病院を出ると、桜庭千雪は急いで学校のリハーサルに向かった。
日下璃子の姿はホールにはなく、千雪も特に気に留めなかった。
彼女には心配しなければならないことが山ほどあり、他人のことまで気を回す余裕はなかった。
慌ただしい一日が過ぎ、気づけばもう夕暮れ時だった。
「千雪。」同じオーケストラのショートカットの女子がチェロケースを背負って近づいてきた。昨夜、一緒のベッドで寝ようと声をかけてくれたルームメイトの田村夕だ。「学食、一緒にどう?」
千雪は申し訳なさそうに首を振った。「ごめん、今日は家に戻って泊まるから。また今度ね。」
兼松倫也から、今夜は引っ越してくるようにと、はっきり言われていたのだ。
どうせ避けられないなら、早く向き合った方がいい。
日下研一が父に何かしないか心配で、千雪はまず東京セントラル病院に立ち寄った。
ナースステーションで父・桜庭遠正の容体が安定していることを確認できて、やっとひと息つく。
スカイレジデンスは病院からほど遠くなく、東京芸術大学の中間あたりに位置している。都心にあり、交通も便利だ。
千雪は病院から地下鉄に乗り、マンションの前のコンビニで食材を少し買い足した。
出前は高いし、今の自分には節約が第一だ。
兼松の部屋はマンションで一番の高層フロア、最上階のワンフロア貸し切り、エレベーターで直接玄関に上がれる。
兼松が教えてくれた暗証番号「0912」を入力し、スムーズに中へ。
オフィス同様、室内は黒・白・グレーを基調に、海の青と鮮やかなイエローがアクセントになっている。シンプルながらも上質な雰囲気が漂う。
シューズボックスを開けると、兼松の革靴の横に、タグ付きの新品のレディーススリッパが二足並んでいた。
千雪は特に驚かなかった。
兼松のような男の部屋に、女性がいないはずがない。
これまで何人の女性がここに泊まったのだろう――そんな考えがふとよぎる。
シューズボックスのスリッパには手を付けず、自分のキャリーから持参したスリッパに履き替えた。
スマホを取り出し、兼松にメッセージを送る。
【桜庭千雪:着きました。】
【兼松倫也:残業中。待たなくていい。】
千雪は、思わず安堵の息をついた。
今夜は、なんとかやり過ごせそうだ。
客間を一つ見つけて、キャリーケースを運び込む。――覚悟はしていたが、毎晩兼松と同じベッドで眠ることには、やはりどうしても抵抗がある。
買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、簡単に夕食を温めて済ませた。
まだ時間は早い。千雪は部屋を見回し、楽器の練習ができそうな場所を探す。
主寝室へ続く廊下を通りかかったとき、開け放たれたドアの向こうにグランドピアノらしきシルエットが見えた。急いで近づく。
やはり音楽室だった。
壁には防音パネルが貼られ、中央には立派なスタインウェイのグランドピアノ。上にはメトロノームと数冊の楽譜が置かれている。どうやらインテリアではなく、普段から弾かれているようだ。
兼松もピアノを弾くのだろうか。
少し意外だった。
けれど、裕福な家の子どもが幼い頃からピアノや絵画を習うのは、よくあることだ。
譜面台に楽譜を広げ、ドアをしっかり閉めて、集中して練習を始める。
来週には本番が迫っている。臨時でコンサートマスターを務める以上、舞台で恥をかかないためには、今はひたすら練習あるのみ。
音楽は、千雪にとって心の避難所だ。
一度没頭すれば、他の悩みなどすべて忘れられる。
一回。
二回。
三回。
……
気がつけば、夜はとっぷりと更けていた。
あくびをひとつして、凝り固まった腰を伸ばす。
時計を見て、楽譜と楽器を片付けて客間へ戻る。
ゆっくりとお風呂に浸かり、パジャマに着替え、冷蔵庫から牛乳を取り出して温める。
ちょうど温めた牛乳をカップに注いだところで、玄関のスマートロックが「ピン」と小さく鳴った。
兼松が帰ってきた?
千雪の心臓が跳ねる。
キッチンを片付ける暇もなく、カップを手に急いで客間へ。
カップを机に置いてスリッパを脱ぎ捨て、ベッドに飛び込むと、素早く電気を消し、布団をしっかりと頭までかぶった。
玄関。
兼松は車のキーをキー皿に無造作に放り込む。
ハンガーにかかるミルキーホワイトのコートを見て、ふと柔らかい表情を見せる。
自分のジャケットをその横に掛け、スリッパに履き替えてリビングに入る。
「千雪?」
返事はない。
キッチンの明かりに気づき、兼松はそちらへ向かう。
しかし、誰の姿もない。
カウンターには使ったばかりのミルクパンが残されている。
周囲を見回し、主寝室へ向かおうとしたとき、ふと半開きの客間のドアに気がつく。手を止め、静かにドアを押し開けた。
千雪は目を閉じ、布団の中でじっと身を縮めていた。息をひそめ、眠ったふりをしている。
廊下の灯りが差し込んで、部屋の一部を照らす。
兼松の視線は、ドアのそばやベッド脇に散らばったスリッパ、机の上にまだ湯気を立てるカップ、そして布団で顔を半分隠した千雪に注がれる。
彼は身をかがめて、脱ぎ捨てられたスリッパを揃えてベッド脇に戻す。
そして、千雪の顔を覆っていた布団をそっと引き下ろし、ぎゅっと閉じられたままの彼女の瞳を見つめた。
千雪はまつげを伏せて、微動だにしない。
だが、耳は敏感に彼の動きをとらえていた。
ベッドがわずかに沈む――彼が腰を下ろしたのだ。
温かい手が頬にかかる髪をそっと払う。
木のような落ち着いた香りがすぐそばに感じられ、彼のやわらかな息遣いが頬を撫でていく。
千雪は硬直したまま、じっと耐えている。
この日がいつか来ることは分かっていた。
けれど、心の準備はまだできていない。
ひんやりした彼の唇が、優しく千雪の唇に触れる。
千雪は唇をきつく閉ざし、布団の下で指をぎゅっと握りしめ、体を石のように固くしていた。
どうかこれで、彼が諦めてくれますように――
彼の唇は千雪の唇から離れ、やがて小さな耳たぶへ。
さらに、細い首筋をなぞるように下りていき、鎖骨をやさしく噛む。
大きな手も布団の中に入り込み、滑らかなパジャマ越しに千雪の敏感な腰をゆっくりと撫で回す。
羽根でくすぐられるような感覚が、全身を駆け抜ける。
くすぐったくて、どうしようもない。
一秒ごとに、焦がれるような苦しさが増していく。
千雪の心臓は激しく高鳴り、布団の中でつま先がきゅっと丸まり、両脚は無意識に閉じた。
彼女は布団の中で拳を握りしめ、必死に呼吸を整え、眠ったふりを崩さないようにする。
眠っている、私は眠っている――
これで、彼がこれ以上続けるはずがない、と信じて――