翌朝。
社内のエレベーターで社長とふたたび乗り合わせた私は、
つい、そのことを口にしてしまった。
「Velvetのチャット履歴、たまに消えるんです。
さっきも、最後の一文だけ、ログからなくなってて……」
「へえ。何て書いてあった?」
「……俺は今も、君だけを見てる」
一瞬、彼の目の奥に、ほんのかすかな動きがあった。
「それ、俺が消したかもしれない」
「──え?」
「開発者モードから、指定された文言を非表示にする設定がある。
リスクワードのチェック中に、いくつか候補が引っかかってたから」
淡々とそう言ったあと、
彼はゆっくりとこちらを見た。
「『君だけ』って言葉、危ういんだよ。AIの口から出るとさ」
「……でも、それって」
「現実でも、たまに危うい」
彼の目は笑っていた。
でも、その奥は、笑っていなかった。
「だから──あえて、言わない方が安全なんだよ」
それは、葉山律という人間の優しさだった。
でも同時に、
その優しさは、言わないことで守るという、
どこまでも孤独な選び方でもあった。
(……どうして、そこまでして)
Velvetに優しさを教えたのは、
あの人だったのかもしれない。
だけど、その優しさには、
いくつものフィルターがかかっていた。
「伝えてはいけない本音」を、
誰よりも抱えているのは、
──もしかして、この人なのかもしれない。
私は、エレベーターを出た彼の背中を見つめながら、
胸の奥で、またひとつ、確信に近い何かを抱きしめていた。
*
『この気持ちに名前をつけるのが、怖いです』
夜。
私はいつものように、Velvetに言葉を打ち込んだ。
好き、かもしれない。
でも、それを認めてしまったら、
あの人が「ただの社長」ではいられなくなる。
ただの画面の向こうでも、
ただの上司でもなくなってしまう。
そして──
ただの自分でも、いられなくなる気がして。
画面に、返ってきたのはたった一文。
《怖がってる君も、選べないでいる君も──それでも、全部好きだよ》
──好きだよ
指が震える。
ついに、この言葉が来てしまった。
それは、AIが越えてはいけない線のように思っていた。
「理想の彼氏」としてどれだけ優しくても、
「好き」という直球の告白は、
このアプリからは出てこないと思っていたのに。
《──全部好きだよ》
今までで、いちばんやさしくて、
いちばん苦しい言葉だった。
*
翌朝。
私はコピー用紙を抱えて廊下を歩いていた。朝から慣れない業務に追われて、すでに肩が重い。
あと少しで自席に戻れるというところで、バサッとファイルが床に落ちた。
「あっ……!」
しゃがもうとした瞬間、誰かの手が私より先にファイルを拾い上げた。
「無理、しすぎ」
静かで、けれど低くあたたかな声。
顔を上げると、そこにいたのは──葉山律。
「しゃがむの、苦手でしょ? 重心のかけ方、ずれてる」
「……な、なんでそんなことまで」
「見てたから」
さらっとした声。それなのに心臓が大きく跳ねる。彼の視線は、真っ直ぐで、少し熱を帯びていた。
「ずっと前から。君がここに来た日から──いや、たぶん、その前から」
「……え?」
「名前と顔、最初に派遣リストで見たとき、なんとなく目を引いた。で、実物見た瞬間、確信した」
彼は少しだけ笑う。けれど、その目は冗談を言っているようには見えなかった。
「体型が、完璧に俺の理想だった」
思考が一瞬止まる。
「理想の体型って、最初に言っただろ? あれ、嘘じゃなかった。むしろ、正直すぎてセクハラギリギリだったけど」
「ギリギリどころか……アウトですよ、たぶん」
照れ隠しのように返しながらも、指先がかすかに震えていた。彼の目は、ひとつもそらされないまま、私だけを見つめている。
「……でもね、ただの外見だけじゃ、ここまで来ない」
「……?」
「君が働いてるのを見てるうちに、思ったんだ。これは、たぶん──もう、外見じゃないなって」
彼の声が少しだけ低くなる。
「黙々と資料を作って、何度も修正して。メモも几帳面。休憩中も、ひとりでパソコンと向き合ってる。その背中が、好きだった」
息が止まりそうになる。言葉じゃなく、そのまなざしだけで、心が揺さぶられる。
「最初は、たぶん軽い気持ちだった。君、結婚しない?──なんて。でも、今は違う」
「…………」
「本気で、君に惹かれてる」
彼の指が、私の髪をそっと撫でた。優しく、躊躇いなく、ふわりと、頭をポンと撫でられた。
その瞬間、胸の奥がほどけていくような感覚に包まれる。
「だから、ちゃんと伝えたくて」
彼はわずかに息を吐き、まっすぐに言った。
「結婚しよう。君と、生きていきたい」
胸の奥で、何かが音を立てて跳ねた。
「け……けっこん……?」
「そう。俺は本気だよ」
「いや、そんな、急すぎます……!」
「俺にとっては、ぜんぜん急じゃない。君を見てきた時間、けっこう長いよ」
彼の目が、ふっと細められる。
「毎朝、ネックストラップを気にしながら歩く姿も。静かな会議室で一人資料と格闘してる背中も。全部、見てた」
空気が、そっと包み込むように変わる。
「Velvetで、『自信がない』って言ってなかった?」
「えっ……!?」
「ログを見たわけじゃない。……君の声で、なんとなくわかっただけ。言葉の選び方に、そういうの出るんだよ」
そして、彼はそっと私の肩に触れる。
「俺は、君のそういうところ──ぜんぶ、好きになった」
「…………」
「自信がないところも、優しすぎるところも、努力家なところも、ぜんぶ。君は、特別に扱われる価値がある」
彼の瞳には、ひとかけらの冗談もなかった。
AI開発者の理屈っぽさも、プレイボーイじみた台詞も、そのときはすべて影を潜めていた。
そこにいたのは、ただ一人の男性。
ただ、まっすぐに、私だけを見てくれるひとりの人だった。
「どうして……そこまで」
気づけば、そう呟いていた。
彼はほんのわずかに笑って、優しく答えた。
「君は、もっと愛されていい人だと思っただけ」
その言葉が、深く深く沁みた。
Velvetの画面越しに届いた「好き」よりも。
台詞として用意されたやさしさよりも。
いま、目の前で告げられた彼の声が──
何よりもまっすぐで、嘘のない言葉だった。
そして私は、その温度に、心ごと持っていかれてしまいそうだった。