桜庭千雪は、危うく声を漏らしそうになり、喉が詰まりそうになった。
しかし、すべての元凶である兼松倫也は、ふいに手を止めて、彼女を離した。
千雪は内心でほっとため息をついた。
だが、その直後、彼の低くて少しかすれた、からかうような囁きが耳元で響いた。
「早く飲まないと、ミルクが冷めちゃうよ。」
千雪は布団をしっかり抱え、寝たふりを続ける。
――私は寝てる、何も聞こえない!
やがて、彼が立ち上がってドアの方へ向かった。
「千雪、寝てないのは分かってるよ。」
その声には、からかい混じりの笑みが滲んでいた。
カチャ――
ドアが静かに閉まる。
このヤロー、絶対わざとだ!
千雪は勢いよく起き上がり、手近にあった枕を掴む。
投げつけようとしたが、思い直して枕を何度も拳で叩きつけ、
そのまま布団を引き寄せて、熱くなった頬を隠した。
*
あんな気まずい夜を過ごした後で、千雪はとても兼松に顔を合わせたくなかった。
翌朝、まだ夜明け前なのに、そっと身支度を整え、必要なものだけ持って客間を抜け出した。
バイオリンケースを手に、こっそり音楽室へ向かおうとする。
だが、世の中そううまくはいかない。
自分が早起きしたつもりだったが、兼松の方がもっと早かった。
千雪が部屋を出たとき、彼はすでにキッチンのカウンター前で、小さな冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出していた。
黒のスポーツウェアに身を包み、長袖の上着は腕に引っかけ、上半身は半袖のTシャツだけ。
朝のやわらかな光に照らされて、額や首筋の汗がまだ乾ききっていない。
どうやらランニングを終えたばかりのようだ。
引き締まった体を際立たせるスポーツウェア。
広い肩、細い腰、真っ直ぐに伸びた長い脚――
普段のスーツ姿のウォール街エリートとは打って変わって、今の兼松はずっと若々しく、エネルギッシュに見える。
彼が喉を鳴らして水を飲み干すたび、喉仏がセクシーに動く。
全身から、抑えきれない色気が溢れ出していた。
千雪も、さすがに認めざるを得なかった。
今の兼松倫也は、抗えないほどセクシーだ、と。
そんな彼を見つめているうちに、無意識に学生時代を思い出していた。
当時の兼松は、まさにグラウンドのヒーローだった。
高校一年で転校してきて、たった二ヶ月でバスケ部のエースに抜擢。
試合では文句なしの得点王。
チームを市大会優勝に二度導き、全国大会にも進出した。
もし、日下研一との大喧嘩騒動がなければ、MVPも夢じゃなかったし、
バスケの特待生として一流大学に推薦されていたかもしれない。
彼がコートにいるだけで、高校から中学まで女子たちが群がっていた。
千雪も、音楽棟で練習の合間に、そっと彼の試合を見に行ったことがある。
あの頃の兼松は、若さに溢れ、自由奔放で、どこか危うい魅力があった。
問題児と呼ばれ、悪ガキ扱いされていても、女子たちの憧れの的だった。
半分飲みかけのドリンクを手に、兼松はカウンターに肘をついて、
千雪を斜めからじっと見つめた。
「そんなに見とれるほど、俺っていい男だった?」
このナルシストめ!
千雪はごまかすように小さく咳払いし、
「今日は楽団のリハがあるから、早めに学校行くね。じゃ、行ってきます。」
と、そそくさと逃げようとする。
だが、兼松は長い腕を伸ばして行く手をふさぐ。
「朝ごはんは誰かと食べないと落ち着かないんだ。一緒に食べてからにしよう。」
「そんな時間ないし、電車も混むし……」
「俺が送るよ。」
千雪は嘘が得意じゃない。別の言い訳も思いつかない。
「じゃ、私が朝ごはん作る!」
とっさに手を下げ、彼の腕の下をすり抜けてキッチンへ逃げ込んだ。
牛乳を温め、パンをトースターに入れ、
エプロンをつけて、手を洗う。
冷蔵庫から卵を出して、フライパンに油をひき、卵を割ろうとしたその時――
小さい頃から両親や兄の大和に、宝物のように大事にされて育った千雪は、
バイオリンを守るためにも、家事はほとんど経験がない。
せいぜいコーヒーを淹れるか、牛乳を温める程度。
不慣れな手つきで卵を割ろうとした拍子に、水滴が油に落ちてしまった。
ジュッ――
熱い油が一気に跳ねる!
慌てて鍋蓋をかぶせ、音が収まるまで待ってから恐る恐るフタを開けると、
卵白は真っ黒に焦げていた。
「なんでこんなに不器用なの……」
小さく舌打ちして、焦げた卵をゴミ箱に捨てる。
フライパンを洗い、油を準備し直す。
その時、背後に慌ただしい足音が。
兼松が後ろから手を伸ばし、油のボトルを持った千雪の手首をしっかりつかんだ。
「フライパンに水分が残ってると、危ないよ。」
彼は千雪を脇に避けさせ、自分の腰にエプロンを巻き直す。
油を引き、卵を割り入れ、手際よくフライパンをあおり、
卵をきれいにひっくり返す。
千雪は目を丸くした。
「えっ、料理できるの?」
「誰かさんと違ってね。」
兼松は自嘲気味に口元をゆがめた。
「中学の頃から、自分で作るしかなかったから。」
千雪は一瞬驚いた。
彼が東京の高校に転校して来たのは高一の時。
それまでは海外にいた、としか聞いたことがなかった。
中学生で自炊?彼みたいな人には、ちょっと想像がつかない。
絶妙な焼き加減の卵を皿に移し、兼松はケチャップでハート型を描く。
「千雪、食器まだ?」
彼女が引き出しからカトラリーを取り出すと、兼松はテーブルに朝食を並べた。
二人で向かい合い、千雪はナイフで卵を切る。
半熟の黄身――彼女の大好物だ。
一口食べて、思わず目を細めた。
「おいしい……」
こんなに口に合う朝ごはん、久しぶりだった。
兼松は小さく微笑んだ。
「俺と結婚して、得した?」
千雪は黙って卵を食べ続ける。
食事中は、余計なことを言わなくていい。
兼松は話を変えた。
「アメリカで大きな買収案件があって、しばらく出張する。一週間くらいで戻る。」
一週間!?
――ということは、一週間は顔を合わさなくて済む!?
やった!
できれば、毎日出張してくれてもいいのに。
「それは……道中お気をつけて。買収、うまくいきますように。」
千雪は上がりそうな口元を必死で隠した。
兼松は、抑えきれない彼女の浮かれぶりを一瞥する。
「一緒に来て。」
……げほっ!
千雪は牛乳を吹き出しそうになり、慌ててティッシュで口元を拭く。
「あ、あの、今回は本当に無理!父の方で専門医の診察があるし、楽団のリハも近いし、私コンサートマスターだから絶対に休めないの!次は……次は必ず一緒に行くから、約束する!」
兼松は眉を上げる。
「次?」
「そう、次は絶対!」
「……そうか」
彼は伏し目がちに、目の奥の笑みを隠す。
千雪はほっと胸を撫で下ろし、再び黙々と食べ始めた。
「携帯は24時間電源を入れておくこと。いつでも連絡が取れるように。
毎晩、ちゃんと帰宅して、位置情報付きで写真を送ること。
もう怪しい連中と飲み歩いたりしないでくれ。
俺、また夜中に弁護士呼んで警察署に行くのはごめんだ。」
千雪はコクリコクリとうなずく。
「約束する!」
――添い寝さえしなくていいなら、どんな条件でも飲む!
兼松は彼女の顎についた牛乳を指でそっと拭い、自分の分の卵も彼女の皿にのせる。
「俺はダイエット中。これはちょっと油っぽいから。」
これ以上痩せてどうするつもり?
――自意識過剰!
千雪は心の中で毒づきながら、遠慮なく卵を口に運ぶ。
ちょうどお腹が空いていたところだ。
朝食を終え、二人で一緒に下へ降りると、高橋と運転手が待っていた。
兼松は千雪を学校の前まで送ってくれる。
車を降りようとした瞬間、彼に手首をつかまれる。
「千雪、何か忘れてない?」
顔を向けると、すぐに意味が分かった。
千雪は彼に身を寄せ、腕を首に回し、頬に素早くキスをした。
「いってらっしゃい。買収、うまくいきますように!」
兼松は笑いながら、楽譜の入ったバッグを差し出す。
「いや、バッグの方だよ。」
車外で高橋は顔を背け、肩を震わせている。どうやら笑いをこらえているようだ。
――最初からバッグだけ渡せばよかった!
千雪はバッグをひったくると、顔を真っ赤にして校門へ駆け込んだ。