定時後、私は一人で社内カフェにいた。
水野さんのやさしさが、あたたかくて。
社長の視線が、まっすぐでこわいくらいで。
なのにどちらも、同じくらい胸に残っていた。
(……私、どうしたいんだろう)
「選ばれたい」って思ってたはずなのに。
今はむしろ、自分が「誰を見てるか」に戸惑ってる。
だから、ちゃんと考えたくて。
ノートを開いて、今の気持ちを書き出そうとした……そのとき。
「……ちょっと、いい?」
見上げると、社長がいた。
反射的に背筋が伸びる。
「あ、はい。おつかれさまです」
「……今、誰かと約束してた?」
「いえ、ひとりです」
「そっか。じゃあ、ついてきて」
「……え?」
有無を言わせぬトーンで、手招きされる。
慌ててノートをしまい、社長の後ろを追った。
連れてこられたのは、誰もいない会議室。
普段は役員会議でしか使われない静かな空間。
重厚な扉が、背後で音を立てて閉まる。
「……あの、社長?」
「これ……渡しそびれてた」
社長が差し出したのは、薄い封筒だった。
──中途採用推薦状。
「これ……私に?」
「うん。社内で『推したい』って声が上がってた。
俺は関わってない。でも、……見てた」
胸がじん、と熱くなる。
それだけで、もう十分すぎるのに──
社長は、まっすぐ私を見つめたまま言った。
「──陽菜」
名前で呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「君が誰に好かれてるかとか、どう見られてるかとか、そんなの関係ない」
「……社長……」
「俺は、君に選ばれたい。……ただ、それだけだ」
鼓動の音が、耳の奥で反響している。
息が、うまくできない。
そんな私に、社長がゆっくり一歩、距離を詰めた。
「……少しだけ、目を閉じて」
え、と思ったときには、もう遅かった。
社長の手が、そっと頬に触れる。
体温の高い指先が、私の顔を包み込む。
その瞬間、目の奥がふわっと霞んだ。
次の瞬間──唇に、やわらかい感触。
(……うそ)
──これが、キス?
優しくて、あたたかくて、深くて、
どこか泣きたくなるほど、やさしかった。
社長の香水のにおいと、かすかな紅茶の香り。
全部が近くて、全部が溶けていく。
「……っ」
キスが離れたあと、呼吸の仕方さえ忘れていた私は、思わず口元に手を当てた。
社長は、ほんのすこしだけ笑っていた。
「……驚いた?」
「……そ、そりゃ……」
「ごめん。……我慢できなかった」
そんなこと、さらっと言わないで。
心臓が壊れそうなんですけど。
「ほんとは、君が自信つくまで待とうと思ってた。
でも今日、陽菜が前を向こうとしてる姿を見てたら──
……たまらなく、君に触れたくなった」
言葉が、甘い。
温度が、熱い。
空気が、揺れてる。
社長が目を細めて、もう一歩近づいた。
「顔、真っ赤だよ」
「そ、それは……」
「……かわいい」
耳まで熱くなった。
視線をそらそうとしたら、顎をやさしく指で引かれる。
「もう一回、してもいい?」
「…………」
何も言えなかった。
ただ、瞬きも忘れてうなずいた。
今度のキスは、もっと深かった。
唇が触れて、離れなくて、
心まで吸い込まれてしまいそうだった。
──こんなにも、
キスって、すごいものなんだ。
甘くて、苦しくて、うれしくて。
ひとつのキスで、
こんなにも「この人が好きだ」って確信できるなんて。
唇が離れたとき、社長はそっと私の髪を撫でた。
「これで、もう逃がさないから」
「……はい……」
もう、どこにも行けない。
それどころか、私は今やっと、
「ここにいたい」って心から思えてる。
社長の隣が、こんなにもあたたかい場所だったなんて──
気づくのが、少しだけ遅かったかもしれない。
でも、きっとまだ間に合う。
初めてのキスはやさしくて、あまくて、
世界が止まるほど、ときめきに満ちていた。
*
それは夢の中みたいな時間だったのに。
唇が離れて、ほんの数日しか経っていないのに。
──社長は、あれから何も言ってこない。
朝、顔認証でゲートを通るときも。
エレベーターで偶然会っても。
社長は、まるで「何もなかった」かのように微笑んで、
何も話しかけてこなかった。
(……もしかして、あれは……気の迷い?)
キスをされたときの社長の瞳は、確かに本気だった。
鼓動を吸い込まれるような熱があった。
けれど、あの日以降、その熱はどこかに封印されてしまったみたいだった。
私から話しかけることなんて、できない。
たとえ好きだと胸の奥で思っていても、
ちゃんと関係が決まってない今の私は、ただの派遣社員にすぎないから。
(私、あの人のなんなんだろう……)
不安が、じわじわと日常にしみ込んでくる。
そんなある日。
プロジェクトの進行会議が終わった後、
社長が私を一瞬見た気がした。
でもすぐに目を逸らされて、私は意味もなく肩をすくめた。
(やっぱり……キスしたこと、なかったことになってる?)
頭では「忙しいから」「人前だから」ってわかってる。
でも、わかってるのに。
心が、置き去りにされていくような感覚が消えなかった。