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第13話 どうやら、兼松はこのキスに満足しているらしい


翌日——。


午前中にオーケストラのリハーサルを終えた千雪は、兼松倫也から教えられた住所を頼りに、地下鉄でそびえ立つグローバルタワーへ向かった。


1階のロビー前では、兼松の秘書である高橋がすでに待っていた。


彼はにこやかに歩み寄り、丁寧に声をかける。「兼松はまだ会議中ですので、私がご案内します。」


千雪は礼を言い、彼とともにエレベーターへ乗り込む。


二人はそのまま最上階へ。高橋は会議がまだ続いていることを察し、千雪をオフィス内に案内しながら、簡単に社内の説明を始めた。


兼松は最上階のフロアを二層借りているらしい。国内事業が始まったばかりでスタッフもまだ揃っておらず、空いているオフィスも多く、社内は静まり返っていた。


「あちらが会議室です。もうすぐ終わるはずです。」と高橋が指し示す。


千雪はその方向に目をやると、ガラス張りの壁越しに、会議テーブルの主席に座る兼松の姿が見えた。


濃いグレーのスーツに身を包み、長い脚を組み、指先で資料を持ちながら部下の報告にじっと耳を傾けている。時おり短く鋭い質問を投げかけたり、軽くうなずいたり。美しい横顔には冷静な知性が滲み、まさに金融業界のエリートとしてのオーラが漂っていた。


普段彼女をからかう“あの人”とはまるで別人のような、落ち着きと鋭さがあった。


ふと、兼松もガラス越しに千雪の姿に気づき、手元の資料を置いた。


「では、計画通りに進めてくれ。会議はここまで。黒田、少し残って。」


エリートたちは素早く席を立ち、パソコンを抱えてそれぞれのオフィスへと散っていく。会議室に残ったのは、兼松と金縁メガネをかけた穏やかな雰囲気の弁護士だけだった。


高橋がドアを開けると、兼松はすでに立ち上がり、自然な動作で千雪の腰に腕を回し、自分の隣へと導いた。


「こちらが僕の妻、千雪。こちらは黒田悠斗弁護士、うちの法務担当だ。」


「兼松さん、はじめまして。」と黒田が丁寧に挨拶する。


千雪も平静を装い、黒田と握手を交わしてから、兼松に引かれるまま椅子に座った。


黒田は株式譲渡契約書を差し出す。千雪はそれを一つ一つ丁寧に確認し、内容が合っていることを確かめてから、書類の末尾に署名した。


その後、リュックからファイルを取り出し、兼松に手渡す。


兼松は中身を確認しながら、一瞬だけ眉をひそめる。


その様子に気づき、千雪も身を乗り出して覗き込むと、心臓が跳ね上がった。なんと、間違えてヴァイオリンの委託販売契約書を渡してしまっていたのだ。


昨夜、寮で水をかけられたため、大事な書類が濡れるのを恐れてすべて持ち歩いていた。ファイルが似ていたせいで、うっかり間違えてしまったのだ。


「すみません、間違えました。」千雪は慌てて契約書を引き取り、正しいファイルを取り出して渡した。


兼松はそれを受け取り、黒田に手渡す。黒田はさっと中身を確認し、「書類は問題ありません」とうなずく。


「では、あとは君に任せる。」兼松の指示に、黒田は二人に軽く会釈して部屋を出ていった。


その間も、兼松は千雪が委託契約書を慎重にリュックへしまう様子をじっと見ていた。


千雪は立ち上がり、「もう用がなければ、学校に戻ります」と言いかける。


しかし兼松はさっとリュックを手に取り、「オフィスまで来て」とだけ言う。


訳が分からないまま、千雪はついていくしかなかった。


広々としたオフィスは、シンプルながらも随所に高級感が漂っている。東京で一、二を争う高さのこのタワーからは、都心の景色が一望できる。


全面ガラス張りの窓際に立つ兼松は、まるで太陽を背にした彫像のように堂々としていた。


「こっちへ。」と彼が声をかける。


千雪はその隣に立つ。


温かい大きな手がそっと腰を引き寄せ、兼松は彼女を窓際まで促した。


「見えるか?」


千雪は外のビル群を見つめながら、「何が?」と戸惑う。


兼松は左手で彼女の側のガラスに手をつき、顎を肩に軽く乗せる。その右手で千雪の頬をそっと向けさせた。


その先に見えたのは、二つ先のブロックに立つ、独特なデザインのビルだった。兄の大和が設計し、かつて桜庭家が所有していた天城グループの本社ビルだ。


兼松の右手がゆっくりと千雪の腰を抱きしめる。


「俺たちの計画がうまくいったら、必ず日下をあの場所から追い出してやる。」


千雪は胸が熱くなり、思わず彼を見上げる。


「ありがとう。」


兼松は軽く彼女を引き寄せ、顔を近づけてくる。


呼吸が触れ合うほどの距離、でもまだ触れていない。


目と目が合い、息遣いが重なる。


千雪の心臓は激しく波打ち、緊張で全身が強張る。


「目を閉じて。」低く甘い声が耳元に届く。


千雪は思わず、そっと目を閉じた。


ひんやりとした唇が、優しく重なる。


視界を奪われ、感覚が研ぎ澄まされる。千雪はまるで一本の張りつめた弦のように、全身が固まっていた。


けれど、車の中での強引なキスとは違い、今回は驚くほど優しい。唇を重ねるだけの、柔らかなキスだった。


緊張していた心が、ゆっくりとほぐれていく。


これまで日下と付き合っていた頃、千雪は親密なスキンシップを本能的に避けていた。嫌だったわけではない。ただ、若い頃の嫌な思い出が、どうしても距離を作ってしまっていた。


でも今、初めて知った。キスがこんなにも心を揺さぶるものだなんて——そして、それが決して嫌なものではないことも。


やがて兼松がそっと離れると、千雪の手は無意識に彼の肩に添えられていた。


彼はまだ腰に手を回したまま、千雪の頬と濡れた唇を見下ろして微笑む。


「どうやら千雪は……このキスに満足してくれたみたいだな。」


千雪は顔が一気に熱くなり、慌てて手を離して距離を取ろうとする。


だが兼松は彼女を放さず、逆にそっと首筋に顔をうずめた。その声は珍しく、どこか疲れたような優しさを含んでいた。


「少し、こうしていさせて。」


あの強い彼にも、こんな風に疲れる時があるのだろうか。


千雪は少しだけ戸惑い、けれど最後にはそっと腕を回して彼を抱きしめ返した。


彼の胸は広くて温かく、不思議と心が安らぐ。


このところ、千雪はずっと緊張の糸が切れそうなほど張りつめていた。本当は、少しだけでもよりかかれる場所が欲しかったのかもしれない。


二人はしばらく、ただ静かに抱き合っていた。


窓から差し込む陽射しが二人を包み、まるで本物の恋人同士のように見えた。


やがて、ドアをノックする音が響く。


高橋が上品なランチボックスを運び、窓際の丸テーブルにセッティングする。料理も食器も二人分ずつ用意されていた。


今朝は起きるのが遅く、朝ご飯を食べていなかった。おいしそうな香りに、お腹が「ぐう」と鳴ってしまう。


兼松がくすりと笑った。


「千雪は、俺を食べるだけでお腹いっぱいになると思ったんだけどな。」


口喧嘩ではかなわない。千雪は無視してテーブルに座り、素直にご飯を食べ始めた。投資銀行の大物にご飯代を気にする必要なんてない。


兼松はあまり食べず、ずっと千雪のほうを見ている。その目はまるで獲物を見定める獣のように、興味深そうだった。


じっと見つめられ、千雪は落ち着かずに睨み返す。「食べないの?そんなに見ないでよ。」


「見てるだけでお腹いっぱいだから。」


さっきまでの冷徹な金融マンが、またいつもの軽口を叩く“あの人”に戻っていた。


千雪は急いでご飯を平らげ、箸を置いて立ち上がる。


「もう用がなければ、学校に戻っていい?」


兼松も立ち上がり、デスクの引き出しから分厚い封筒を取り出して差し出す。


千雪は不思議そうに封筒を受け取り、中身を見た瞬間、息を呑んでその場に固まった。


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