その後の二日間、桜庭千雪の日々は穏やかで規則正しく過ぎていった。
父・桜庭遠正の見舞いに病院へ立ち寄る以外は、学校とスカイレジデンスの自宅を往復する毎日だった。
食事も学食で済ませており、安上がりで時間の節約にもなっている。
清音堂のマネージャーは約束通り、すぐに一対一の家庭教師の仕事を二件紹介してくれた。
東京芸術大学の学生という肩書きと、全国レベルの受賞歴もあって、どちらの家庭も千雪を高く評価し、無事に両方の仕事を引き受けることができた。
収入は決して多くはないが、質素な生活を送るには十分で、少なくとも生活費に悩むことはなくなった。
千雪の毎日は、少しずつ元のリズムを取り戻しつつあった。
金曜の夜、家庭教師の仕事を終えた千雪は、スカイレジデンスの兼松倫也のマンションへと帰宅した。
いつものように、兼松倫也の指示どおり、自分の行動を報告する。
【千雪:ただいま旦那様、無事に帰宅しました。写真.jpg】
添付したのはリビングで撮った自撮り写真。ちゃんと帰宅した証拠だ。
毎日こうして兼松に「報告」することも、千雪にはすっかり習慣になっていた。
最初は照れくさかった「旦那様」という呼び方も、今は自然に口をついて出る。
事情を知らない人が見れば、本当に仲睦まじい夫婦に見えるかもしれない。
兼松は地球の裏側にいる。二人の間には、海も山も時差も隔たっている。
彼のいる場所はまだ昼間、千雪の時間はもう深夜だ。
仕事の都合で、彼からの返信は早い時もあれば、何時間も音沙汰がないこともある。
千雪は特に期待もせず、気にしていなかった。
メッセージを送った後、スマホを机に置き、入浴の準備を始める。
ブーン——
スマホが振動した。
今回は驚くほど早く兼松から返信が届いた。
【兼松:俺のこと、恋しくなった?】
千雪はとっさにスマホを手に取り、何も考えず「うん」と返してしまった。
無意識のうちに、適当に返事をしてしまっただけだ。
昼間は練習、夜は家庭教師。小さな子どもにバイオリンを教えるのは、想像以上に根気がいる。
今はとにかく会話を早く終わらせて、シャワーを浴びて眠りたかった。
すぐに兼松から新たなメッセージが届いた。今度は写真だ。
淡いグレーのスーツ姿で、右手にシャンパングラスを持ち、買収相手と乾杯している場面。
西洋人のエリートたちに囲まれて、黒髪黒服の兼松は圧倒的な存在感を放っていた。
群を抜く端正な顔立ちと自信に満ちた表情。
今回彼が成功させたのは、名の知れたエネルギー会社の買収だった。
きっとこの写真は、ウォールストリートジャーナルの一面を飾ることになるだろう。
これだけの若さで、これだけの実績を残す兼松の手腕には、千雪も純粋に感心せざるを得なかった。
【千雪:おめでとう。ますますご活躍ですね。】
この一言だけは、心からの本音だった。兼松の実力は、彼女も認めている。
ブーン——
再びスマホが震え、今度はビデオ通話のリクエストが届いた。
千雪が通話ボタンを押すと、画面いっぱいに兼松の端正な顔が映し出される。
スマホのカメラ越しでも、その魅力は隠しきれない。
兼松はどうやらホテルのバルコニーから話しているようで、背景には異国の朝日が輝いていた。
買収を成功させたばかりで、声にも笑みがにじんでいる。
「明日帰国するけど、千雪は何か欲しいものある?」
「気を遣わなくていいです。お仕事に集中してください。」
千雪は、兼松との関係がどれほど曖昧なものか、よく分かっている。
彼からの贈り物など、受け取るわけにはいかない。
兼松は千雪の疲れた様子に気づき、少し眉をひそめた。
「体調悪い?」
「少し疲れてるだけです。」
「じゃあ早く休みなさい。もう飛行機のチケットも取ったし、明日には会えるよ。」
「はい、旦那様。おやすみなさい。」
彼もそれ以上は何も言わず、千雪も素直に別れの挨拶をして通話を切った。
彼女はそのままバスルームへ向かう。
表面上は、まるで本物の夫婦のような親密さを装っている。
だが千雪は、すべてが作られた幻想に過ぎないことを痛いほど自覚している。
兼松が自分と結婚したのは、ビジネス上の打算と、日下研一への報復が目的だ。
今の優しさも、所詮は新鮮さと征服欲による一時的なもの。
彼がこの“遊び”に飽きれば、平然と捨てられるだけ――
下駄箱に並ぶ女性用スリッパの持ち主たちが、かつてそうだったように。
千雪は、ただその“役”を演じているだけだ。
「ただより高いものはない」
これが、彼に助けてもらう代償であり、利息なのだ。
かつて信じて疑わなかった愛情は、今となっては――
「一文の値打ちもない戯言」だった。
スマホをテーブルに置き、バスルームに入り服を脱いでシャワーを浴び始める。
ブーン——
突然、洗面台の上のスマホが激しく震えた。
慌ててバスタオルを巻いて駆け寄ると、画面には「東京セントラル病院」からの着信が表示されている。
心臓がぎゅっと締め付けられる。
「はい、桜庭千雪です!」
「桜庭さん、お父様が先ほど脳ヘルニアを発症されて、現在緊急処置中です。すぐにご来院ください!」
指が震え、スマホを落としそうになる。
「わかりました……すぐに行きます!」
浴室から飛び出し、慌てて服を着て、濡れた髪もそのままにマンションを飛び出した。
必死の思いで病院に駆けつけ、集中治療室の前に着いたときには、コートの背中が濡れた髪でぐっしょりと湿っていた。
「看護師さん!」
集中治療室から出てきたばかりの看護師をつかまえ、声を震わせて叫ぶ。
「父は……桜庭遠正は、どうなりましたか?」
「まだ処置中です!こちらでお待ちください!」
看護師はそう言い残して、薬を取りに走り去る。
千雪はふらりと後ろへ下がり、力なく壁にもたれて、その場にしゃがみ込んだ。
「お父さん……お願い……どうか、持ちこたえて……」
医療スタッフが慌ただしく行き来し、集中治療室のドアは何度も開いたり閉まったりする。
ほんの三十分ほどだったはずなのに、千雪には永遠にも感じられた。
ピカピカの革靴がすぐ目の前で止まる。
千雪がおそるおそる顔を上げると、父の主治医である白井慕岐が立っていた。
その後ろには、何人もの医師たち。中には金髪碧眼の外国人医師の姿もある。
千雪の心臓は底に沈み、壁に手をついてようやく立ち上がる。
「私の父は……」