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第16話 抗えないセクシーさ


桜庭千雪は、危うく声を漏らしそうになり、喉が詰まりそうになった。

しかし、すべての元凶である兼松倫也は、ふいに手を止めて、彼女を離した。

千雪は内心でほっとため息をついた。


だが、その直後、彼の低くて少しかすれた、からかうような囁きが耳元で響いた。

「早く飲まないと、ミルクが冷めちゃうよ。」

千雪は布団をしっかり抱え、寝たふりを続ける。

――私は寝てる、何も聞こえない!


やがて、彼が立ち上がってドアの方へ向かった。

「千雪、寝てないのは分かってるよ。」

その声には、からかい混じりの笑みが滲んでいた。


カチャ――

ドアが静かに閉まる。


このヤロー、絶対わざとだ!


千雪は勢いよく起き上がり、手近にあった枕を掴む。

投げつけようとしたが、思い直して枕を何度も拳で叩きつけ、

そのまま布団を引き寄せて、熱くなった頬を隠した。



あんな気まずい夜を過ごした後で、千雪はとても兼松に顔を合わせたくなかった。

翌朝、まだ夜明け前なのに、そっと身支度を整え、必要なものだけ持って客間を抜け出した。

バイオリンケースを手に、こっそり音楽室へ向かおうとする。


だが、世の中そううまくはいかない。


自分が早起きしたつもりだったが、兼松の方がもっと早かった。

千雪が部屋を出たとき、彼はすでにキッチンのカウンター前で、小さな冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出していた。


黒のスポーツウェアに身を包み、長袖の上着は腕に引っかけ、上半身は半袖のTシャツだけ。

朝のやわらかな光に照らされて、額や首筋の汗がまだ乾ききっていない。

どうやらランニングを終えたばかりのようだ。


引き締まった体を際立たせるスポーツウェア。

広い肩、細い腰、真っ直ぐに伸びた長い脚――

普段のスーツ姿のウォール街エリートとは打って変わって、今の兼松はずっと若々しく、エネルギッシュに見える。


彼が喉を鳴らして水を飲み干すたび、喉仏がセクシーに動く。

全身から、抑えきれない色気が溢れ出していた。


千雪も、さすがに認めざるを得なかった。

今の兼松倫也は、抗えないほどセクシーだ、と。


そんな彼を見つめているうちに、無意識に学生時代を思い出していた。


当時の兼松は、まさにグラウンドのヒーローだった。

高校一年で転校してきて、たった二ヶ月でバスケ部のエースに抜擢。

試合では文句なしの得点王。

チームを市大会優勝に二度導き、全国大会にも進出した。


もし、日下研一との大喧嘩騒動がなければ、MVPも夢じゃなかったし、

バスケの特待生として一流大学に推薦されていたかもしれない。


彼がコートにいるだけで、高校から中学まで女子たちが群がっていた。

千雪も、音楽棟で練習の合間に、そっと彼の試合を見に行ったことがある。


あの頃の兼松は、若さに溢れ、自由奔放で、どこか危うい魅力があった。

問題児と呼ばれ、悪ガキ扱いされていても、女子たちの憧れの的だった。


半分飲みかけのドリンクを手に、兼松はカウンターに肘をついて、

千雪を斜めからじっと見つめた。


「そんなに見とれるほど、俺っていい男だった?」

このナルシストめ!


千雪はごまかすように小さく咳払いし、

「今日は楽団のリハがあるから、早めに学校行くね。じゃ、行ってきます。」

と、そそくさと逃げようとする。


だが、兼松は長い腕を伸ばして行く手をふさぐ。

「朝ごはんは誰かと食べないと落ち着かないんだ。一緒に食べてからにしよう。」

「そんな時間ないし、電車も混むし……」

「俺が送るよ。」


千雪は嘘が得意じゃない。別の言い訳も思いつかない。

「じゃ、私が朝ごはん作る!」


とっさに手を下げ、彼の腕の下をすり抜けてキッチンへ逃げ込んだ。


牛乳を温め、パンをトースターに入れ、

エプロンをつけて、手を洗う。

冷蔵庫から卵を出して、フライパンに油をひき、卵を割ろうとしたその時――


小さい頃から両親や兄の大和に、宝物のように大事にされて育った千雪は、

バイオリンを守るためにも、家事はほとんど経験がない。

せいぜいコーヒーを淹れるか、牛乳を温める程度。


不慣れな手つきで卵を割ろうとした拍子に、水滴が油に落ちてしまった。


ジュッ――

熱い油が一気に跳ねる!


慌てて鍋蓋をかぶせ、音が収まるまで待ってから恐る恐るフタを開けると、

卵白は真っ黒に焦げていた。


「なんでこんなに不器用なの……」

小さく舌打ちして、焦げた卵をゴミ箱に捨てる。

フライパンを洗い、油を準備し直す。


その時、背後に慌ただしい足音が。

兼松が後ろから手を伸ばし、油のボトルを持った千雪の手首をしっかりつかんだ。


「フライパンに水分が残ってると、危ないよ。」

彼は千雪を脇に避けさせ、自分の腰にエプロンを巻き直す。


油を引き、卵を割り入れ、手際よくフライパンをあおり、

卵をきれいにひっくり返す。


千雪は目を丸くした。

「えっ、料理できるの?」

「誰かさんと違ってね。」

兼松は自嘲気味に口元をゆがめた。

「中学の頃から、自分で作るしかなかったから。」


千雪は一瞬驚いた。

彼が東京の高校に転校して来たのは高一の時。

それまでは海外にいた、としか聞いたことがなかった。

中学生で自炊?彼みたいな人には、ちょっと想像がつかない。


絶妙な焼き加減の卵を皿に移し、兼松はケチャップでハート型を描く。

「千雪、食器まだ?」

彼女が引き出しからカトラリーを取り出すと、兼松はテーブルに朝食を並べた。


二人で向かい合い、千雪はナイフで卵を切る。

半熟の黄身――彼女の大好物だ。

一口食べて、思わず目を細めた。


「おいしい……」

こんなに口に合う朝ごはん、久しぶりだった。


兼松は小さく微笑んだ。

「俺と結婚して、得した?」

千雪は黙って卵を食べ続ける。

食事中は、余計なことを言わなくていい。


兼松は話を変えた。

「アメリカで大きな買収案件があって、しばらく出張する。一週間くらいで戻る。」

一週間!?


――ということは、一週間は顔を合わさなくて済む!?


やった!

できれば、毎日出張してくれてもいいのに。


「それは……道中お気をつけて。買収、うまくいきますように。」

千雪は上がりそうな口元を必死で隠した。


兼松は、抑えきれない彼女の浮かれぶりを一瞥する。

「一緒に来て。」


……げほっ!

千雪は牛乳を吹き出しそうになり、慌ててティッシュで口元を拭く。


「あ、あの、今回は本当に無理!父の方で専門医の診察があるし、楽団のリハも近いし、私コンサートマスターだから絶対に休めないの!次は……次は必ず一緒に行くから、約束する!」


兼松は眉を上げる。

「次?」

「そう、次は絶対!」


「……そうか」

彼は伏し目がちに、目の奥の笑みを隠す。


千雪はほっと胸を撫で下ろし、再び黙々と食べ始めた。


「携帯は24時間電源を入れておくこと。いつでも連絡が取れるように。

毎晩、ちゃんと帰宅して、位置情報付きで写真を送ること。

もう怪しい連中と飲み歩いたりしないでくれ。

俺、また夜中に弁護士呼んで警察署に行くのはごめんだ。」


千雪はコクリコクリとうなずく。

「約束する!」


――添い寝さえしなくていいなら、どんな条件でも飲む!


兼松は彼女の顎についた牛乳を指でそっと拭い、自分の分の卵も彼女の皿にのせる。

「俺はダイエット中。これはちょっと油っぽいから。」


これ以上痩せてどうするつもり?

――自意識過剰!


千雪は心の中で毒づきながら、遠慮なく卵を口に運ぶ。

ちょうどお腹が空いていたところだ。


朝食を終え、二人で一緒に下へ降りると、高橋と運転手が待っていた。

兼松は千雪を学校の前まで送ってくれる。


車を降りようとした瞬間、彼に手首をつかまれる。

「千雪、何か忘れてない?」


顔を向けると、すぐに意味が分かった。

千雪は彼に身を寄せ、腕を首に回し、頬に素早くキスをした。

「いってらっしゃい。買収、うまくいきますように!」


兼松は笑いながら、楽譜の入ったバッグを差し出す。

「いや、バッグの方だよ。」


車外で高橋は顔を背け、肩を震わせている。どうやら笑いをこらえているようだ。


――最初からバッグだけ渡せばよかった!


千雪はバッグをひったくると、顔を真っ赤にして校門へ駆け込んだ。


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