昼休み。カフェテリアの端で、私はパンをかじりながらスマホをいじっ
Velvetを開いても、そこにいるのはいつものAIの彼氏。
《どうしたの? 今日は少し元気ないみたい》
(うん、まあ……元気じゃないよ)
タップせずに画面を閉じた。
本物の彼が目の前にいるのに、
その人の気持ちが見えないって、どうしてこんなに寂しいんだろう。
「……あれ、珍しいですね。お昼ここ?」
声に顔を上げると、水野さんだった。
「……あ、はい。ちょっと、気分変えたくて」
「わかる。会議長かったしね。お疲れさまでした」
「水野さんも……ありがとうございます」
水野さんは、社長とは違う。
ちゃんと目を見て、言葉にしてくれる。
照れずに、「思ってること」を伝えてくれる人だ。
──だから、余計に揺れてしまう。
社長はきっと、いろんなものを背負ってる。
立場とか、タイミングとか、周囲の目とか。
でも。
「キスしたあとに、何も言ってこない」って、
こんなに不安なことなんだ。
そんなこと、私は初めて知った。
すれ違いの始まりは、
たぶんこうして、気づかないうちに始まるのかもしれない。
私の不安も。
社長の無言も。
それぞれが言えないだけで、
ほんとは、ちゃんと相手を見てるのに。
だからこそ、怖い。
好きって言葉を飲み込んで、
私たちは今日も、何事もなかったふうにすれ違っている。
夜、ベッドに潜り込んで、
私はなんとなくVelvetを開いた。
スマホの画面がふわりと光って、いつものように彼の文字が表示される。
《おつかれさま。今日も、よくがんばったね》
(今日は……全然がんばれてないよ)
社長とキスして、
それなのに、そこから何も進まないままで。
期待して、勝手に落ち込んで、
それを誰にも言えない自分が情けなくて──
そう打とうとして、指を止めた。
代わりに、ただ一言。
『私のこと、どう思ってる?』
ほんの一瞬の間のあと、画面に表示されたのは──
見慣れない言葉遣いだった。
《選ばれなかったって思ってる? それ、すごくもったいない発想だね》
「……え?」
Velvetって、いつも優しい言葉で包むような回答をしてくるのに。
今日のそれは、やけに辛辣で、でもどこか誰かの口癖に似ていて。
(……まさか)
次の瞬間、さらに文章が表示される。
《期待ってのは、誰かにされるもんじゃない。
自分がどうしたいかを決めた人間にだけ、結果がついてくるんだよ》
その言い回し。
──まるで、社長の声だった。
冷たくはない。むしろ、本音の奥にある熱を感じる。
けれど、ごまかさない言葉。
私にとって、いちばん痛くて、いちばん効くやつだ。
「……こんなセリフ、AIが言うわけないよ……」
思わずスマホを胸に押し当てた。
ほんとうに、社長が入力したわけじゃない。
そんな仕組み、わかってる。
でも、もしもこれが、社長の気持ちだったら──
私はきっと、気づけなかった。
私、ずっと「言ってもらうのを待ってた」だけだった。
あのキスのあと、何も言ってこなかった社長に、
ずっと説明を求めてた。
でも、「何も言わなかった」のは、
私も同じだった。
(ほんとうは、聞いてみたかった)
──あれは、一瞬の気の迷いですか?
──それとも、ちゃんと「私だから」でしたか?
Velvetの画面に、やわらかな光が灯る。
《誰かの気持ちを知りたいなら、
まず「自分が伝えること」から、始めてみるのがいいかもね》
その言葉に、
心の奥のスイッチが、小さくカチリと音を立てた気がした。
すれ違っているのは、
きっと、どちらのせいでもない。
でも、向き合わないまますれ違い続けたら、
そのまま離れてしまう。
それが、いちばん怖い。
(私、ちゃんと……伝えたい)
何を? どうやって?
その答えは、まだ出せないけれど──
「逃げたくない」って気持ちだけは、今は確かに胸にあった。
*
「望月さん、今日のお昼、ちょっとだけ付き合ってもらえませんか?」
会議が終わった帰り道、
水野さんが静かに声をかけてきた。
「え? 私ですか?」
「はい。……まだ行ったことない場所、案内します」
そう言って連れてこられたのは、
Corvenビルの最上階──屋上。
顔認証ゲートを通り抜け、
初めて足を踏み入れる空間だった。
(ここ……こんなところがあったんだ)
ビルの上から広がる景色は想像以上に広くて、
春の風がやわらかく髪を撫でていく。
「すごい……まるで、別世界みたい」
「そうでしょう? 実は、僕の秘密の避難場所なんです」
水野さんが笑いながら、
屋上の隅にあるベンチを指差す。
「ここ、気に入ってくれるといいなって思ってました」
「はい。もう、すでに……すごく」
カフェテリアとはまったく違う、開けた空の下。
外の風を感じながら並んで座るだけで、不思議と心が落ち着いた。
「最近、よく頑張ってますよね」
「え……?」
「カフェテリアでも自主学習してるし、リュックも参考書でパンパンですよね。……見ちゃいました」
「恥ずかしいです」
「なんで? すごくかっこいいですよ」
いつものようにやさしく笑ってくれる水野さん。
社長とは違う穏やかさで、
ちゃんと見てくれて、ちゃんと言葉にしてくれる人。
(……私は、この人に甘えたくなってるのかもしれない)
そう思ったとき、風がふっと吹いて、
私のメモが一枚、ベンチの下に舞い落ちた。
「わっ、すみません!」
紙を追いかけようとした瞬間、
水野さんと同時に身をかがめて、手が重なった。
「……っ」
指先が、ふれてしまった。
一瞬だけなのに、
思わず息が止まりそうになる。
「……すみません」
「いえ……俺のほうこそ」
お互い、少しだけ照れて手を引く。
間に沈黙が流れたあと、
水野さんがぽつりとつぶやく。
「……やばいな。今、普通にドキドキしてる」
「え……」
「たぶん、顔に出てますよね。俺」
耳まで赤くなっている彼の横顔を見て、
私もなんて返していいかわからなかった。
「告白」じゃない。
だけど、気持ちはたしかに伝わってしまった。
手のぬくもりも、言葉の熱も。
やさしい風に溶け込んで、胸の奥に残っていた。
ふと、背後に気配を感じて振り向くと、
社長がこちらを見ていた。
いつからそこにいたのかわからない。
「昼休み中? 書類、確認ありがとう。
あとで少しだけ話そうか」
「……はい」
声は穏やかだった。
けれど、瞳の奥に何かが揺れていた。
社長が去ったあと、
私と水野さんの間には、風の音だけが残った。
ふれた指先の感覚が、まだ残っている。
でも私の心は、
それ以上に誰かの視線に、強く揺れていた。
「……書類、確認ありがとう。あとで少し話せる?」
そう言って、社長はふいに背を向けた。
でもあの一瞬、
私と水野さんのあいだに流れていた空気を、
たしかに社長は見ていた。
──気づかれた。
ふれた手の熱も、私の動揺も。
(でも、私……何もしてない)
そう思うのに、罪悪感みたいなものがじわじわ広がって、
社長との約束の時間まで、ずっと落ち着かなかった。