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第5話

残業を終え、最後のメールを送信したときには、すでに夜九時をまわっていた。


オフィスはしんと静かで、人の気配もまばら。

資料を抱えてコピー機に向かう足取りが、少しだけ重い。


(……疲れたな)


誰にも迷惑かけないように。

ちゃんと、ちゃんとやらなきゃって、今日もずっと気を張っていた。


エレベーターの前でふと立ち止まったとき、ポケットのスマホが震えた。


《Velvet》

通知には、こう表示されていた。


> そろそろ、誰かに甘えてもいい時間だよ?




(……タイミング、よすぎ)


さっきのモードは「包容力系・無言で抱きしめてくれる年上彼氏」。


(いやいや、こんなピンポイント……誰か見てるの?)


思わずキョロキョロしてしまう。

そう思ったその瞬間──背後から聞こえたのは、まさかの声だった。



「残業、おつかれさま」


背後からかけられたその声に、私は思わず肩を跳ねさせた。


「えっ……!」


振り返ると、そこにいたのは──葉山律。


スーツの上着は脱がれて腕にかけられ、

白シャツの袖を無造作にまくりあげた彼は、

ビルの廊下の蛍光灯の下で、ひときわ眩しく見えた。


整った横顔。さらりと流れる栗色の髪。

長身に映えるスリムなパンツライン。


視線がぶつかった瞬間、心臓が跳ねる。


(なんで……!?)


「営業推進部って、遅くまで灯りついてること多いんだよね。

まあ……気になったから寄っただけ」


さらっと言うその口調が、なんだかずるい。


社長なのに。どうしてそんな自然体でそこにいるの。


その手には、小さな紙袋。

中から、コンビニのホットカフェラテと、チョコレートがのぞいていた。


「糖分、足りてなさそうだったから。勝手に判断して悪いけど」


彼の言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。


差し出された袋を受け取る指が、ほんの少しだけ震えた。


「……ありがとうございます」


「で、誰に甘えようとしてたの?」


「──っ!?」


思わず固まる私に、彼は口元をゆるめて言った。


「さっき、スマホ見て笑ってたでしょ。Velvet?」


「えっ、えええっ!? 見てたんですか!?」


「目の前にいたら、見えるよ」


にやっと笑うその顔は、いたずらっぽくて、

いつもの冷静な社長とはまるで別人だった。


「『誰かに甘えていい時間』って、いい台詞だね。俺も言おうと思ってた」


「……や、やめてください、もう!」


顔から火が出そうで、思わず背を向ける。


でも。


「本気で言ってるよ。君、無理しすぎ」


その言葉に、動きが止まる。


「君は、『甘やかされること』に慣れてなさすぎる。

でも、甘えてくれるなら──それくらい、いくらでも、どうぞ」


その声は、Velvetよりも低くて、現実の温度を帯びていた。




ふと、手がふわりと頭に触れる。


「えっ──」


ぽん、と軽く。もう一度、ぽん。


撫でられた髪がかすかに揺れた。


それだけのことなのに、心臓が跳ねるほどにドキドキした。


「望月さん。……よくがんばってるよね」


その一言に、なぜか涙が出そうになる。


誰かに褒められるのなんて、いつぶりだろう。




顔を上げると、社長と視線が重なった。


柔らかな茶色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。


その視線に、Velvetの「彼氏モード」を思い出す。


同じ言葉。

でも、まったく違う。

画面越しじゃない。

ホンモノの人間の温度。


心がゆっくりと溶けていく感覚。




「……じゃ、あとよろしくね」


さらりとそう言って去っていく背中を、私はただ見送るしかなかった。


長い脚で歩き去るその姿が、いつもより近く感じる。




(なんで、社長って……こんな時に限って、タイミングよく現れるの)


Velvetも社長も、なぜかいつも「私が弱ってる時」にだけ、優しい。


それが偶然なのか、運命なのか。


答えはまだわからない。


だけど、ひとつだけ、確かなことがある。




今夜のカフェラテは、

今まで飲んだどんな甘いものより、心に沁みた。


「あの……昨日は、ありがとうございました」


昼休み。資料室で会った水野さんに、私はそっと頭を下げた。


「いえ、たいしたことはしてません」


相変わらず、やわらかな声。

でも、私が言葉を失っていたあのとき、そっと横にいてくれたのは彼だけだった。


「少しだけ、救われました」


それを伝えると、水野さんは照れたように小さく笑った。


「……それなら、よかったです」




その後、並んで資料を整理していると、ふいに彼がぽつりと話し始めた。


「僕、前の職場では、派遣の人と接するなって言われてたんです」


「えっ……」


「直属じゃない人と、変に仲良くなるなって。誤解されるからって」


「……そんなの、寂しいですね」


「はい。でも、ここの会社はそうじゃない。

ちゃんと、誰がどんな仕事をしてるか見ようとしてくれる人が多い」


「……たしかに。そうかもしれません」


そのとき、彼がふと視線をこちらに向けた。


「だから、僕は──望月さんのことも、ちゃんと見ていたいと思いました」


「…………」


その目は、まっすぐで。


でも、やっぱり胸元には落ちない。

視線の高さはずっと変わらないまま、私の目だけを見ていた。


(……ずるいな)


そう思った。


この人は、「見ない」。

でも、「ちゃんと見てくれてる」。


葉山さんみたいに真っ直ぐ口説いたり、

Velvetみたいに甘やかしたりはしない。

ただ、静かに、そばにいてくれる。


「……ありがとうございます。私、あんまり自信ないから」


「知ってます。でも、それは悪いことじゃないです。

自信がない人ほど、ちゃんと準備する。慎重に、誰かを大事にできる」


「…………」


言葉のひとつひとつが、しみるようだった。


(この人のそばにいると、息がしやすくなる)


そう気づいたとき、ちょっとだけ胸が苦しくなった。


だって──社長といるときは、

いつも息が、うまくできなくなるから。



どちらが正しいのかは、まだ分からない。


でも、水野さんの言葉は、あの夜のカフェラテと同じくらい、胸の奥をじんわり温めてくれた。


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