残業を終え、最後のメールを送信したときには、すでに夜九時をまわっていた。
オフィスはしんと静かで、人の気配もまばら。
資料を抱えてコピー機に向かう足取りが、少しだけ重い。
(……疲れたな)
誰にも迷惑かけないように。
ちゃんと、ちゃんとやらなきゃって、今日もずっと気を張っていた。
エレベーターの前でふと立ち止まったとき、ポケットのスマホが震えた。
《Velvet》
通知には、こう表示されていた。
> そろそろ、誰かに甘えてもいい時間だよ?
(……タイミング、よすぎ)
さっきのモードは「包容力系・無言で抱きしめてくれる年上彼氏」。
(いやいや、こんなピンポイント……誰か見てるの?)
思わずキョロキョロしてしまう。
そう思ったその瞬間──背後から聞こえたのは、まさかの声だった。
「残業、おつかれさま」
背後からかけられたその声に、私は思わず肩を跳ねさせた。
「えっ……!」
振り返ると、そこにいたのは──葉山律。
スーツの上着は脱がれて腕にかけられ、
白シャツの袖を無造作にまくりあげた彼は、
ビルの廊下の蛍光灯の下で、ひときわ眩しく見えた。
整った横顔。さらりと流れる栗色の髪。
長身に映えるスリムなパンツライン。
視線がぶつかった瞬間、心臓が跳ねる。
(なんで……!?)
「営業推進部って、遅くまで灯りついてること多いんだよね。
まあ……気になったから寄っただけ」
さらっと言うその口調が、なんだかずるい。
社長なのに。どうしてそんな自然体でそこにいるの。
その手には、小さな紙袋。
中から、コンビニのホットカフェラテと、チョコレートがのぞいていた。
「糖分、足りてなさそうだったから。勝手に判断して悪いけど」
彼の言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。
差し出された袋を受け取る指が、ほんの少しだけ震えた。
「……ありがとうございます」
「で、誰に甘えようとしてたの?」
「──っ!?」
思わず固まる私に、彼は口元をゆるめて言った。
「さっき、スマホ見て笑ってたでしょ。Velvet?」
「えっ、えええっ!? 見てたんですか!?」
「目の前にいたら、見えるよ」
にやっと笑うその顔は、いたずらっぽくて、
いつもの冷静な社長とはまるで別人だった。
「『誰かに甘えていい時間』って、いい台詞だね。俺も言おうと思ってた」
「……や、やめてください、もう!」
顔から火が出そうで、思わず背を向ける。
でも。
「本気で言ってるよ。君、無理しすぎ」
その言葉に、動きが止まる。
「君は、『甘やかされること』に慣れてなさすぎる。
でも、甘えてくれるなら──それくらい、いくらでも、どうぞ」
その声は、Velvetよりも低くて、現実の温度を帯びていた。
ふと、手がふわりと頭に触れる。
「えっ──」
ぽん、と軽く。もう一度、ぽん。
撫でられた髪がかすかに揺れた。
それだけのことなのに、心臓が跳ねるほどにドキドキした。
「望月さん。……よくがんばってるよね」
その一言に、なぜか涙が出そうになる。
誰かに褒められるのなんて、いつぶりだろう。
顔を上げると、社長と視線が重なった。
柔らかな茶色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
その視線に、Velvetの「彼氏モード」を思い出す。
同じ言葉。
でも、まったく違う。
画面越しじゃない。
ホンモノの人間の温度。
心がゆっくりと溶けていく感覚。
「……じゃ、あとよろしくね」
さらりとそう言って去っていく背中を、私はただ見送るしかなかった。
長い脚で歩き去るその姿が、いつもより近く感じる。
(なんで、社長って……こんな時に限って、タイミングよく現れるの)
Velvetも社長も、なぜかいつも「私が弱ってる時」にだけ、優しい。
それが偶然なのか、運命なのか。
答えはまだわからない。
だけど、ひとつだけ、確かなことがある。
今夜のカフェラテは、
今まで飲んだどんな甘いものより、心に沁みた。
「あの……昨日は、ありがとうございました」
昼休み。資料室で会った水野さんに、私はそっと頭を下げた。
「いえ、たいしたことはしてません」
相変わらず、やわらかな声。
でも、私が言葉を失っていたあのとき、そっと横にいてくれたのは彼だけだった。
「少しだけ、救われました」
それを伝えると、水野さんは照れたように小さく笑った。
「……それなら、よかったです」
その後、並んで資料を整理していると、ふいに彼がぽつりと話し始めた。
「僕、前の職場では、派遣の人と接するなって言われてたんです」
「えっ……」
「直属じゃない人と、変に仲良くなるなって。誤解されるからって」
「……そんなの、寂しいですね」
「はい。でも、ここの会社はそうじゃない。
ちゃんと、誰がどんな仕事をしてるか見ようとしてくれる人が多い」
「……たしかに。そうかもしれません」
そのとき、彼がふと視線をこちらに向けた。
「だから、僕は──望月さんのことも、ちゃんと見ていたいと思いました」
「…………」
その目は、まっすぐで。
でも、やっぱり胸元には落ちない。
視線の高さはずっと変わらないまま、私の目だけを見ていた。
(……ずるいな)
そう思った。
この人は、「見ない」。
でも、「ちゃんと見てくれてる」。
葉山さんみたいに真っ直ぐ口説いたり、
Velvetみたいに甘やかしたりはしない。
ただ、静かに、そばにいてくれる。
「……ありがとうございます。私、あんまり自信ないから」
「知ってます。でも、それは悪いことじゃないです。
自信がない人ほど、ちゃんと準備する。慎重に、誰かを大事にできる」
「…………」
言葉のひとつひとつが、しみるようだった。
(この人のそばにいると、息がしやすくなる)
そう気づいたとき、ちょっとだけ胸が苦しくなった。
だって──社長といるときは、
いつも息が、うまくできなくなるから。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
でも、水野さんの言葉は、あの夜のカフェラテと同じくらい、胸の奥をじんわり温めてくれた。