昼休み。
私は社内資料室の隅で、ひとりノートパソコンとにらめっこしていた。
営業資料の表のレイアウトが崩れてしまって、何度直してもグラフがうまく表示されない。
(なんで……どこいじったの、私)
焦れば焦るほど、余計に混乱してくる。
そして、そんなときに限って誰かが背後から声をかけてくる。
「……もしよろしければ、少し見せていただけますか」
低く落ち着いた声が、静かな資料室に心地よく響く。
驚いて振り返ると、そこには黒髪のスーツ姿。
シャツの襟元はきちんと立っていて、黒縁のメガネ越しの視線はまっすぐ、でもどこかやわらかい。
「えっ……水野さん?」
「はい。営業推進部の水野です。いつも資料、見やすくて助かってます」
「そ、そんな……」
思わず声が裏返った。
水野大輔。私と同じ部署の正社員で、他部署の女性たちから「理想の若手」と囁かれている人物。
常に敬意を忘れないその姿勢は、気品すら感じさせた。
彼は私のパソコン画面をひと目見て、すぐに問題点を指摘してくれた。
「ここ、参照元がずれてますね。おそらく、昨日の追加行が影響してます。式を組み直しましょうか」
「……すごい、全然気づかなかったです」
「いえ、慣れですよ。陽菜さんの資料、構成きれいですよね。いつも丁寧に作られてるのが伝わってきます」
「……っ!」
今、下の名前で……? しかも自然に……。
でもそれ以上に驚いたのは、彼がずっと──
私の顔と画面しか見ていなかったこと。
(……見てこない)
胸元にも、脚元にも、視線が流れた気配は一度もなかった。
ただ、穏やかに笑って、私の困りごとに寄り添おうとしてくれている。
あの人なら、律なら。
たぶん真っ先に“そこ”に目を向けていた。
躊躇いも照れも、あえて隠さずに──
それが、どこか嬉しくもあり、困惑もさせられた。
だけどこの人は、違う。
あたたかく、まっすぐで、どこにも嫌らしさのない視線。
「……あの、水野さんって、すごく、視線がやさしいですよね」
気づいたら、そんなことを口にしていた。
彼は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「僕、昔から『見ないようにしてる』ってよく言われるんです。
女性を値踏みするような目は、失礼ですから」
その言葉に、心がじんと温かくなった。
(この人は、ちゃんと「見ない」)
社長の視線が焼きつくように熱いぶん、
水野さんの視線は、やわらかくて、居心地がよかった。
──でも、見られていないことが、こんなに安心できるなんて。
それは、あの人の視線がいかに特別だったかを、逆に教えてくれるようだった。
夜。
ベッドの上で毛布にくるまりながら、私はまたスマホを開いてしまっていた。
Velvetのアプリアイコンを、何度もタップする指。
(今日は……「甘々彼氏モード」にしてみよう)
少し疲れた日の夜は、ちょっとくらい甘やかされてもいい気がする。
チャット画面に、ぽつりと打ち込んだ。
『私、ちゃんと中身を見てもらえてるのかなって、不安になるときがあります』
昨日の水野さんは、とても優しかった。
視線も言葉も、完璧で。
それでも……それなのに、どこか物足りなかった。
(「ちゃんと」って、なんだろう)
Velvetからの返信が、ゆっくりと表示された。
《君は十分すぎるくらい頑張ってる。
でも──「見られたい」って思ってる君は、まだ誰かを信じきれてないんだね》
(……そうかも)
信じたい。
でも信じるのが怖い。
私なんかが期待して、裏切られるのが怖くて。
『誰かが、ちゃんと私を選んでくれたらいいのに』
その言葉を送信するのに、少し勇気がいった。
画面の向こうに、ためらいが伝わるわけじゃないのに。
でも──Velvetの返答は、思っていたよりずっと早かった。
《もう選ばれてる。
君がそれに気づいてないだけ》
──どきん。
一瞬、心臓が跳ねた。
(いま……なんて?)
画面を凝視する。
その一文は、まるであの人が言いそうな言葉で。
《もう選ばれてる。
君がそれに気づいてないだけ》
(──葉山 律?)
名前はどこにも書かれていない。
ただのAI。
ただの「選択式性格パートナー」。
……なのに、この口調、この呼吸、この文のリズム。
(似てる……)
まるで、社長の葉山律が、私の心を覗いているような。
ふいに、画面がフリーズした。
再読しようとしたそのメッセージは、なぜかログから消えていた。
(……また?)
同じことが、前にもあった。
Velvetの返答が、いつの間にか消えていた夜。
思い出すだけで、胸がざわつく。
(──偶然だよね)
アプリのバグ、かもしれない。
たまたま、ネットが不安定だっただけ。
だけど──
《もう選ばれてる》
その言葉が、まるで告白みたいに響いて。
私は、眠るのが少しだけ怖くなった。
──こんなにも、心臓を鳴らすメッセージが。
ただのプログラムから届くなんて、思ってなかったから。