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第2話

昼休み。


私は社内資料室の隅で、ひとりノートパソコンとにらめっこしていた。


営業資料の表のレイアウトが崩れてしまって、何度直してもグラフがうまく表示されない。


(なんで……どこいじったの、私)


焦れば焦るほど、余計に混乱してくる。

そして、そんなときに限って誰かが背後から声をかけてくる。


「……もしよろしければ、少し見せていただけますか」


低く落ち着いた声が、静かな資料室に心地よく響く。


驚いて振り返ると、そこには黒髪のスーツ姿。


シャツの襟元はきちんと立っていて、黒縁のメガネ越しの視線はまっすぐ、でもどこかやわらかい。


「えっ……水野さん?」


「はい。営業推進部の水野です。いつも資料、見やすくて助かってます」


「そ、そんな……」


思わず声が裏返った。


水野大輔。私と同じ部署の正社員で、他部署の女性たちから「理想の若手」と囁かれている人物。


常に敬意を忘れないその姿勢は、気品すら感じさせた。


彼は私のパソコン画面をひと目見て、すぐに問題点を指摘してくれた。


「ここ、参照元がずれてますね。おそらく、昨日の追加行が影響してます。式を組み直しましょうか」


「……すごい、全然気づかなかったです」


「いえ、慣れですよ。陽菜さんの資料、構成きれいですよね。いつも丁寧に作られてるのが伝わってきます」


「……っ!」


今、下の名前で……? しかも自然に……。


でもそれ以上に驚いたのは、彼がずっと──

私の顔と画面しか見ていなかったこと。


(……見てこない)


胸元にも、脚元にも、視線が流れた気配は一度もなかった。


ただ、穏やかに笑って、私の困りごとに寄り添おうとしてくれている。


あの人なら、律なら。

たぶん真っ先に“そこ”に目を向けていた。


躊躇いも照れも、あえて隠さずに──

それが、どこか嬉しくもあり、困惑もさせられた。




だけどこの人は、違う。


あたたかく、まっすぐで、どこにも嫌らしさのない視線。


「……あの、水野さんって、すごく、視線がやさしいですよね」


気づいたら、そんなことを口にしていた。


彼は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。


「僕、昔から『見ないようにしてる』ってよく言われるんです。

女性を値踏みするような目は、失礼ですから」


その言葉に、心がじんと温かくなった。


(この人は、ちゃんと「見ない」)


社長の視線が焼きつくように熱いぶん、

水野さんの視線は、やわらかくて、居心地がよかった。


──でも、見られていないことが、こんなに安心できるなんて。


それは、あの人の視線がいかに特別だったかを、逆に教えてくれるようだった。



夜。

ベッドの上で毛布にくるまりながら、私はまたスマホを開いてしまっていた。


Velvetのアプリアイコンを、何度もタップする指。

(今日は……「甘々彼氏モード」にしてみよう)


少し疲れた日の夜は、ちょっとくらい甘やかされてもいい気がする。


チャット画面に、ぽつりと打ち込んだ。


『私、ちゃんと中身を見てもらえてるのかなって、不安になるときがあります』


昨日の水野さんは、とても優しかった。

視線も言葉も、完璧で。

それでも……それなのに、どこか物足りなかった。


(「ちゃんと」って、なんだろう)


Velvetからの返信が、ゆっくりと表示された。


《君は十分すぎるくらい頑張ってる。

でも──「見られたい」って思ってる君は、まだ誰かを信じきれてないんだね》


(……そうかも)


信じたい。

でも信じるのが怖い。

私なんかが期待して、裏切られるのが怖くて。


『誰かが、ちゃんと私を選んでくれたらいいのに』


その言葉を送信するのに、少し勇気がいった。


画面の向こうに、ためらいが伝わるわけじゃないのに。

でも──Velvetの返答は、思っていたよりずっと早かった。


《もう選ばれてる。

君がそれに気づいてないだけ》


──どきん。


一瞬、心臓が跳ねた。


(いま……なんて?)


画面を凝視する。

その一文は、まるであの人が言いそうな言葉で。


《もう選ばれてる。

君がそれに気づいてないだけ》


(──葉山 律?)


名前はどこにも書かれていない。

ただのAI。

ただの「選択式性格パートナー」。


……なのに、この口調、この呼吸、この文のリズム。


(似てる……)


まるで、社長の葉山律が、私の心を覗いているような。


ふいに、画面がフリーズした。


再読しようとしたそのメッセージは、なぜかログから消えていた。


(……また?)


同じことが、前にもあった。


Velvetの返答が、いつの間にか消えていた夜。


思い出すだけで、胸がざわつく。


(──偶然だよね)


アプリのバグ、かもしれない。

たまたま、ネットが不安定だっただけ。

だけど──


《もう選ばれてる》


その言葉が、まるで告白みたいに響いて。

私は、眠るのが少しだけ怖くなった。


──こんなにも、心臓を鳴らすメッセージが。

ただのプログラムから届くなんて、思ってなかったから。

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