってきて、慰めるふりをしながら桜庭千雪への皮肉を口にした。

「誰かさんって本当に図々しいよね。他人のものを平気で奪うんだから!」

「そうそう!わざとこのタイミングで来たんでしょ?ほんと性格悪い!」

……


桜庭千雪の味方をする人間は一人もいなかった。

かつて彼女に媚びていた男子学生たちでさえも、今はもう見向きもしない。

家柄も良く、優しく美しい桜庭千雪は、東京芸術大学で誰もが認める“女神”だった。

だが今、桜庭家が十億円もの負債を抱え、彼女のそばに誰も近づこうとしない。夢のような恋愛のために、そんな重荷を背負える人はいないのだ。


卑怯?陰険?

そんな言葉を投げかけられても、桜庭千雪はもはや反論する気力もない。

「もともとこのポジションは私のものよ。」

彼女は静かな目で日下璃子を見つめた。「実力で取り返せるならやってみなさい。できないなら……黙ってて。」


日下璃子はバイオリンケースを提げ、わざと桜庭千雪の譜面台を強くぶつけて倒し、さらに落ちた楽譜を踏みつけた。

「見てなさいよ。いつまでいい気でいられるかしら!」


桜庭千雪は黙って楽譜を拾い上げ、丁寧に靴跡を払ってから譜面台に戻した。

今の彼女は、父と兄の唯一の支えだ。どんなことがあっても、倒れるわけにはいかない。

バイオリンを肩に構え、溢れる苦しみも悔しさも、全ては音色に込めて、無言のまま吐き出した。


夜、学食でささっと夕食を済ませると、桜庭千雪はまた空っぽの練習室に戻った。

今の自分には、音楽だけが唯一の拠り所であり、これから生きていくためのすべてだった。練習するしか、道はない。

何度も、何度も。同じフレーズを骨身に叩き込むまで弾き続け、ようやく疲れ切った体で寮に戻った。


ルームメイトはすでに寝ていた。千雪はそっと身支度を済ませ、自分のベッドに潜り込む。

だが布団をめくった瞬間、氷のような冷たさが体中を襲った!

思わず飛び起きる。


「どうしたの?」

「何かあった?」

目を覚ましたルームメイトの一人がスマホのライトで千雪のベッドを照らす。

その光の下、布団とシーツが大きく濡れているのがはっきりと見えた。

部屋には低い怒りと驚きの声が広がる。


「これ、絶対日下璃子の仕業だよ!帰るとき、あの子がこそこそ出ていくの見たもん!」

「最低すぎる!」

「これからは必ず鍵をかけて出よう!」

……


「千雪、よかったら今夜私のベッドで一緒に寝る?」

ショートヘアのルームメイトが優しく声をかけてくれた。

大学生活の間、千雪はほとんど実家暮らしで、寮の友達とも特別親しいわけではない。狭いベッドに無理に入るのも気が引けた。

「大丈夫、布団を裏返せば平気だから。ごめんね、みんな起こしちゃって。」

そう言って布団をひっくり返し、もう一度横になった。


ルームメイトたちはすぐにまた寝息を立て始めた。

千雪は冷たい布団の中で体を小さく縮め、寒さにじっと耐えていた。

秋も深まり、夜は身を切るような冷たさ。濡れた布団はどう裏返しても温まらない。

眠れずに、ついに起き上がり服を着て、水筒を手に給湯室へと向かった。


スマホで足元を照らすと、ふと未読のLINE友達申請が目に入る。

「兼松倫也があなたを友達に追加しようとしています」

申請は数時間前、練習に没頭していて気づかなかった。

彼の申請は断れない。

千雪はすぐに承認した。


ほぼ同時に、兼松倫也から電話がかかってきた。

ルームメイトを起こさないよう、すぐに通話ボタンを押し、給湯室まで足早に移動する。


「どうした?」

男の落ち着いたハスキーな声が、深夜の静けさの中で妙に心に響く。

「……俺の腕の中じゃないと、眠れないのか?」


なんて自信家なの……!

「昨日は、ちょっと飲みすぎただけよ。」

千雪は強がって返す。


すると、隙間風が窓から吹き込み、思わず大きなくしゃみが出た。

兼松倫也はすぐに千雪の鼻声に気付いた。

「風邪か?」

「違うよ。」

千雪は鼻をすすり、コートをきゅっと掻き寄せる。


「早く寝ろよ。女が夜更かしすると老けるのが早い。俺、そんなババアはごめんだぞ。」

この男は、いちいち嫌味を言わないと気が済まないのか……

元々落ち込んでいた千雪の声にも、自然とトゲが混じる。

「自分だって寝てないじゃない。男だって夜更かしすれば……」

咄嗟に朝比奈ひかりから聞いた下品な冗談を思い出し、慌てて口をつぐむ。


「何が?」

兼松倫也の声が、意地悪く追及する。

顔が熱くなり、千雪は無理やり話題を変えた。「……太るし、ハゲるわよ!」


電話の向こうで低い笑い声が響き、続いて兼松倫也が気だるげに囁く。

「心配するな、千雪。お前を……毎晩幸せにしてやるよ。」

わざと強調された言葉に、千雪は一気に顔が赤くなる。

電話の向こうで、彼がどんな顔で言っているか想像できてしまう。


まったく、ろくなこと言わないんだから!

「もう寝る!おやすみ!」

彼女は慌てて通話を切った。


するとすぐに兼松倫也からLINEが届く。

【明日のお昼、俺のところに来い。株式の書類も持ってこい】

仕事の話になると、千雪もきちんと【わかった】と返事した。


またすぐに通知が鳴る。

【次は「おやすみ、旦那様」って言えよ】


千雪はスマホを握り締めて歯ぎしりし、大きくため息をつきながら熱いお湯を汲んで給湯室を出た。

きっと温かいお湯のせいも、兼松倫也とのやりとりで少し気が晴れたせいもあるのだろう。

冷たいベッドに戻って、布団の濡れていない部分に体を丸めると、すぐに眠りに落ちた。


……


一方その頃――


広いデスクの前で、兼松倫也はスマホを置き、こり固まった首筋を軽くほぐした。

電話の向こうで顔を赤らめているであろう千雪の姿を思い浮かべ、口元にごくわずかな笑みを浮かべる。


「兼松さん、こちらが天城グループの最新財務報告書と主要株主リストです。」

高橋脩がオフィスに入り、資料をデスクに置いた。


兼松倫也は素早く資料に目を通し、桜庭家の資産査定のページで手を止めた。

「桜庭家の屋敷、競売の日程は決まったか?」


桜庭家の父が逮捕され、全ての資産が凍結された。

この屋敷も法的手続きを経て競売にかけられ、借金の返済に充てられる運命だ。


高橋は手元の書類をめくりながら答える。

「裁判所の判決で、今日銀行が正式に家屋を引き取りました。競売までにはあと一ヶ月ほどかかる見込みです。」


「今日か……」

兼松倫也は眉をひそめ、大きく立ち上がり、椅子にかけてあったグレーのカシミヤコートを手に取った。

「資料はまとめてメールしておいてくれ。」


そう言い残して、オフィスを後にした。


――約三十分後。


紺碧のブガッティ・ヴェイロンが都心を抜け、桜庭家の屋敷前に静かに停まる。

車の窓を下ろすと、目の前の重厚な門には鮮やかな裁判所の封印が貼られていた。


彼は煙草に火をつけ、暗い夜の中、二階の窓をじっと見つめる。

もう明かりの灯ることはないその窓を、淡い青煙が彼の横顔を包みこむように漂っていた。


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