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第8話

「俺は、君が好きだよ。ちゃんと」


社長は、迷いなくそう言った。


まっすぐな眼差しで、嘘なんてどこにもない声で。


だけど。


だけど、私はその言葉に、どうしても素直になれなかった。




「……私、そんなこと言われるような人間じゃないです」


その瞬間、空気が変わった気がした。


彼が、少しだけ視線を伏せた。


「……どうして、そんなふうに思うの?」


「だって、私……何も持ってないんです。

学歴も、肩書きも、自信も。あるのは『胸が大きい』ってだけで……」


そこまで言って、喉の奥が詰まった。


自分で口にしておいて、涙がにじむ。


「……君は、それだけで俺に選ばれたと思ってるの?」


「違うって、頭ではわかってます。でも……気持ちが、追いつかないんです」




社長は少しの間、黙っていた。


じっと、私のことを見つめる目が、あまりにも真剣すぎて、苦しくなる。


「君が何を抱えてるか、全部理解することはできない。

でも、俺はその不安ごと、君を好きになった」


「……」


「それじゃ、だめなの?」


私は、何も言えなかった。


社長の言葉がやさしいほど、胸に刺さる。


「だめじゃない。……でも、怖いんです」


「何が?」


「……こんなに優しくされると、いつか裏切られるんじゃないかって思ってしまうんです」




口に出した途端、恥ずかしさで息が詰まった。


でも、これが私のほんとうだった。


誰かに大切にされるたび、

私はいつも、次に来る失望を先に考えてしまう。


過去の恋も、友達も、夢も。

全部、最後は期待して、裏切られたという記憶だけが残った。


だから私は、選ばれることが怖かった。


「……君が俺を信じられないなら、俺はどうしたらいい?」


社長の声は低くて、どこか抑えているようだった。


「どうしたら、君は俺が本気だって信じてくれる?」


「わかりません……」


「じゃあ、何を待てばいい? 何をすれば、君の不安は消える?」


「……社長……」


「俺は君が欲しい。恋人として、ひとりの人として。

それでも信じられないって言うなら……」


彼は、一瞬だけ目を伏せて、

それから静かに言った。


「……今日はこれ以上、何も言わない」




その言葉が、いちばん怖かった。


怒らないでいてくれることが、つらかった。


優しくされることが、申し訳なかった。


私は、その場から逃げるように、頭を下げて去った。


泣きながら歩いた帰り道。

Velvetを開く手が震えていた。


《信じるのは、いつだって怖さと一緒にある。

でも、怖さの向こうにある安心を、君が知る日はきっと来る》


──わかってる。


でも、今の私はまだ、自分を信じられない。


それがいちばんの問題だってことも──

ちゃんと、気づいてるのに。


それでも。

この恋が終わってしまうことだけは、どうしても怖かった。



「……よし、今日はここから」


夜、部屋着のままノートパソコンを開いた私は、

ブラウザで開いた学習サイトのログイン画面をにらんでいた。


ITパスポート、基本情報技術者、営業支援ツールの基礎知識──

何度も途中で挫折したけど、今日はなぜか少しだけ前向きになれそうな気がしていた。


理由は、たぶん「社長と距離を置いてること」。


あの人の隣にいるには、

今のままの自分じゃ足りないんじゃないか──

そんな考えが、心のどこかに居座っていた。




「でも……」


ひとつの動画を再生して、私はメモ帳を開いた。


タイピングは遅い。用語も意味不明。

それでも、音声と文字を追いながら、必死に食らいつく。


「通信プロトコル」という言葉の意味を調べ、

「CRM」の活用事例をノートに書き写す。


部屋には静かなBGM。

ソファの上には、数日前まで開きっぱなしだった恋愛小説が放り出されている。


──今は、読み進められない。


だって、登場人物が幸せになるたびに、

どこかで自分には関係ないって思ってしまうから。




「……でも、もしも私が、正社員になれたら」


ぽつりと漏れたその言葉に、自分で少し驚いた。


(なに言ってるんだろ、私)


でも、本気だった。


社長の隣に並ぶために、じゃない。

自分の人生に胸を張れるようになるために。


今の私は、何かにつけて他人の評価を気にして、

「選ばれること」ばかり求めてきた。


でも──


「……私だって、自分の力で、選ぶ側になりたい」




ネットの掲示板を眺めていると、

未経験からIT営業に転職したという書き込みがあった。


「半年間、研修に通って、夜に派遣の仕事。

めちゃくちゃきつかったけど、人生で一番自分を信じた時期だった」


その文章に、不意に涙がにじんだ。


信じるって、こういうことなんだ。


誰かに与えてもらうものじゃなくて、

自分で「今の私でも、やれるかもしれない」と小さく信じることから始まる。




ふとスマホを見ると、Velvetの通知が一件だけ来ていた。


《今日はログインしないの?》


画面を開く気にはならなかった。

それよりも、今はもう少し、自分の頭で考えていたかった。




その夜、ノートに書いたのは短い言葉だった。


『自分に期待してみたい。』


それだけ。


でも、今の私には、それが何よりも強いスタートだった。


「……ねえ、あれ……」


営業フロアの入口近くで、先輩の野崎さんが私の肩を叩いた。


「社長じゃない? こっち来てる……!」


「えっ……?」


振り返る前に、社内の空気が一瞬、ピンと張りつめた。


革靴の足音。


重ねた書類を揺らさないほど無駄のない歩き方。


すれ違う社員が小さく頭を下げるたび、流れるように返される会釈。


──圧倒的な存在感。


社長は、相変わらず整いすぎていた。


整った栗色の髪、吸い込まれそうな茶色の瞳、すらりとした長身。


スーツすらモデルのように着こなすその姿は、ため息が出るほどだった。


「……望月さん」


名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


え、なんで私……?


「少し、話せる?」


「は、はい」


周囲の視線が一斉に集まるのを感じながら、

私は社長のあとを追って、隣の休憩スペースへ。



ガラス張りの窓際、春の陽射しに包まれたスペースに、

社長が軽く腰を下ろす。


私も緊張しながら対面に座ると、社長は静かに口を開いた。


「最近、よく勉強してるって聞いた。研修プログラムの履修記録、見たよ」


「……えっ」


まさか、見られていたなんて。


「サーバーのアクセス履歴に名前があってね。

夜中に、よくログインしてる」


「そ、それは……なんというか……」


言葉に詰まっていると、社長がふっと笑った。


「頑張ってるね。……俺、そういう人、好きだよ」


ドクン、と音がした気がした。


それは、心臓なのか、空気の振動なのか。


「……そ、そんな、まだ全然で……」


「言い訳はしないほうが、かっこいい」


そう言って、社長が少し身を乗り出す。


「『私なんか』って言葉、最近使ってないね。ちょっと安心した」


近い。近い。距離が反則。


「……覚えてたんですか?」


「君のこと、忘れたことなんてないよ」




その瞬間、時間が止まったような気がした。


昼休みのはずなのに、外の音が遠く感じる。

ただ、目の前の社長の表情と声だけが鮮明で──


「……そういう顔、反則です」


「ん? どういう意味?」


「……なんでもないですっ」


思わず目をそらすと、社長はいたずらっぽく笑った。


「でも、君がそうやって笑うのを見るのが、俺は一番嬉しい」



なにそれ。


ズルい。

ずるすぎる。


社長の言葉は、いつだって本気だから、

余計に胸の奥を揺らしてくる。



「そろそろ戻ろうか。……また、話せるといいね」


そう言って立ち上がった社長が、

ほんの一瞬だけ、私の頭に手を置いた。


ぽん、と。


優しくて、でもちゃんと重みのある感触。


それだけで、顔が熱くなる。


(……ほんとに、反則です)


背中を見送る間じゅう、

ずっと鼓動が早くて、しばらく席に戻れなかった。


この人が、私のことを見てくれてる。

それだけで、少しだけ、また頑張れそうな気がした。

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