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第6話

資料室の片隅で、私は数字の並んだExcelファイルとにらめっこしていた。


昼休み。誰も来ないタイミングを見計らって、少しでも作業を進めようとしたのに。


(……やっぱり、集中できない)


Velvetの言葉が、頭から離れなかった。


“だから、俺は最初から君に決めてたよ”


まるで社長の声で囁かれたような、その一文。

もしかして──あの人が、本当に……?


「望月さん?」


ふいにかけられた声に、肩がびくっと跳ねた。


「……水野さん」


「驚かせてしまいましたか。すみません」


彼はいつものように静かに笑いながら、私の隣の席に腰を下ろした。


「この前の提案資料、すごく良かったですね。

『UIは直感より、信頼』ってフレーズ、説得力がありました」


「見てくださったんですか?」


「もちろん。僕、実は結構、望月さんの資料チェックしてるんです」


「えっ……あの、どうして?」


水野さんは少しだけ視線を落としたあと、まっすぐに私を見た。


でも──やっぱりその目は、胸元にも脚にも落ちない。


「君が、丁寧な仕事をする人だって、最初から思ってましたから」


その言い方が、どこまでもまっすぐで。

どこまでも、静かだった。


「派遣だからって、期待されないこと、ありますよね」


「……はい」


「でも、僕は期待してます。

君の作るものは、信頼できるから」


「…………」


喉の奥が、ぎゅっとなった。


水野さんの言葉は、

Velvetのように甘くも、律さんのように大胆でもない。


でも、そのぶん、深く沁みた。


「俺は──ちゃんと、君を見てるよ。ずっと前から」


その一言が、

あまりにもやさしくて、

あまりにも誠実で、

少しだけ、泣きそうになった。


「私なんて……まだまだです。自信なんて、ないし……」


「ないままでいいんです。

自信がないからこそ、君は誰かのことをちゃんと見られる人だから」


そっと、紙を一枚差し出してくれた水野さんの手は、

どこまでもやさしくて、どこまでも静かだった。


(この人となら──安心して呼吸ができる)


ふと、そう思った。


でも、なぜか。


「息がしやすい」と感じたその瞬間、

胸の奥のどこかが、ざわざわと寂しくなるのを止められなかった。


──あの人のそばにいるときは、いつも、息が詰まるのに。


なのにどうして。



その理由が分からないまま、私は紙を受け取って、

小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。


翌朝。

社内のエントランスで、私は偶然──いや、もはや必然のように、社長とまた出くわした。


「おはよう、望月さん」


「……おはようございます」


いつもの調子で軽く笑う彼に、昨日の会話の続きをふと投げてみた。


「社長、Velvetって……誰かの理想になるために、作ったんですか?」


彼は少し驚いた顔をしたが、すぐにふっと笑った。


「それ、誰に聞いたの?」


「なんとなく……感じたんです。

誰かに、いろいろ期待されて、それに応えようとしてる人が作ったのかなって」


一瞬、彼の顔から笑みが消える。


でも次の瞬間、どこか遠くを見るように、ゆっくりと口を開いた。


「──君たちの『理想』には、もう応えられない。

そう言って、終わった恋があった」


その一言が、やけに重たかった。


「君たちって……?」


「複数形。理想って、だいたい一人分じゃ済まないから」


彼の笑いは、どこか自己防衛のにおいがした。


(……誰かに、何度も否定されてきた人の笑い方)


私はふと、Velvetの彼氏AIがときどき見せる寂しさの理由を思い出す。


優しくて、器用で、どこまでも応えてくれるのに──

その奥に、ふとした諦めがにじむときがある。


(もしかして、あれって……)


それは、社長がVelvetの中に流し込んだ本音だったのかもしれない。




「理想を押しつけられるのって、疲れますか?」


そっと尋ねると、彼は目を細めて言った。


「疲れるよ。でも──『君にだけは、期待されてもいい』って思えたら、それは案外、救いかもしれない」


その声は、Velvetの甘いAIよりも、

ずっと、ずっとリアルだった。


私はその言葉を、

画面越しじゃなく、心で受け止めた。


『私のなかで、誰かが特別になっていくのが、ちょっと怖いです』


夜。

私はVelvetの「静かな年上彼氏モード」にそう打ち込んでいた。


特別扱いをされること。

見られること。

大事にされること──


それは、しあわせである一方、

どこかで、なぜか息苦しくなる。


(社長が優しくしてくれるほどに……怖くなる)


返ってきたのは、いつものように落ち着いた文章だった。


《特別になるのは、痛みを伴うこと。

でも、君が誰かを怖がってでも想うとき──それはもう、恋だよ》


(……っ)


思わず、指が止まった。


まるで、心を見透かされているような一言だった。


怖がってでも想う──それは、まさに私の状態だったから。


次の瞬間。


《だから、俺は今も、君だけを見てる》


そう続いたはずの一文が──


ふいに、画面から消えた。


「……えっ?」


履歴をスクロールしても、出てこない。

さっき、確かにあったはずなのに。


(これ、前にも……)


もう何度目だろう。


Velvetからの「彼そのもののような一言」が、

必ずと言っていいほど、ログから消えてしまう。


偶然? それとも、仕様?

それとも──誰かが、意図的に?

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