昼過ぎ。
来客対応を終えて戻った私は、社内エレベーターの前でボタンを押した。
ひとつ深呼吸をした、そのとき──
「お、グッドタイミング」
背後から、ふわりと低い声が落ちてきた。
振り返ると、そこには栗色の髪と茶色の瞳を持つ長身の男──葉山律がいた。
「一緒に、乗ってもいい?」
「えっ……はい、もちろん!」
(……うそ、また社長!?)
完全に油断していた私は、心臓のリズムを乱されながらエレベーターに乗り込んだ。
二人きりの密室。
社長は隣でスマホをいじりながら、ちらりと私を見た。
「望月さん、資料提出してくれたでしょ?」
「はい……、先ほど、送らせていただきました」
「うん。ちゃんと見たよ。迷いが見える構成だったね」
「……す、すみません……」
「いや、褒めてる」
彼はゆるく笑って、スマホをポケットにしまう。
「『どう見られたいか』を迷える人って、悪くない。
見せ方を探してるってことだから」
(……Velvetでも、似たようなことを言われたような)
「でもさ。俺は、ありのままの君も、かなり好きだけどね」
「……っ!?」
軽すぎる口調で、重すぎる言葉。
(それ、どういう意味……!?)
「昨日のスーツもよかったけど、今日のは特に、ラインが綺麗」
「せ、セクハ──」
「おっと。誉めてるんだけどな。もっと自信持っていいんじゃない?」
エレベーターのドアが、タイミングよく開く。
彼はスタスタと先に出て行きながら、こちらを振り返った。
「俺は、派遣か正社員かなんて気にしないし──」
ふっと口角を上げて、ウインクひとつ。
「『体型が理想的』な子のこと、忘れたりしないから」
(……も、もう無理……)
顔から火が出そうなまま、私はエレベーターの奥でフリーズしていた。
社長は、相変わらず冗談みたいに軽くて。
でもその一言一言が、心の奥に落ちていくのを止められない。
好きって、本気で言ってるの?
それとも、あれは全部、遊びの延長?
(どっちにしても……)
さっき言われた「ラインが綺麗」って、
間違いなく「あの場所」を見て言ってた。
その目線を、私は──なぜか、怖いより先に、思い出してしまう。
Velvetの、優しい彼氏モードの声よりも。
社長のリアルな声のほうが、ずっと体温が高かった。
「ねえ、あの派遣の子って……あれ、絶対わざとでしょ」
コピー機の向こう。
聞こえてしまったのは、くぐもった声。
「ジャケットの前、閉めないのってさ、胸強調してるよね」
「ほんと。自分の武器、わかってるタイプ」
(……え)
資料をプリントしに来ただけだったのに。
誰が言ったかは見えなかった。
でも、その言葉は、まっすぐ胸に突き刺さる。
(そんなつもり、ないのに……)
ただ、サイズが合わないだけ。
ちゃんと閉めるとボタンが引きつるから、怖くて。
(私、そんな風に見えてたんだ……)
そのまま早歩きで廊下を抜け、資料室の奥に駆け込んだ。
「……望月さん?」
物音に振り向くと、そこにいたのは水野さんだった。
いつものように静かで、落ち着いたスーツ姿。
黒髪と黒縁眼鏡が、どこか安心感をくれる人。
「何か、困ってますか?」
「い、いえ、大丈夫です」
「……ほんとに?」
水野さんは、それ以上は何も聞かず、ただ横に腰を下ろした。
「資料、昨日よりずっと整理されてますね。
レイアウトも綺麗で、数字の説得力も出てる」
「え……見てくださったんですか?」
「もちろん。あの構成は、僕にはできません。すごいと思いますよ」
言葉は静かで、やさしい。
だけど、それ以上に。
視線が、ずっと顔の高さにあった。
(……見てこない)
胸元にも、脚にも、視線を落とさない。
ただ「人として」ちゃんと向き合ってくれる。
さっきの誰かの視線と言葉が、心に残っていたぶん、
そのまっすぐなまなざしが沁みた。
「水野さんって……優しいですね」
「いえ、僕はただ、当たり前のことをしてるだけです」
少し微笑んだ横顔に、嘘はなかった。
その姿に、胸が熱くなった。
(社長とは、正反対だ)
「体型が理想」だなんて平気で言って、視線も飾らずまっすぐで。
あの人の存在は、いつも火のように熱くて危うくて。
でも水野さんは──
やさしい水のような人だった。
どちらが心地いいのか。
どちらが正しいのか。
まだ私には、答えが出せない。
でもいまは──この静かな優しさが、ただひたすらありがたかった。