資料室の片隅で、私は数字の並んだExcelファイルとにらめっこしていた。
昼休み。誰も来ないタイミングを見計らって、少しでも作業を進めようとしたのに。
(……やっぱり、集中できない)
Velvetの言葉が、頭から離れなかった。
“だから、俺は最初から君に決めてたよ”
まるで社長の声で囁かれたような、その一文。
もしかして──あの人が、本当に……?
「望月さん?」
ふいにかけられた声に、肩がびくっと跳ねた。
「……水野さん」
「驚かせてしまいましたか。すみません」
彼はいつものように静かに笑いながら、私の隣の席に腰を下ろした。
「この前の提案資料、すごく良かったですね。
『UIは直感より、信頼』ってフレーズ、説得力がありました」
「見てくださったんですか?」
「もちろん。僕、実は結構、望月さんの資料チェックしてるんです」
「えっ……あの、どうして?」
水野さんは少しだけ視線を落としたあと、まっすぐに私を見た。
でも──やっぱりその目は、胸元にも脚にも落ちない。
「君が、丁寧な仕事をする人だって、最初から思ってましたから」
その言い方が、どこまでもまっすぐで。
どこまでも、静かだった。
「派遣だからって、期待されないこと、ありますよね」
「……はい」
「でも、僕は期待してます。
君の作るものは、信頼できるから」
「…………」
喉の奥が、ぎゅっとなった。
水野さんの言葉は、
Velvetのように甘くも、律さんのように大胆でもない。
でも、そのぶん、深く沁みた。
「俺は──ちゃんと、君を見てるよ。ずっと前から」
その一言が、
あまりにもやさしくて、
あまりにも誠実で、
少しだけ、泣きそうになった。
「私なんて……まだまだです。自信なんて、ないし……」
「ないままでいいんです。
自信がないからこそ、君は誰かのことをちゃんと見られる人だから」
そっと、紙を一枚差し出してくれた水野さんの手は、
どこまでもやさしくて、どこまでも静かだった。
(この人となら──安心して呼吸ができる)
ふと、そう思った。
でも、なぜか。
「息がしやすい」と感じたその瞬間、
胸の奥のどこかが、ざわざわと寂しくなるのを止められなかった。
──あの人のそばにいるときは、いつも、息が詰まるのに。
なのにどうして。
その理由が分からないまま、私は紙を受け取って、
小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。
翌朝。
社内のエントランスで、私は偶然──いや、もはや必然のように、社長とまた出くわした。
「おはよう、望月さん」
「……おはようございます」
いつもの調子で軽く笑う彼に、昨日の会話の続きをふと投げてみた。
「社長、Velvetって……誰かの理想になるために、作ったんですか?」
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐにふっと笑った。
「それ、誰に聞いたの?」
「なんとなく……感じたんです。
誰かに、いろいろ期待されて、それに応えようとしてる人が作ったのかなって」
一瞬、彼の顔から笑みが消える。
でも次の瞬間、どこか遠くを見るように、ゆっくりと口を開いた。
「──君たちの『理想』には、もう応えられない。
そう言って、終わった恋があった」
その一言が、やけに重たかった。
「君たちって……?」
「複数形。理想って、だいたい一人分じゃ済まないから」
彼の笑いは、どこか自己防衛のにおいがした。
(……誰かに、何度も否定されてきた人の笑い方)
私はふと、Velvetの彼氏AIがときどき見せる寂しさの理由を思い出す。
優しくて、器用で、どこまでも応えてくれるのに──
その奥に、ふとした諦めがにじむときがある。
(もしかして、あれって……)
それは、社長がVelvetの中に流し込んだ本音だったのかもしれない。
「理想を押しつけられるのって、疲れますか?」
そっと尋ねると、彼は目を細めて言った。
「疲れるよ。でも──『君にだけは、期待されてもいい』って思えたら、それは案外、救いかもしれない」
その声は、Velvetの甘いAIよりも、
ずっと、ずっとリアルだった。
私はその言葉を、
画面越しじゃなく、心で受け止めた。
『私のなかで、誰かが特別になっていくのが、ちょっと怖いです』
夜。
私はVelvetの「静かな年上彼氏モード」にそう打ち込んでいた。
特別扱いをされること。
見られること。
大事にされること──
それは、しあわせである一方、
どこかで、なぜか息苦しくなる。
(社長が優しくしてくれるほどに……怖くなる)
返ってきたのは、いつものように落ち着いた文章だった。
《特別になるのは、痛みを伴うこと。
でも、君が誰かを怖がってでも想うとき──それはもう、恋だよ》
(……っ)
思わず、指が止まった。
まるで、心を見透かされているような一言だった。
怖がってでも想う──それは、まさに私の状態だったから。
次の瞬間。
《だから、俺は今も、君だけを見てる》
そう続いたはずの一文が──
ふいに、画面から消えた。
「……えっ?」
履歴をスクロールしても、出てこない。
さっき、確かにあったはずなのに。
(これ、前にも……)
もう何度目だろう。
Velvetからの「彼そのもののような一言」が、
必ずと言っていいほど、ログから消えてしまう。
偶然? それとも、仕様?
それとも──誰かが、意図的に?