白井慕岐はマスクを外し、穏やかな口調で言った。
「お父さまは、ひとまず危険な状態を脱しましたよ。」
千雪の喉元に張りつめていた不安が、ようやくほどける。目に涙を浮かべながら、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、本当に……先生方、ありがとうございます!」
若い娘が家族の不幸に見舞われ、すべてを一人で背負っている――白井はそんな千雪を見て、思わず胸が痛んだ。
彼は千雪の肩にそっと手を置き、紹介する。
「こちらがハンス教授です。お父さまは幸運でした。ちょうど私たち科の主任たちが集まってカンファレンスを行っていたところで、教授が直接救命処置を施してくださったおかげで命を繋げることができました。」
「本当にありがとうございます!」千雪はハンス教授の手をしっかり握りしめ、懇願するように言った。「どうか、父を助けてください……もう誰も失いたくないんです……」
ハンス教授は優しく微笑んだ。「できる限り力を尽くします。」
「桜庭さん。」白井がそっとティッシュを差し出す。「詳しい話は、私のオフィスでお聞かせ願えますか?」
「はい、お願いします……」千雪は気持ちを落ち着かせながら、頭を下げた。「皆さま、どうぞ。」
一同はカンファレンスルームへ移動し、白井は要点を簡潔に伝える。
「お父さまの脳浮腫はかなり深刻です。さきほどの危機もご覧になったでしょう。これ以上遅れると、もし出血すれば命に関わります。カンファレンスの結果、できるだけ早く手術するのが最善という結論になりました。当然リスクはありますが、ハンス教授は世界でもトップレベルの専門家です。教授が執刀すれば、危険は最小限に抑えられるでしょう。」
白井は助手から受け取った白湯を千雪の手に渡す。
「最終的なご判断は、あなたにお任せします。」
千雪は紙コップを両手で包み込み、指先が小刻みに震えていた。
年配の医師が声をかける。「ご親族とご相談されますか?」
「……いえ。」千雪はまつげを伏せる。「家族は、もう私だけなんです。」
兄の大和は今も刑務所にいて、月一度しか面会できない。父の状態を知らせることさえできないのだ。
医師たちは言葉を失い、沈黙が広がる。若い娘がこれほどの重荷を一人で背負う現実は、誰の胸にも重くのしかかった。
千雪は深く息を吸い、涙をこらえて立ち上がる。コップをテーブルに置き、皆に向かって深く頭を下げた。
「手術をお願いします。どうか……できる限りのことをしてください。」
白井の言葉の意味は明白だった。今すぐ手術しなければ、父は助からない。もはや迷っている時間など残されていない。
医師たちは次々に席を立つ。白井は千雪を支え起こし、「ご安心ください、私たちの責任です。全力を尽くします」と力強く告げた。
彼はハンス教授に英語で話しかける。
「教授、手術の時間はお任せします。」
「大きな手術ですし、私も時差を調整して万全の状態で臨みたい。患者にも24時間の安定期が必要です。」ハンス教授は慎重に答える。「明後日の朝8時、開始しましょう。」
「わかりました。」白井は頷き、「皆さま、今日はお疲れ様でした」と医師たちに声をかけた。
医師たちは順に退出し、千雪も白井とハンス教授の後についてカンファレンスルームを出た。
「千雪!」
廊下の向こうから、日下研一が笑顔で近づいてきた。
千雪は警戒して顔を背けようとしたが、ハンス教授が先に口を開いた。
「研一、どうしてここに?」
「紹介が遅れました。」日下研一は千雪の肩を抱き寄せる。「こちらが、僕の……恋人です。」
千雪は彼の腕を振り払おうとしたが、二人の会話を聞き、体が一瞬で強張った。
日下研一とハンス教授は知り合いなのか?
「なるほど、それは偶然ですね。」ハンス教授は感心したように微笑んだ。「桜庭さんは、とても強い方ですね。」
「お二人は知り合いだったのですか?」白井は驚いた表情を見せる。
「ええ、僕が留学していた時の指導教官が、教授の親友なんです。今回も教授が来日されるので、同じ飛行機でご一緒でした。」
日下研一の説明を聞くうちに、千雪の手は震えが止まらなくなった。
「ところで、教授。千雪のお父さまの手術はいつになりましたか?」日下研一は心配そうに尋ねる。
「明後日の朝8時です。」ハンス教授は千雪に同情的な眼差しを向けた。「しっかり支えてあげてください。かなり動揺されていましたから。」
「わかりました。」日下研一は助手に合図を送り、「教授をホテルまでお送りします」と言った。
千雪は止めようとしたが、日下研一の手が肩に強く食い込む。まるで脅すように。
助手がハンス教授を伴って立ち去り、白井も忙しそうにその場を離れた。
周囲に誰もいないのを確認し、千雪は勢いよく研一の腕を振り払った。
「言ったでしょう。父に手を出さないで!」
「どうして僕が桜庭さんに危害を加えると思うんだ?」研一は薄く笑い、「ハンス教授の来日スケジュールも、宿泊先も、全部僕が手配したんだ。これが“助けている”ってことだよ?」
「ふざけないで!」千雪は思わず平手をあげた。
だが、研一はすばやく彼女の手首を掴み、自分の前に引き寄せる。
「僕の気分ひとつで、ハンス教授を手術から外すことだってできるんだよ?」右手で千雪の腰を抱き寄せ、顔を近づける。「そのときは、お父さまは手術台の上で死を待つしかない……!」
男の酒臭い息が顔にかかり、千雪は全身が震え、胃がひっくり返るような吐き気に襲われた。
「……何が望みなの?」
「何度も言っただろう、僕は本気で君とやり直したいんだ。君が僕の言うことを聞いてくれるなら、必ずお父さまを助けてあげる。」日下研一は千雪の顔を見つめ、貪るようにその香りを吸い込んだ。「千雪……君が欲しい。何年も、どれほど君を求めてきたか、わかるか?」
彼はキスをしようと顔を近づけてきた。
湿った手が肌に触れた瞬間、千雪の心に、あの忌まわしい少年時代の記憶が蘇る。彼女はもう耐えられず、研一を突き飛ばして壁際に駆け寄り、ごみ箱にしがみついて激しく嘔吐した。
研一が近づこうとしたとき、早川静江が素早く千雪を抱きとめた。
「大丈夫? お嬢さん、トイレまで一緒に行きましょう。」
早川さんに支えられ、千雪はふらつきながらトイレに向かった。胃の中が空になるまで吐き続け、やっとの思いで顔を上げて冷たい水で顔を洗う。早川さんから紙ナプキンを受け取り、口元を拭った。
「ありがとうございます、私は…… 少し休めば大丈夫です。」
「本当に救急に行かなくていいの?」
「大丈夫です、ただ少し車酔いしただけで……」千雪は適当にごまかした。
早川さんは千雪の様子を見て、納得したように掃除用具を持って出て行った。
冷たい水で口をすすぎ、顔を拭ってから、千雪は父を思い浮かべてトイレを飛び出し、集中治療室前へと急いだ。
当直の看護師が彼女を見つけて声をかける。
「ご安心ください。お父さまの容体は安定しています。いったんお休みになっても大丈夫ですよ。何かあればすぐご連絡します。」
「ありがとうございます。もう少しだけ、そばにいさせてください。」
千雪はお礼を言ってから、長椅子に腰を下ろした。
遠くに見える集中治療室の扉を見つめながら、顔を両手で覆う。
お父さま……
私はどうしたらいいの?
人生って、なんて苦しいんだろう。
どんなにバイオリンの弓で難しい十六分音符を正確に奏でられても、どれだけ抗い続けても、運命の残酷な悪戯からは逃れられないのかもしれない。
集中治療室の前を、医療スタッフが慌ただしく行き交う。
時は誰にも止められない。
灯りが落ち、朝日が昇る。
新しい一日が始まる。
喜びの声で一般病棟へ移る家族もいれば、静かに涙を流しながら去る者もいる。
モップが床を拭き、乾いた涙の跡を消していく。
ベンチに静かに座る千雪に、誰も気をとめることはなかった。
ここでは、生死以外のことなど、すべて些細な事なのだ。
千雪は立ち上がり、最後にもう一度、集中治療室の扉を見つめた。
「お父さま、絶対にあなたを死なせたりしない。」
そう心に誓い、彼女は出口へ向かって力強く歩き出した。