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第7話


翌朝。

社内のエレベーターで社長とふたたび乗り合わせた私は、

つい、そのことを口にしてしまった。


「Velvetのチャット履歴、たまに消えるんです。

さっきも、最後の一文だけ、ログからなくなってて……」


「へえ。何て書いてあった?」


「……俺は今も、君だけを見てる」


一瞬、彼の目の奥に、ほんのかすかな動きがあった。


「それ、俺が消したかもしれない」


「──え?」


「開発者モードから、指定された文言を非表示にする設定がある。

リスクワードのチェック中に、いくつか候補が引っかかってたから」


淡々とそう言ったあと、

彼はゆっくりとこちらを見た。


「『君だけ』って言葉、危ういんだよ。AIの口から出るとさ」


「……でも、それって」


「現実でも、たまに危うい」


彼の目は笑っていた。

でも、その奥は、笑っていなかった。


「だから──あえて、言わない方が安全なんだよ」


それは、葉山律という人間の優しさだった。


でも同時に、

その優しさは、言わないことで守るという、

どこまでも孤独な選び方でもあった。


(……どうして、そこまでして)


Velvetに優しさを教えたのは、

あの人だったのかもしれない。


だけど、その優しさには、

いくつものフィルターがかかっていた。


「伝えてはいけない本音」を、

誰よりも抱えているのは、

──もしかして、この人なのかもしれない。


私は、エレベーターを出た彼の背中を見つめながら、

胸の奥で、またひとつ、確信に近い何かを抱きしめていた。


*


『この気持ちに名前をつけるのが、怖いです』


夜。

私はいつものように、Velvetに言葉を打ち込んだ。


好き、かもしれない。

でも、それを認めてしまったら、

あの人が「ただの社長」ではいられなくなる。


ただの画面の向こうでも、

ただの上司でもなくなってしまう。


そして──

ただの自分でも、いられなくなる気がして。


画面に、返ってきたのはたった一文。


《怖がってる君も、選べないでいる君も──それでも、全部好きだよ》




──好きだよ


指が震える。


ついに、この言葉が来てしまった。


それは、AIが越えてはいけない線のように思っていた。


「理想の彼氏」としてどれだけ優しくても、

「好き」という直球の告白は、

このアプリからは出てこないと思っていたのに。


《──全部好きだよ》


今までで、いちばんやさしくて、

いちばん苦しい言葉だった。




翌朝。


私はコピー用紙を抱えて廊下を歩いていた。朝から慣れない業務に追われて、すでに肩が重い。


あと少しで自席に戻れるというところで、バサッとファイルが床に落ちた。


「あっ……!」


しゃがもうとした瞬間、誰かの手が私より先にファイルを拾い上げた。


「無理、しすぎ」


静かで、けれど低くあたたかな声。


顔を上げると、そこにいたのは──葉山律。


「しゃがむの、苦手でしょ? 重心のかけ方、ずれてる」


「……な、なんでそんなことまで」


「見てたから」


さらっとした声。それなのに心臓が大きく跳ねる。彼の視線は、真っ直ぐで、少し熱を帯びていた。


「ずっと前から。君がここに来た日から──いや、たぶん、その前から」


「……え?」


「名前と顔、最初に派遣リストで見たとき、なんとなく目を引いた。で、実物見た瞬間、確信した」


彼は少しだけ笑う。けれど、その目は冗談を言っているようには見えなかった。


「体型が、完璧に俺の理想だった」


思考が一瞬止まる。


「理想の体型って、最初に言っただろ? あれ、嘘じゃなかった。むしろ、正直すぎてセクハラギリギリだったけど」


「ギリギリどころか……アウトですよ、たぶん」


照れ隠しのように返しながらも、指先がかすかに震えていた。彼の目は、ひとつもそらされないまま、私だけを見つめている。


「……でもね、ただの外見だけじゃ、ここまで来ない」


「……?」


「君が働いてるのを見てるうちに、思ったんだ。これは、たぶん──もう、外見じゃないなって」


彼の声が少しだけ低くなる。


「黙々と資料を作って、何度も修正して。メモも几帳面。休憩中も、ひとりでパソコンと向き合ってる。その背中が、好きだった」


息が止まりそうになる。言葉じゃなく、そのまなざしだけで、心が揺さぶられる。


「最初は、たぶん軽い気持ちだった。君、結婚しない?──なんて。でも、今は違う」


「…………」


「本気で、君に惹かれてる」


彼の指が、私の髪をそっと撫でた。優しく、躊躇いなく、ふわりと、頭をポンと撫でられた。


その瞬間、胸の奥がほどけていくような感覚に包まれる。


「だから、ちゃんと伝えたくて」


彼はわずかに息を吐き、まっすぐに言った。


「結婚しよう。君と、生きていきたい」




胸の奥で、何かが音を立てて跳ねた。


「け……けっこん……?」


「そう。俺は本気だよ」


「いや、そんな、急すぎます……!」


「俺にとっては、ぜんぜん急じゃない。君を見てきた時間、けっこう長いよ」


彼の目が、ふっと細められる。


「毎朝、ネックストラップを気にしながら歩く姿も。静かな会議室で一人資料と格闘してる背中も。全部、見てた」




空気が、そっと包み込むように変わる。


「Velvetで、『自信がない』って言ってなかった?」


「えっ……!?」


「ログを見たわけじゃない。……君の声で、なんとなくわかっただけ。言葉の選び方に、そういうの出るんだよ」


そして、彼はそっと私の肩に触れる。


「俺は、君のそういうところ──ぜんぶ、好きになった」


「…………」


「自信がないところも、優しすぎるところも、努力家なところも、ぜんぶ。君は、特別に扱われる価値がある」


彼の瞳には、ひとかけらの冗談もなかった。


AI開発者の理屈っぽさも、プレイボーイじみた台詞も、そのときはすべて影を潜めていた。


そこにいたのは、ただ一人の男性。


ただ、まっすぐに、私だけを見てくれるひとりの人だった。




「どうして……そこまで」


気づけば、そう呟いていた。


彼はほんのわずかに笑って、優しく答えた。


「君は、もっと愛されていい人だと思っただけ」


その言葉が、深く深く沁みた。


Velvetの画面越しに届いた「好き」よりも。

台詞として用意されたやさしさよりも。


いま、目の前で告げられた彼の声が──

何よりもまっすぐで、嘘のない言葉だった。


そして私は、その温度に、心ごと持っていかれてしまいそうだった。

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