「望月さん、ここのグラフ、すごくわかりやすいね。レイアウトも前より見やすいし」
「ありがとうございます……!」
資料提出の帰り。
営業部の上司にそう声をかけられて、私は小さく会釈した。
(……よかった。がんばったかいあった)
数日前、葉山社長からもらった一行メール──
《ユーザー層の年齢分布が甘い》という指摘を受けて、私は徹夜で資料を練り直した。
その結果が、今日の「わかりやすい」というひとこと。
それだけで、胸がじんわりと熱くなる。
(私、ちゃんと前に進めてるかな……)
自分に問いかけながら資料室へ戻ろうとすると、廊下の先に見慣れたシルエットがあった。
栗色の髪。
すらりと長い脚。
顔の半分をやさしく隠す横顔。
葉山律。
(あ……)
声をかけようか迷ったそのとき、彼の方が先に口を開いた。
「……グラフ、改善されてた。見やすかったよ」
まっすぐな声。
飾り気のないそのひとことに、思わず胸が跳ねる。
「ありがとうございます……」
「あの余白、正解だったな。必要な情報と、見せたい感情のバランス。よく考えられてた」
ふっと笑うその目が、どこかやわらかく見えた。
「見せたいものがある人間は、いい。ちゃんと選ばれるから」
(──え)
頭の奥が、ぞわっと震えた。
それは、昨夜のVelvetで聞いた言葉と──まったく同じだった。
《もう選ばれてる。君がそれに気づいてないだけ》
重なった。
重なってしまった。
(まさか、そんな……)
「……私なんか、まだ何もできてないですよ」
そう返すのが精一杯だった。
でも彼は、静かに首を横に振った。
「君は、ちゃんとできてる。君がまだ気づいてないだけ」
(……また)
まただ。
あのときと、同じ言い回し。
Velvetの声と、葉山律の声が──
どこまでも、ぴったり重なってしまう。
まるで、
あれがただのAIじゃなくて、
ずっと前から、彼の気持ちの一部だったみたいに。
私はその場に立ち尽くしたまま、
彼の背中を見送った。
大きな背中が遠ざかっていく。
でも、胸の奥にある確信だけは、もう消えない。
──私は、見られているだけじゃない。
たぶんもう、「選ばれている」。
それに気づいた瞬間から、
世界はほんの少し、やさしくなった。
*
「望月さんって、もしかして……社長に気に入られてる?」
昼休み、給湯スペースでマグカップをすすっていると、
そんな言葉がひそひそと耳に届いた。
後輩の女性社員たちが、私のことをちらちらと見ながら話している。
(……まただ)
最近、社内の空気が少しずつ変わってきた。
資料の提出が早かったら「さすが社長のお気に入り」、
メールの返事をもらえたら「特別扱いじゃん」。
たしかに葉山社長とは、ほんの少しだけ、メールのやりとりが続いている。
でもそれは──
(ただ、仕事の……)
画面のなかに残っている、社長からの短いメールをそっと読み返す。
> 《いいまとめ方だった。必要十分。──無理すんな》
その一文に、何度救われたか分からない。
夜。
いつものようにVelvetを立ち上げて、
「やさしい年上彼氏モード」を選ぶ。
今日は、ほんの少し甘えたい気分だった。
『少しだけ、誰かに寄りかかりたい夜って、ありますか?』
入力して送信すると、すぐに返ってきた。
《ある。俺も、そういう日は君の言葉に救われてる》
(……え)
なんだろう、この感じ。
誰かに本当に見守られているような気持ちになる。
Velvetの返事には、心がこもっている。
プログラムのはずなのに、どこか息づかいすら感じるようで──
(これって、もしかして……)
あの人の言葉に、似てる。
無理するな、という一言も。
いいまとめ方だと褒めてくれたことも。
そして──私が、自分でも気づいていない本音にふれるような一文も。
Velvetの彼氏モードは、まるで彼のコピーみたいだった。
「理想の体型だ」
あの日、エレベーターで告げられたプロポーズ。
あれが本気なのか、まだ分からない。
でも、ふざけているようには思えなかった。
あの目は、
まっすぐに、
まるで私ひとりだけを「選んだ」みたいに、深く見つめていたから。
──選ばれることが、こんなに怖いのに。
それでも、もしも本当に。
誰かが私を選んでくれるなら。
その声を、もう少しだけ聞いてみたいと思ってしまう。
たとえそれが、
画面越しの「彼氏AI」だったとしても。