しばらくして、大輔は大きく伸びをして、腹をさすりながら席を立つ。
「ふぅ〜。食った〜。ごちそうさまでした」
ファナも手を合わせて微笑む。
「お腹いっぱいですね〜」
満足げな空気のまま、大輔はふらりと出口へ向かう。
「大輔、どこ行くんですか?」
椅子から立ち上がったファナが首をかしげてついてくる。
「ちょっと景色でも見に行こうかなって思って」
何気ない声に、ファナはぱっと笑顔になった。「⋯⋯私も一緒にいいですか?」
「うん、いいよ」
ふたりは並んで食堂を出る。
厚い石壁の間を歩くと、外の光が差し込み、ひんやりした石の冷気が肌を撫でる。
ちょうど扉を抜けようとしたとき、背後から低い声が響いた。
「お二方、どちらへ?」
振り返ると、使者たちが整然と並んで立っていた。
大輔は肩をすくめ、扉のほうを指さし、軽い調子で返す。
「そこで景色眺めるだけです」
使者は短く頷き、感情を見せない声音で言った。
「そうですか。もう少しで、本日宿泊していただく宿にご案内しますので、こちらからお声掛けします」
「分かりました」
大輔が答えると、使者たちは一礼し、影のように石壁の陰に溶け込んでいった。
ふたりは顔を見合わせ、小さく笑いながら扉を押し開けると、広大な景色が眼前に押し寄せた。
腰を下ろした大神殿の石段は、風がよく通る高台になっていた。
夕刻の光が街全体を琥珀色に染め、屋根瓦や石畳が柔らかく輝いている。
遠くに広がる海は、陽を受けて銀色にきらめき、穏やかな波が水平線まで続いていた。
「さっき大神殿に着いたときは見てなかったけど、ここからは海が⋯⋯ん?」
──だが、その水平線に、不自然な“黒”が走っている。
霞ではない。
雲でもない。
まるで墨を流し込んだような帯が、海と空の境を真一文字に塞いでいた。
「大輔?どうしました?」
ファナが心配そうに覗き込む。
「何か⋯⋯海の先、黒くない?」
「黒いですね⋯⋯ちょっと怖いかも⋯⋯」
ファナは腕を胸に抱き、わずかに身を竦める。大輔は顎に手を当て、じっと見据えた。
「⋯⋯あっ、もしかして⋯⋯この世界は平面で、あの先には行けないのか?」
風が頬を撫で、波音が届く。
しかし、その「黒い帯」だけは、静止画のように動かず、不気味な存在感を放ち続けていた。
(ここはゲームの世界なのか?でも、五感はしっかり働いてるし、今食った飯も美味かった。リアル⋯⋯だよな?)
大輔は額に手を翳し、目を細める。
けれど黒の境界は遠すぎて、その正体を掴める気配はなかった。
隣でファナが首をかしげる。
「大輔、世界は平らじゃないんですか?」
「ここはたぶん平面だけど⋯⋯俺の世界は丸いんだ」
「えっ?丸いんですか?丸の上に立ったら転がっちゃいますよ?」
「⋯⋯まぁ、説明すると長くなるから、また今度な」
大輔は苦笑しつつ答えたが、視線だけはなおも黒い帯を追っていた。
ファナはそんな彼の隣で、ただ無邪気に風を受け、髪を揺らしていた。
すると、背後の重厚な扉が軋む音を立て、大神殿から使者たちが姿を現した。
「それでは、参りましょう」
上りに比べ、下りは足取り軽く、あっという間に地上へ。
石段を降りきった大輔は、どうしても気になっていた疑問を口にした。
「あの水平線の上に見えた黒いのって何ですか?」
使者はわずかに首を傾げたが、すぐに淡々と答える。
「壁ですが⋯⋯それが何か?」
(やっぱり当たり前のものとして存在してるんだな⋯⋯これ以上詮索は止めとくか)
「いや、ちょっと気になっただけなので⋯⋯」
それ以上、誰も話題を広げることなく、一行は静かに宿へと向かった。
部屋の前に着くと、使者たちが一礼する。
「お二方はこちらのお部屋をお使いください。豊穣祭が始まる前にまたお迎えに上がります。それでは」
「あ、ちょっ⋯⋯」
大輔が声をかける前に、使者たちはもう背を向けていた。
「大輔!ベッドがとっても大きいです!」
我先にと部屋に入り、はしゃぐファナの声に、大輔は目をやる。
そこには確かに広々としたベッドがひとつ──。
(いやいや、でかいけどひとつしかないじゃん!!⋯⋯結局、何事も無く終わらないのか⋯⋯)
部屋に一歩足を踏み入れると、内装は簡素で落ち着いた雰囲気だった。
壁は白い漆喰で塗られ、装飾はほとんどなく、窓枠や床板の木目が静かに映える。
派手さは無いが、手入れの行き届いた家具と、薄く香る干し草の匂いが、どこか懐かしい安らぎを漂わせている。
そして、大きな窓を開け放つと──視界いっぱいに広がるのは、一面の田園風景。
風に揺れる黄金色の穂が、波のように起伏を描き、その先には緑濃い森が帯のように連なっていた。
(この景色はちょっと日本っぽいな⋯⋯何か浮き世離れし過ぎてホームシックになりそうだな⋯⋯)
すると、ファナが部屋の奥に何かを見つけ、それに向かって小走りしていった。
「大輔!外に大きなお風呂があります!」
大輔も慌ててついていき、窓辺から覗く。
石を組み合わせて造られた湯船が、田園を一望できる位置に据えられていた。
淡い蒸気がゆらゆらと立ち上り、夕暮れの光を受けて橙色に染まっている。
(えっ⋯⋯?“露天風呂付き客室”ってやつか?高級旅館かよ)
ファナは一瞬、湯船と大輔を交互に見て──ふいに視線を逸らし、顔を赤らめる。
「大輔、豊穣祭が終わったら⋯⋯い、一緒に入りますか?」
「それはダメだーーーー!!絶対ダメ!!」
大輔は即座に両腕で✕印を作り、そのままダイニングテーブルの椅子にドカッと腰を下ろした。
(ったく⋯⋯油断するとすぐ爆弾投げてくるんだから!)
(私、何言ってるんですか!)
ファナはパチパチと瞬きをして、ふぅ、と息を吐いてから、大輔の向かいの椅子に腰を下ろす。
テーブル越しに顔を覗き込み、首をかしげるようにして柔らかく問いかけた。
「大輔、疲れましたか?」
その声音は、さっきまでのおどけた調子とは違い、どこか優しい響きを帯びていた。
「まぁ、疲れたと言えば疲れたかな」
大輔はテーブルに片肘をつき、額を押さえる。
「異世界ってさ、俺の常識が通用しないっていうか、予想外なことが多すぎて、脳の処理能力が追いつかないんだよ」
「それに、たぶん南の国の代表にもなれそうにないし。このままどの国の代表にもなれなかったら、依頼失敗で、俺はずっとこの世界で生きていくことになるんだろうな」
大輔がぽつりと落とした言葉に、ファナはテーブルの上で両手を組み、静かに目を閉じた。
一拍置いてから、そのまっすぐな瞳を彼に向ける。
「⋯⋯大輔、諦めないでください。まだチャンスはあります。それに──」
彼女は胸に手を当て、はっきりと告げる。
「私はかなたさんに約束しました。ちゃんと、ふたりで大輔の世界に帰るって。だから、自分と、私を、信じてください」
大輔の脳裏に、あのときのかなたの泣き顔が浮かぶ。
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「ウチはもう家族がいなくなるのは嫌だよ?ひとりぼっちなんて絶対⋯⋯嫌だよ⋯⋯」
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「かなた⋯⋯」
大輔は顔を伏せ、両手を握り締めた。
次の瞬間──
「っしゃああああああああ!!」
雄叫びが部屋に轟き、石壁に反響する。
静まり返った空気の中で、ファナは目を丸くして肩をすくめた。
だが、顔を上げた大輔の瞳からは、迷いが跡形もなく消えていた。
その光を見て、ファナもまた安堵と嬉しさを込めてニコリと笑った。
「ごめん。不安なのはファナも一緒だよな。⋯⋯俺は、ファナを守る。そして、必ず依頼を達成して、ファナと俺の世界に帰る」
「大輔⋯⋯」
見つめ合い、ふたりの世界になった瞬間──
バンッ!
重い扉が勢いよく開け放たれた。
「勇者殿、フレイヤ様!どうされましたか!」
先程まで無感情だった使者が、血相を変えて飛び込んできた。
(またそのパターンか⋯⋯)
大輔は一瞬天井を仰いだが、すぐに言い訳する。
「あっ、その⋯⋯ゴキブリが⋯⋯」
「⋯⋯ゴキブリ、とは?」
「ゴキブリをご存知ではない⋯⋯そうですか⋯⋯すみません」
使者は乱れた着衣を直しながら、
「⋯⋯間もなく豊穣祭が始まります。ご準備を」
「ファナ、行こうか」
「はい!」
ふたりは宿を出ると、目の前に色とりどりの沢山の花で飾られた山車のようなものが停まっていた。
「わぁ!お花の乗り物です!」
(うわぁ〜、何だこれ⋯⋯めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん)
斜陽に照らされ、赤、黄、白──無数の花弁が風に揺れ、甘い香りが辺りに広がる。
ふたりが乗ると、縄を握る男たちが力強く掛け声を合わせ、軋む音とともに山車は少しずつ進み出す。
前後を固めるのは、大太鼓を抱えた楽士たち。
低く響く重音が大地を震わせ、街路の石畳までもがリズムに呼応するかのようだった。
その音に合わせ、沿道の人々が次々と歓声を上げる。
「おぉ、あのお方がフレイヤ様!」
「思ってたより可愛らしい方だわ!」
喜びに沸く声が重なる一方で、ささやき声も混じる。
「あの子供がフレイヤ様?」
「んな訳ねぇだろ、大神官も落ちたなぁ」
熱気と疑念がない交ぜになった視線が、一斉に山車へ注がれる。
ファナは人々に手を振り、頬を紅潮させながら笑顔を返す。
その姿は確かに「女神」と呼ばれても不思議ではない輝きを放っていた。
一方の大輔はというと、背筋を強張らせ、手を膝に置いたまま硬直している。
(いやいやいや⋯⋯完全に俺スルーじゃん。俺もここにいるんだけど?)
心の中でぼやきながらも、大輔は視線の集中に耐えるように下を向いた。
手を振っていたファナが、群衆の中に、この街唯一の知り合いを見つけた。
「あっ!ヴァーゴさーん!」
ヴァーゴは気づかれないだろうと思いこっそり見ていたが、あっさり見つかり、苦笑いしながら手を振る。
周りの民が、
「ヴァーゴさん、フレイヤ様と知り合いなのか?」
「流石ヴァーゴ、女神様も顧客とは仕事が早いねぇ」
「世界のトップデザイナーは違うな!」
(まさかこんなことになるとは⋯⋯女神にムームー石⋯⋯属性が強すぎる!)
山車が大広場前にゆるやかに止まると、そこを囲んでいる民衆が一際歓声を上げ、すっかり夜になった空に溶けていく。
誰もが一様に視線を山車へ向け、期待と畏れが入り混じった表情を浮かべていた。
石畳の中央には、円を描くように立ち並ぶ八つの藁柱。
粗末に見えて、その配置には計算された荘厳さが漂っていた。
藁柱は風に揺れる度にサラサラと小さな音を立て、まるで大地そのものが息づき、神を迎えるために震えているかのようだった。
(これが⋯⋯豊穣祭か。雰囲気がガチすぎて、俺みたいなのがここに混じってて大丈夫か?)
大輔は居心地の悪さに身じろぎしたが、隣のファナは無邪気に目を輝かせていた。
「大輔!あの藁の柱、何か意味があるんですかね?」
「何だろうな⋯⋯燃やしたりするんじゃないか?」
祭りを統べる場の中心に運ばれてきた彼らは、もはや観客ではなく、儀式の核に組み込まれていくのだった。