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第9話

定時後、私は一人で社内カフェにいた。


水野さんのやさしさが、あたたかくて。

社長の視線が、まっすぐでこわいくらいで。


なのにどちらも、同じくらい胸に残っていた。


(……私、どうしたいんだろう)


「選ばれたい」って思ってたはずなのに。

今はむしろ、自分が「誰を見てるか」に戸惑ってる。


だから、ちゃんと考えたくて。

ノートを開いて、今の気持ちを書き出そうとした……そのとき。



「……ちょっと、いい?」


見上げると、社長がいた。


反射的に背筋が伸びる。


「あ、はい。おつかれさまです」


「……今、誰かと約束してた?」


「いえ、ひとりです」


「そっか。じゃあ、ついてきて」


「……え?」


有無を言わせぬトーンで、手招きされる。


慌ててノートをしまい、社長の後ろを追った。


連れてこられたのは、誰もいない会議室。


普段は役員会議でしか使われない静かな空間。

重厚な扉が、背後で音を立てて閉まる。


「……あの、社長?」


「これ……渡しそびれてた」


社長が差し出したのは、薄い封筒だった。


──中途採用推薦状。


「これ……私に?」


「うん。社内で『推したい』って声が上がってた。

俺は関わってない。でも、……見てた」


胸がじん、と熱くなる。


それだけで、もう十分すぎるのに──

社長は、まっすぐ私を見つめたまま言った。




「──陽菜」


名前で呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。


「君が誰に好かれてるかとか、どう見られてるかとか、そんなの関係ない」


「……社長……」


「俺は、君に選ばれたい。……ただ、それだけだ」




鼓動の音が、耳の奥で反響している。


息が、うまくできない。


そんな私に、社長がゆっくり一歩、距離を詰めた。


「……少しだけ、目を閉じて」


え、と思ったときには、もう遅かった。




社長の手が、そっと頬に触れる。


体温の高い指先が、私の顔を包み込む。


その瞬間、目の奥がふわっと霞んだ。


次の瞬間──唇に、やわらかい感触。




(……うそ)


──これが、キス?




優しくて、あたたかくて、深くて、

どこか泣きたくなるほど、やさしかった。


社長の香水のにおいと、かすかな紅茶の香り。

全部が近くて、全部が溶けていく。


「……っ」


キスが離れたあと、呼吸の仕方さえ忘れていた私は、思わず口元に手を当てた。


社長は、ほんのすこしだけ笑っていた。


「……驚いた?」


「……そ、そりゃ……」


「ごめん。……我慢できなかった」


そんなこと、さらっと言わないで。


心臓が壊れそうなんですけど。




「ほんとは、君が自信つくまで待とうと思ってた。

でも今日、陽菜が前を向こうとしてる姿を見てたら──

……たまらなく、君に触れたくなった」




言葉が、甘い。

温度が、熱い。

空気が、揺れてる。


社長が目を細めて、もう一歩近づいた。


「顔、真っ赤だよ」


「そ、それは……」


「……かわいい」


耳まで熱くなった。

視線をそらそうとしたら、顎をやさしく指で引かれる。


「もう一回、してもいい?」


「…………」


何も言えなかった。

ただ、瞬きも忘れてうなずいた。



今度のキスは、もっと深かった。


唇が触れて、離れなくて、

心まで吸い込まれてしまいそうだった。


──こんなにも、

キスって、すごいものなんだ。


甘くて、苦しくて、うれしくて。


ひとつのキスで、

こんなにも「この人が好きだ」って確信できるなんて。




唇が離れたとき、社長はそっと私の髪を撫でた。


「これで、もう逃がさないから」


「……はい……」


もう、どこにも行けない。


それどころか、私は今やっと、

「ここにいたい」って心から思えてる。


社長の隣が、こんなにもあたたかい場所だったなんて──

気づくのが、少しだけ遅かったかもしれない。


でも、きっとまだ間に合う。


初めてのキスはやさしくて、あまくて、

世界が止まるほど、ときめきに満ちていた。


*


それは夢の中みたいな時間だったのに。

唇が離れて、ほんの数日しか経っていないのに。


──社長は、あれから何も言ってこない。




朝、顔認証でゲートを通るときも。

エレベーターで偶然会っても。


社長は、まるで「何もなかった」かのように微笑んで、

何も話しかけてこなかった。


(……もしかして、あれは……気の迷い?)


キスをされたときの社長の瞳は、確かに本気だった。

鼓動を吸い込まれるような熱があった。


けれど、あの日以降、その熱はどこかに封印されてしまったみたいだった。




私から話しかけることなんて、できない。

たとえ好きだと胸の奥で思っていても、


ちゃんと関係が決まってない今の私は、ただの派遣社員にすぎないから。


(私、あの人のなんなんだろう……)


不安が、じわじわと日常にしみ込んでくる。




そんなある日。

プロジェクトの進行会議が終わった後、

社長が私を一瞬見た気がした。


でもすぐに目を逸らされて、私は意味もなく肩をすくめた。


(やっぱり……キスしたこと、なかったことになってる?)


頭では「忙しいから」「人前だから」ってわかってる。


でも、わかってるのに。

心が、置き去りにされていくような感覚が消えなかった。

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