補欠?
日下璃子は怒りで胸が張り裂けそうだった。とても納得できるはずがない。
「でも……」
「もういい!」副校長は有無を言わせぬ口調で手を振った。「今回の公演は学校の名誉に関わることだ。皆、余計なことは許さん!従わないなら、それなりの覚悟をしておけ!」
日下璃子は奥歯を噛み締めながらも、結局は言い返すことができなかった。
教員や指導者たちが次々と部屋を出ていき、オーケストラの学生たちも楽器を片付け始めた。
日下璃子は不機嫌そうに、高価なブランドのバイオリンをケースにしまう。その様子を見ていた取り巻きの女子たちがすぐに寄ってきて、慰めるふりをしながら桜庭千雪への皮肉を口にした。
「誰かさんって本当に図々しいよね。他人のものを平気で奪うんだから!」
「そうそう!わざとこのタイミングで来たんでしょ?ほんと性格悪い!」
……
桜庭千雪の味方をする人間は一人もいなかった。
かつて彼女に媚びていた男子学生たちでさえも、今はもう見向きもしない。
家柄も良く、優しく美しい桜庭千雪は、東京芸術大学で誰もが認める“女神”だった。
だが今、桜庭家が十億円もの負債を抱え、彼女のそばに誰も近づこうとしない。夢のような恋愛のために、そんな重荷を背負える人はいないのだ。
卑怯?陰険?
そんな言葉を投げかけられても、桜庭千雪はもはや反論する気力もない。
「もともとこのポジションは私のものよ。」
彼女は静かな目で日下璃子を見つめた。「実力で取り返せるならやってみなさい。できないなら……黙ってて。」
日下璃子はバイオリンケースを提げ、わざと桜庭千雪の譜面台を強くぶつけて倒し、さらに落ちた楽譜を踏みつけた。
「見てなさいよ。いつまでいい気でいられるかしら!」
桜庭千雪は黙って楽譜を拾い上げ、丁寧に靴跡を払ってから譜面台に戻した。
今の彼女は、父と兄の唯一の支えだ。どんなことがあっても、倒れるわけにはいかない。
バイオリンを肩に構え、溢れる苦しみも悔しさも、全ては音色に込めて、無言のまま吐き出した。
夜、学食でささっと夕食を済ませると、桜庭千雪はまた空っぽの練習室に戻った。
今の自分には、音楽だけが唯一の拠り所であり、これから生きていくためのすべてだった。練習するしか、道はない。
何度も、何度も。同じフレーズを骨身に叩き込むまで弾き続け、ようやく疲れ切った体で寮に戻った。
ルームメイトはすでに寝ていた。千雪はそっと身支度を済ませ、自分のベッドに潜り込む。
だが布団をめくった瞬間、氷のような冷たさが体中を襲った!
思わず飛び起きる。
「どうしたの?」
「何かあった?」
目を覚ましたルームメイトの一人がスマホのライトで千雪のベッドを照らす。
その光の下、布団とシーツが大きく濡れているのがはっきりと見えた。
部屋には低い怒りと驚きの声が広がる。
「これ、絶対日下璃子の仕業だよ!帰るとき、あの子がこそこそ出ていくの見たもん!」
「最低すぎる!」
「これからは必ず鍵をかけて出よう!」
……
「千雪、よかったら今夜私のベッドで一緒に寝る?」
ショートヘアのルームメイトが優しく声をかけてくれた。
大学生活の間、千雪はほとんど実家暮らしで、寮の友達とも特別親しいわけではない。狭いベッドに無理に入るのも気が引けた。
「大丈夫、布団を裏返せば平気だから。ごめんね、みんな起こしちゃって。」
そう言って布団をひっくり返し、もう一度横になった。
ルームメイトたちはすぐにまた寝息を立て始めた。
千雪は冷たい布団の中で体を小さく縮め、寒さにじっと耐えていた。
秋も深まり、夜は身を切るような冷たさ。濡れた布団はどう裏返しても温まらない。
眠れずに、ついに起き上がり服を着て、水筒を手に給湯室へと向かった。
スマホで足元を照らすと、ふと未読のLINE友達申請が目に入る。
「兼松倫也があなたを友達に追加しようとしています」
申請は数時間前、練習に没頭していて気づかなかった。
彼の申請は断れない。
千雪はすぐに承認した。
ほぼ同時に、兼松倫也から電話がかかってきた。
ルームメイトを起こさないよう、すぐに通話ボタンを押し、給湯室まで足早に移動する。
「どうした?」
男の落ち着いたハスキーな声が、深夜の静けさの中で妙に心に響く。
「……俺の腕の中じゃないと、眠れないのか?」
なんて自信家なの……!
「昨日は、ちょっと飲みすぎただけよ。」
千雪は強がって返す。
すると、隙間風が窓から吹き込み、思わず大きなくしゃみが出た。
兼松倫也はすぐに千雪の鼻声に気付いた。
「風邪か?」
「違うよ。」
千雪は鼻をすすり、コートをきゅっと掻き寄せる。
「早く寝ろよ。女が夜更かしすると老けるのが早い。俺、そんなババアはごめんだぞ。」
この男は、いちいち嫌味を言わないと気が済まないのか……
元々落ち込んでいた千雪の声にも、自然とトゲが混じる。
「自分だって寝てないじゃない。男だって夜更かしすれば……」
咄嗟に朝比奈ひかりから聞いた下品な冗談を思い出し、慌てて口をつぐむ。
「何が?」
兼松倫也の声が、意地悪く追及する。
顔が熱くなり、千雪は無理やり話題を変えた。「……太るし、ハゲるわよ!」
電話の向こうで低い笑い声が響き、続いて兼松倫也が気だるげに囁く。
「心配するな、千雪。お前を……毎晩幸せにしてやるよ。」
わざと強調された言葉に、千雪は一気に顔が赤くなる。
電話の向こうで、彼がどんな顔で言っているか想像できてしまう。
まったく、ろくなこと言わないんだから!
「もう寝る!おやすみ!」
彼女は慌てて通話を切った。
するとすぐに兼松倫也からLINEが届く。
【明日のお昼、俺のところに来い。株式の書類も持ってこい】
仕事の話になると、千雪もきちんと【わかった】と返事した。
またすぐに通知が鳴る。
【次は「おやすみ、旦那様」って言えよ】
千雪はスマホを握り締めて歯ぎしりし、大きくため息をつきながら熱いお湯を汲んで給湯室を出た。
きっと温かいお湯のせいも、兼松倫也とのやりとりで少し気が晴れたせいもあるのだろう。
冷たいベッドに戻って、布団の濡れていない部分に体を丸めると、すぐに眠りに落ちた。
……
一方その頃――
広いデスクの前で、兼松倫也はスマホを置き、こり固まった首筋を軽くほぐした。
電話の向こうで顔を赤らめているであろう千雪の姿を思い浮かべ、口元にごくわずかな笑みを浮かべる。
「兼松さん、こちらが天城グループの最新財務報告書と主要株主リストです。」
高橋脩がオフィスに入り、資料をデスクに置いた。
兼松倫也は素早く資料に目を通し、桜庭家の資産査定のページで手を止めた。
「桜庭家の屋敷、競売の日程は決まったか?」
桜庭家の父が逮捕され、全ての資産が凍結された。
この屋敷も法的手続きを経て競売にかけられ、借金の返済に充てられる運命だ。
高橋は手元の書類をめくりながら答える。
「裁判所の判決で、今日銀行が正式に家屋を引き取りました。競売までにはあと一ヶ月ほどかかる見込みです。」
「今日か……」
兼松倫也は眉をひそめ、大きく立ち上がり、椅子にかけてあったグレーのカシミヤコートを手に取った。
「資料はまとめてメールしておいてくれ。」
そう言い残して、オフィスを後にした。
――約三十分後。
紺碧のブガッティ・ヴェイロンが都心を抜け、桜庭家の屋敷前に静かに停まる。
車の窓を下ろすと、目の前の重厚な門には鮮やかな裁判所の封印が貼られていた。
彼は煙草に火をつけ、暗い夜の中、二階の窓をじっと見つめる。
もう明かりの灯ることはないその窓を、淡い青煙が彼の横顔を包みこむように漂っていた。