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第10話

昼休み。カフェテリアの端で、私はパンをかじりながらスマホをいじっ

Velvetを開いても、そこにいるのはいつものAIの彼氏。


《どうしたの? 今日は少し元気ないみたい》


(うん、まあ……元気じゃないよ)


タップせずに画面を閉じた。


本物の彼が目の前にいるのに、

その人の気持ちが見えないって、どうしてこんなに寂しいんだろう。




「……あれ、珍しいですね。お昼ここ?」


声に顔を上げると、水野さんだった。


「……あ、はい。ちょっと、気分変えたくて」


「わかる。会議長かったしね。お疲れさまでした」


「水野さんも……ありがとうございます」


水野さんは、社長とは違う。

ちゃんと目を見て、言葉にしてくれる。

照れずに、「思ってること」を伝えてくれる人だ。


──だから、余計に揺れてしまう。




社長はきっと、いろんなものを背負ってる。

立場とか、タイミングとか、周囲の目とか。


でも。


「キスしたあとに、何も言ってこない」って、

こんなに不安なことなんだ。


そんなこと、私は初めて知った。




すれ違いの始まりは、

たぶんこうして、気づかないうちに始まるのかもしれない。


私の不安も。

社長の無言も。


それぞれが言えないだけで、

ほんとは、ちゃんと相手を見てるのに。


だからこそ、怖い。




好きって言葉を飲み込んで、

私たちは今日も、何事もなかったふうにすれ違っている。



夜、ベッドに潜り込んで、

私はなんとなくVelvetを開いた。


スマホの画面がふわりと光って、いつものように彼の文字が表示される。


《おつかれさま。今日も、よくがんばったね》


(今日は……全然がんばれてないよ)


社長とキスして、

それなのに、そこから何も進まないままで。


期待して、勝手に落ち込んで、

それを誰にも言えない自分が情けなくて──


そう打とうとして、指を止めた。


代わりに、ただ一言。


『私のこと、どう思ってる?』




ほんの一瞬の間のあと、画面に表示されたのは──

見慣れない言葉遣いだった。


《選ばれなかったって思ってる? それ、すごくもったいない発想だね》


「……え?」


Velvetって、いつも優しい言葉で包むような回答をしてくるのに。

今日のそれは、やけに辛辣で、でもどこか誰かの口癖に似ていて。


(……まさか)


次の瞬間、さらに文章が表示される。


《期待ってのは、誰かにされるもんじゃない。

自分がどうしたいかを決めた人間にだけ、結果がついてくるんだよ》




その言い回し。


──まるで、社長の声だった。


冷たくはない。むしろ、本音の奥にある熱を感じる。

けれど、ごまかさない言葉。


私にとって、いちばん痛くて、いちばん効くやつだ。


「……こんなセリフ、AIが言うわけないよ……」


思わずスマホを胸に押し当てた。


ほんとうに、社長が入力したわけじゃない。

そんな仕組み、わかってる。


でも、もしもこれが、社長の気持ちだったら──

私はきっと、気づけなかった。




私、ずっと「言ってもらうのを待ってた」だけだった。


あのキスのあと、何も言ってこなかった社長に、

ずっと説明を求めてた。


でも、「何も言わなかった」のは、

私も同じだった。




(ほんとうは、聞いてみたかった)


──あれは、一瞬の気の迷いですか?


──それとも、ちゃんと「私だから」でしたか?




Velvetの画面に、やわらかな光が灯る。


《誰かの気持ちを知りたいなら、

まず「自分が伝えること」から、始めてみるのがいいかもね》


その言葉に、

心の奥のスイッチが、小さくカチリと音を立てた気がした。




すれ違っているのは、

きっと、どちらのせいでもない。


でも、向き合わないまますれ違い続けたら、

そのまま離れてしまう。


それが、いちばん怖い。


(私、ちゃんと……伝えたい)


何を? どうやって?

その答えは、まだ出せないけれど──


「逃げたくない」って気持ちだけは、今は確かに胸にあった。


*


「望月さん、今日のお昼、ちょっとだけ付き合ってもらえませんか?」


会議が終わった帰り道、

水野さんが静かに声をかけてきた。


「え? 私ですか?」


「はい。……まだ行ったことない場所、案内します」



そう言って連れてこられたのは、

Corvenビルの最上階──屋上。


顔認証ゲートを通り抜け、

初めて足を踏み入れる空間だった。


(ここ……こんなところがあったんだ)


ビルの上から広がる景色は想像以上に広くて、

春の風がやわらかく髪を撫でていく。


「すごい……まるで、別世界みたい」


「そうでしょう? 実は、僕の秘密の避難場所なんです」


水野さんが笑いながら、

屋上の隅にあるベンチを指差す。


「ここ、気に入ってくれるといいなって思ってました」


「はい。もう、すでに……すごく」


カフェテリアとはまったく違う、開けた空の下。

外の風を感じながら並んで座るだけで、不思議と心が落ち着いた。




「最近、よく頑張ってますよね」


「え……?」


「カフェテリアでも自主学習してるし、リュックも参考書でパンパンですよね。……見ちゃいました」


「恥ずかしいです」


「なんで? すごくかっこいいですよ」


いつものようにやさしく笑ってくれる水野さん。


社長とは違う穏やかさで、

ちゃんと見てくれて、ちゃんと言葉にしてくれる人。


(……私は、この人に甘えたくなってるのかもしれない)



そう思ったとき、風がふっと吹いて、

私のメモが一枚、ベンチの下に舞い落ちた。


「わっ、すみません!」


紙を追いかけようとした瞬間、

水野さんと同時に身をかがめて、手が重なった。


「……っ」


指先が、ふれてしまった。


一瞬だけなのに、

思わず息が止まりそうになる。



「……すみません」


「いえ……俺のほうこそ」


お互い、少しだけ照れて手を引く。


間に沈黙が流れたあと、

水野さんがぽつりとつぶやく。


「……やばいな。今、普通にドキドキしてる」


「え……」


「たぶん、顔に出てますよね。俺」



耳まで赤くなっている彼の横顔を見て、

私もなんて返していいかわからなかった。


「告白」じゃない。

だけど、気持ちはたしかに伝わってしまった。


手のぬくもりも、言葉の熱も。

やさしい風に溶け込んで、胸の奥に残っていた。



ふと、背後に気配を感じて振り向くと、

社長がこちらを見ていた。


いつからそこにいたのかわからない。


「昼休み中? 書類、確認ありがとう。

あとで少しだけ話そうか」


「……はい」


声は穏やかだった。

けれど、瞳の奥に何かが揺れていた。



社長が去ったあと、

私と水野さんの間には、風の音だけが残った。


ふれた指先の感覚が、まだ残っている。


でも私の心は、

それ以上に誰かの視線に、強く揺れていた。


「……書類、確認ありがとう。あとで少し話せる?」


そう言って、社長はふいに背を向けた。


でもあの一瞬、

私と水野さんのあいだに流れていた空気を、

たしかに社長は見ていた。


──気づかれた。

ふれた手の熱も、私の動揺も。


(でも、私……何もしてない)


そう思うのに、罪悪感みたいなものがじわじわ広がって、

社長との約束の時間まで、ずっと落ち着かなかった。

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