目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話

昼過ぎ。

来客対応を終えて戻った私は、社内エレベーターの前でボタンを押した。


ひとつ深呼吸をした、そのとき──


「お、グッドタイミング」


背後から、ふわりと低い声が落ちてきた。

振り返ると、そこには栗色の髪と茶色の瞳を持つ長身の男──葉山律がいた。


「一緒に、乗ってもいい?」


「えっ……はい、もちろん!」


(……うそ、また社長!?)


完全に油断していた私は、心臓のリズムを乱されながらエレベーターに乗り込んだ。


二人きりの密室。

社長は隣でスマホをいじりながら、ちらりと私を見た。


「望月さん、資料提出してくれたでしょ?」


「はい……、先ほど、送らせていただきました」


「うん。ちゃんと見たよ。迷いが見える構成だったね」


「……す、すみません……」


「いや、褒めてる」


彼はゆるく笑って、スマホをポケットにしまう。


「『どう見られたいか』を迷える人って、悪くない。

見せ方を探してるってことだから」


(……Velvetでも、似たようなことを言われたような)


「でもさ。俺は、ありのままの君も、かなり好きだけどね」


「……っ!?」


軽すぎる口調で、重すぎる言葉。


(それ、どういう意味……!?)


「昨日のスーツもよかったけど、今日のは特に、ラインが綺麗」


「せ、セクハ──」


「おっと。誉めてるんだけどな。もっと自信持っていいんじゃない?」


エレベーターのドアが、タイミングよく開く。


彼はスタスタと先に出て行きながら、こちらを振り返った。


「俺は、派遣か正社員かなんて気にしないし──」


ふっと口角を上げて、ウインクひとつ。


「『体型が理想的』な子のこと、忘れたりしないから」



(……も、もう無理……)


顔から火が出そうなまま、私はエレベーターの奥でフリーズしていた。


社長は、相変わらず冗談みたいに軽くて。

でもその一言一言が、心の奥に落ちていくのを止められない。


好きって、本気で言ってるの?

それとも、あれは全部、遊びの延長?


(どっちにしても……)


さっき言われた「ラインが綺麗」って、

間違いなく「あの場所」を見て言ってた。


その目線を、私は──なぜか、怖いより先に、思い出してしまう。


Velvetの、優しい彼氏モードの声よりも。


社長のリアルな声のほうが、ずっと体温が高かった。



「ねえ、あの派遣の子って……あれ、絶対わざとでしょ」


コピー機の向こう。

聞こえてしまったのは、くぐもった声。


「ジャケットの前、閉めないのってさ、胸強調してるよね」

「ほんと。自分の武器、わかってるタイプ」


(……え)


資料をプリントしに来ただけだったのに。


誰が言ったかは見えなかった。

でも、その言葉は、まっすぐ胸に突き刺さる。


(そんなつもり、ないのに……)


ただ、サイズが合わないだけ。

ちゃんと閉めるとボタンが引きつるから、怖くて。


(私、そんな風に見えてたんだ……)


そのまま早歩きで廊下を抜け、資料室の奥に駆け込んだ。



「……望月さん?」


物音に振り向くと、そこにいたのは水野さんだった。


いつものように静かで、落ち着いたスーツ姿。

黒髪と黒縁眼鏡が、どこか安心感をくれる人。


「何か、困ってますか?」


「い、いえ、大丈夫です」


「……ほんとに?」


水野さんは、それ以上は何も聞かず、ただ横に腰を下ろした。



「資料、昨日よりずっと整理されてますね。

レイアウトも綺麗で、数字の説得力も出てる」


「え……見てくださったんですか?」


「もちろん。あの構成は、僕にはできません。すごいと思いますよ」


言葉は静かで、やさしい。


だけど、それ以上に。

視線が、ずっと顔の高さにあった。


(……見てこない)


胸元にも、脚にも、視線を落とさない。

ただ「人として」ちゃんと向き合ってくれる。


さっきの誰かの視線と言葉が、心に残っていたぶん、

そのまっすぐなまなざしが沁みた。


「水野さんって……優しいですね」


「いえ、僕はただ、当たり前のことをしてるだけです」


少し微笑んだ横顔に、嘘はなかった。


その姿に、胸が熱くなった。


(社長とは、正反対だ)


「体型が理想」だなんて平気で言って、視線も飾らずまっすぐで。

あの人の存在は、いつも火のように熱くて危うくて。


でも水野さんは──

やさしい水のような人だった。



どちらが心地いいのか。

どちらが正しいのか。


まだ私には、答えが出せない。


でもいまは──この静かな優しさが、ただひたすらありがたかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?