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第14話 僕は妻と別居するつもりはない


封筒の中には、オートロックカードが一枚、静かに横たわっていた。漆黒のカードには、金色でマンションのロゴと部屋番号がはっきりと刻まれている——

スカイレジデンス、A棟3901。

スカイレジデンス?

東京都内でもトップクラスの高級マンションで、土地の値段も非常に高い。

これは、まさか部屋をプレゼントするつもりなのか?

桜庭千雪は、すぐに封筒を返そうとした。

「必要ありません、住む場所はありますから」

契約結婚の条件は守るつもりだ。

でも、彼の飼い鳥になる気はない。こんな高価な贈り物は受け取れない。

「今夜から引っ越して。」兼松倫也の声は低いが、有無を言わせぬ強さがあった。「僕は妻と別居する習慣はない。」

桜庭千雪は驚いて、「一緒に住むってことですか?」

兼松は肩をすくめ、当然だろうという顔をした。

「奥さんとしての義務を果たすつもりはないの?」と兼松は続ける。

千雪は喉が詰まって、言葉に詰まる。

契約書にはっきり書かれている以上、断る理由はない。

「玄関の暗証番号は0912だ。」兼松はデスクに寄りかかりながら、ウインクをひとつ。「今夜、待ってるよ、兼松さん。」

グローバルタワーを出て、再び地下鉄で大学に戻る途中も、千雪はオートロックカードを強く握りしめていた。

どうやら……

今夜は避けられそうにない。

まあ、いつかはこうなる運命だった。

兼松倫也のような人が、簡単に自分を手放すはずがない。

0912?

どこかで聞いたような気がする暗証番号だ。

千雪は少し考えたが、思い出せなかった。

その時——

バッグの中の携帯が震え、電話を取る。

清音堂の店長からで、あのヴァイオリンの買い手が見つかったという連絡だった。

「一千万です!お客様はとても気に入ってくださって、一切値切らずに購入されました。いつでもお金を受け取りに来てください。」

これで、父の手術費用の目処が立った。

本来なら喜ぶべきことなのに、千雪の胸は苦しさでいっぱいだった。

十年弾き続けてきたヴァイオリンが、もう自分の元を離れてしまうのだ。

売ってしまうなんて!

彼女はオートロックカードを握りしめた。

「すぐに伺います。」

一刻も早く父の手術の準備を進めるため、千雪は珍しくタクシーを使い、清音堂へ向かった。

手数料を引かれても、無事に一千万の現金小切手を受け取ることができた。

「その……」小切手を手に、彼女はためらいながら尋ねた。「買ってくださった方がどんな方なのか、わかりますか?」

店長は首を振った。「お客様は特に何もおっしゃいませんでしたし、こちらも詳しくは伺っておりません。」

千雪はそれ以上は聞かなかった。

売ってしまったヴァイオリンは、たとえ将来お金ができても、買い戻せるとは限らない。持ち主が誰かわかったところで、意味はない。

礼を言って、千雪は小切手を持って東京セントラル病院へと向かい、父の担当医である白井慕岐を探した。

「よかった!」白井先生は、彼女が資金を用意できたと知り、笑顔を見せた。「ちょうどハンス・フォン・ベルク教授が近く医学会議で来日されますので、海外に行く手間が省けます。すぐに教授に連絡して、桜庭さんの診察の予約を取りますね。お金はそのまま入院窓口にお渡しください。費用は預かり金から自動で引かれます。」

この一ヶ月で、初めての朗報だった。

千雪は感謝しながら小切手を持って入院窓口で支払いを済ませた。

支払い後、集中治療室の病室まで戻って、面会できないか確認しようとした。

エレベーターを降りたところで、集中治療室の前に見覚えのある人影が目に入った。

銀色のトレンチコート、倫也とした立ち姿。

日下研一が廊下に立っており、その柔らかな雰囲気に看護師たちもちらちらと視線を送っている。

以前なら、千雪はこっそり携帯でその姿を撮っていたかもしれない。

今は、心の中に警戒心が湧き上がるばかりだった。

日下研一がここにいるのは、絶対に良いことではない。

彼女は足早に進み、集中治療室の前に立ちふさがった。

「何の用?」

「千雪、来てくれたんだね。」日下研一は穏やかに微笑んだ。「お父様の様子を見に来ただけだよ。」

千雪は拳を握りしめ、「父に何かしたら、絶対に許さないから。」

「ここでは話しにくいから、向こうで少し話そう。」

日下研一は廊下の端へ歩き出した。千雪は病室の扉を一度振り返った。父は静かにベッドに横たわっている。少し安心して、日下の後を追った。

廊下の角の人気のない場所で、日下研一は立ち止まった。

「この前のことは璃子が勝手にしたことで、僕が仕向けたわけじゃない。彼女の代わりに謝るよ。」

彼は右手に持った小切手を差し出した。

「これは二千万円。お父様の手術とその後の治療費に十分な額だ。」

千雪は小切手を受け取らず、鋭い目で日下を見つめた。

「どうして父が手術を受けることを知ってるの?」

この男は油断ならない。気を抜くわけにはいかない。

「そんなに警戒しなくてもいいよ。ただの善意さ。」日下研一は鍵の束を差し出し、優しい口調で続けた。「病院の向かいにあるハーモニーレジデンスに二部屋の部屋を用意した。引っ越せば、お父様の看病もしやすいでしょ。僕も時間がある時は一緒に過ごせるし。」

一緒に過ごす?

つまり、自分のそばに置いておきたいだけでは?

ようやく本音が見えた。

桜庭家をここまで追い詰めておきながら、今も千雪を手放す気はないのだ。

この男が自分に本気だったことなんて、一度でもあっただろうか?

「ご心配なく。もし誰かに面倒を見てもらうなら、もっとお金持ちで太っ腹な人を選ぶわ。」千雪は彼の手を払いのけ、踵を返した。

「千雪!」 

日下研一は彼女の腕をつかみ、隣の物置部屋に引き入れて、ドアを背中で塞いだ。

「前のことは本当に悪かった。ごめん。千雪、やり直そう。お願いだ。」

千雪の目は冷たかった。

「どいて。」

「千雪!」日下研一は肩に手を置き、「話を聞いてくれ……」

千雪は彼の手を振り払った。

「どかないなら、誰か呼ぶわよ!」

日下研一の表情が険しくなった。

「もう謝っただろ。これ以上どうしろって言うんだ?」

謝罪?

桜庭家をここまで追い詰めておいて、「ごめん」の一言で済むはずがない。

やり直すなんて、よくもそんなことが言えるものだ。

千雪は彼の端正だが偽りに満ちた顔をじっと見つめた。

「日下研一、あなた、本当に人間なの?」

「桜庭千雪、いい加減にしろ!」日下研一は眉をひそめた。「俺の我慢にも限度がある。」

彼女が公衆の面前で婚約を破棄して日下家の名誉を傷つけたことも、彼は大目に見てきた。それどころか、こうして歩み寄ってやっているのだ。千雪にとっては十分な誠意のはずだ。感謝しろとは言わないが、少なくとももう少し態度を改めるべきだと思っている。

「少しは人間らしく、私からも父からも離れて!」

千雪は彼を強く突き飛ばし、ドアを開けて走り出た。

日下研一は物置の外まで追いかけたが、慌てて走り去る千雪の背中を見つめるだけだった。

下ろした拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。

「桜庭千雪、これ以上は許さない。」

彼は携帯を取り出し、番号を押す。

「桜庭遠正の手術を担当するハンス教授について、できるだけ詳しく調べてくれ。」


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