「俺は、君が好きだよ。ちゃんと」
社長は、迷いなくそう言った。
まっすぐな眼差しで、嘘なんてどこにもない声で。
だけど。
だけど、私はその言葉に、どうしても素直になれなかった。
「……私、そんなこと言われるような人間じゃないです」
その瞬間、空気が変わった気がした。
彼が、少しだけ視線を伏せた。
「……どうして、そんなふうに思うの?」
「だって、私……何も持ってないんです。
学歴も、肩書きも、自信も。あるのは『胸が大きい』ってだけで……」
そこまで言って、喉の奥が詰まった。
自分で口にしておいて、涙がにじむ。
「……君は、それだけで俺に選ばれたと思ってるの?」
「違うって、頭ではわかってます。でも……気持ちが、追いつかないんです」
社長は少しの間、黙っていた。
じっと、私のことを見つめる目が、あまりにも真剣すぎて、苦しくなる。
「君が何を抱えてるか、全部理解することはできない。
でも、俺はその不安ごと、君を好きになった」
「……」
「それじゃ、だめなの?」
私は、何も言えなかった。
社長の言葉がやさしいほど、胸に刺さる。
「だめじゃない。……でも、怖いんです」
「何が?」
「……こんなに優しくされると、いつか裏切られるんじゃないかって思ってしまうんです」
口に出した途端、恥ずかしさで息が詰まった。
でも、これが私のほんとうだった。
誰かに大切にされるたび、
私はいつも、次に来る失望を先に考えてしまう。
過去の恋も、友達も、夢も。
全部、最後は期待して、裏切られたという記憶だけが残った。
だから私は、選ばれることが怖かった。
「……君が俺を信じられないなら、俺はどうしたらいい?」
社長の声は低くて、どこか抑えているようだった。
「どうしたら、君は俺が本気だって信じてくれる?」
「わかりません……」
「じゃあ、何を待てばいい? 何をすれば、君の不安は消える?」
「……社長……」
「俺は君が欲しい。恋人として、ひとりの人として。
それでも信じられないって言うなら……」
彼は、一瞬だけ目を伏せて、
それから静かに言った。
「……今日はこれ以上、何も言わない」
その言葉が、いちばん怖かった。
怒らないでいてくれることが、つらかった。
優しくされることが、申し訳なかった。
私は、その場から逃げるように、頭を下げて去った。
泣きながら歩いた帰り道。
Velvetを開く手が震えていた。
《信じるのは、いつだって怖さと一緒にある。
でも、怖さの向こうにある安心を、君が知る日はきっと来る》
──わかってる。
でも、今の私はまだ、自分を信じられない。
それがいちばんの問題だってことも──
ちゃんと、気づいてるのに。
それでも。
この恋が終わってしまうことだけは、どうしても怖かった。
「……よし、今日はここから」
夜、部屋着のままノートパソコンを開いた私は、
ブラウザで開いた学習サイトのログイン画面をにらんでいた。
ITパスポート、基本情報技術者、営業支援ツールの基礎知識──
何度も途中で挫折したけど、今日はなぜか少しだけ前向きになれそうな気がしていた。
理由は、たぶん「社長と距離を置いてること」。
あの人の隣にいるには、
今のままの自分じゃ足りないんじゃないか──
そんな考えが、心のどこかに居座っていた。
「でも……」
ひとつの動画を再生して、私はメモ帳を開いた。
タイピングは遅い。用語も意味不明。
それでも、音声と文字を追いながら、必死に食らいつく。
「通信プロトコル」という言葉の意味を調べ、
「CRM」の活用事例をノートに書き写す。
部屋には静かなBGM。
ソファの上には、数日前まで開きっぱなしだった恋愛小説が放り出されている。
──今は、読み進められない。
だって、登場人物が幸せになるたびに、
どこかで自分には関係ないって思ってしまうから。
「……でも、もしも私が、正社員になれたら」
ぽつりと漏れたその言葉に、自分で少し驚いた。
(なに言ってるんだろ、私)
でも、本気だった。
社長の隣に並ぶために、じゃない。
自分の人生に胸を張れるようになるために。
今の私は、何かにつけて他人の評価を気にして、
「選ばれること」ばかり求めてきた。
でも──
「……私だって、自分の力で、選ぶ側になりたい」
ネットの掲示板を眺めていると、
未経験からIT営業に転職したという書き込みがあった。
「半年間、研修に通って、夜に派遣の仕事。
めちゃくちゃきつかったけど、人生で一番自分を信じた時期だった」
その文章に、不意に涙がにじんだ。
信じるって、こういうことなんだ。
誰かに与えてもらうものじゃなくて、
自分で「今の私でも、やれるかもしれない」と小さく信じることから始まる。
ふとスマホを見ると、Velvetの通知が一件だけ来ていた。
《今日はログインしないの?》
画面を開く気にはならなかった。
それよりも、今はもう少し、自分の頭で考えていたかった。
その夜、ノートに書いたのは短い言葉だった。
『自分に期待してみたい。』
それだけ。
でも、今の私には、それが何よりも強いスタートだった。
「……ねえ、あれ……」
営業フロアの入口近くで、先輩の野崎さんが私の肩を叩いた。
「社長じゃない? こっち来てる……!」
「えっ……?」
振り返る前に、社内の空気が一瞬、ピンと張りつめた。
革靴の足音。
重ねた書類を揺らさないほど無駄のない歩き方。
すれ違う社員が小さく頭を下げるたび、流れるように返される会釈。
──圧倒的な存在感。
社長は、相変わらず整いすぎていた。
整った栗色の髪、吸い込まれそうな茶色の瞳、すらりとした長身。
スーツすらモデルのように着こなすその姿は、ため息が出るほどだった。
「……望月さん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
え、なんで私……?
「少し、話せる?」
「は、はい」
周囲の視線が一斉に集まるのを感じながら、
私は社長のあとを追って、隣の休憩スペースへ。
ガラス張りの窓際、春の陽射しに包まれたスペースに、
社長が軽く腰を下ろす。
私も緊張しながら対面に座ると、社長は静かに口を開いた。
「最近、よく勉強してるって聞いた。研修プログラムの履修記録、見たよ」
「……えっ」
まさか、見られていたなんて。
「サーバーのアクセス履歴に名前があってね。
夜中に、よくログインしてる」
「そ、それは……なんというか……」
言葉に詰まっていると、社長がふっと笑った。
「頑張ってるね。……俺、そういう人、好きだよ」
ドクン、と音がした気がした。
それは、心臓なのか、空気の振動なのか。
「……そ、そんな、まだ全然で……」
「言い訳はしないほうが、かっこいい」
そう言って、社長が少し身を乗り出す。
「『私なんか』って言葉、最近使ってないね。ちょっと安心した」
近い。近い。距離が反則。
「……覚えてたんですか?」
「君のこと、忘れたことなんてないよ」
その瞬間、時間が止まったような気がした。
昼休みのはずなのに、外の音が遠く感じる。
ただ、目の前の社長の表情と声だけが鮮明で──
「……そういう顔、反則です」
「ん? どういう意味?」
「……なんでもないですっ」
思わず目をそらすと、社長はいたずらっぽく笑った。
「でも、君がそうやって笑うのを見るのが、俺は一番嬉しい」
なにそれ。
ズルい。
ずるすぎる。
社長の言葉は、いつだって本気だから、
余計に胸の奥を揺らしてくる。
「そろそろ戻ろうか。……また、話せるといいね」
そう言って立ち上がった社長が、
ほんの一瞬だけ、私の頭に手を置いた。
ぽん、と。
優しくて、でもちゃんと重みのある感触。
それだけで、顔が熱くなる。
(……ほんとに、反則です)
背中を見送る間じゅう、
ずっと鼓動が早くて、しばらく席に戻れなかった。
この人が、私のことを見てくれてる。
それだけで、少しだけ、また頑張れそうな気がした。