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第11話

夕方、会議室。

窓際に立っていた社長が、こちらに背を向けたまま言った。


「……見たよ。昼間の屋上」


声は静かだった。

けれど、その中に感情がひりついているのがわかった。


「社長……」


「君は、誰かに触れられて、嬉しかった?」


「え……?」


振り返った社長の瞳が、焼けるほどに鋭かった。


「俺は……耐えてた」


「……え?」


「君の気持ちがまだ揺れてるってわかってたから、

急かさないようにしようって思ってた」


言葉の端が震えていた。

社長が怒っているのを、初めて見た。


「でも──誰かの手に触れられて、笑ってる君を見て、どうしても我慢できなかった」




その言葉のすぐあとだった。


強く腕を引かれたかと思った瞬間、背中が壁に打ちつけられる。


「……!」


驚きに声を上げる間もなく、唇が塞がれた。


熱い。荒々しい。衝動そのものだった。



それは、あの夜のやさしいキスとはまったく違っていた。


やさしさも、余韻もなかった。


ただ、激情だけがそこにあった。


上唇と下唇が強く押しつけられて、

まともに息すらできなかった。


「……っ、社長……」


小さな声でそう呼んでも、彼は聞こうとしなかった。


肩を抱く手が、ぐっと腰を引き寄せてくる。


逃げようとしたわけじゃない。


でも、身体が反射的に震えて、よじれて、息が詰まりそうになる。


それでも彼は、深く唇を重ねたまま、微動だにしなかった。


まるで──

すべてを押し込めるような、支配のキス。




「ん、っ……や、めて……っ」


ようやく声になった抗いに、

彼の唇が、ようやく離れた。


ふたりの呼吸が、重なって乱れていた。


わたしは壁に手をついて、

膝から力が抜けてしまいそうだった。




律は、目を伏せたまま、ひどく苦しそうに言った。


「……ごめん……こんな、つもりじゃなかった……」




言葉が出なかった。


何を言えばいいかわからなかった。


あんなに強く抱きしめられたのに、

わたしの心はどこか、ぽっかりと空白だった。




「君が……水野と並んでるのを見たら……」


彼は握った拳をゆるめて、額に手を当てた。


「頭が真っ白になって……気づいたら……」




──「好き」って、こうやってぶつけるものなんだっけ?


ただ、好きって言ってほしかった。


やさしく名前を呼んで、

「君が必要だ」って言ってくれるだけでよかった。



なのに。


今の私は、「好き」という言葉を聞かないまま──

腕の力と、熱と、息苦しさだけを受け取っていた。




「……ごめんなさい」


ようやく絞り出したその言葉に、

彼はわずかに顔を上げた。


でも、わたしはもう視線を合わせなかった。


その場から、逃げるように歩き出した。




彼の声は、追ってこなかった。


後ろから伸ばされる手も、なかった。




エレベーターの扉が閉まる寸前、

ちらりと振り返った彼の顔は──

やっぱり、何も言わなかった。




エレベーターの中、わたしは壁にもたれて立ち尽くす。


胸がドクドクとうるさくて、呼吸がうまくできなかった。


触れられた唇は、いまも熱いのに、

その記憶は、どこか冷たかった。




(あれは……「好き」のキスじゃない)


そう思った自分自身に、私はショックを受けていた。


彼のことが、こんなに好きだったのに。


こんなにずっと、彼の隣を望んでいたのに。


どうして今は、

こんなにも遠いと感じてしまうんだろう。




ただ、ただ、苦しかった。


やさしくない。言葉もない。

伝わらない想いばかりが重なって──

すれ違いばかりのこの関係に、胸が裂けそうだった。




(どうして……わたしたち、こんなふうになっちゃったんだろう)


初めてキスをしたあの夜みたいに、

ただ名前を呼んで、まっすぐな眼差しで、

お互いの弱さに寄り添ってくれたらよかった。


でも。


今日の彼は、あまりにも、遠かった。


そして、少しだけ──怖かった。




静かなエレベーターのなかで、

わたしは自分の震える手を、そっと握りしめた。


あのキスに込められていたのは、

彼の愛じゃなく、ただの独占欲だったのかもしれない。


そんなふうに思ってしまった自分を、

信じたくなかった。


でも。


わたしの中に残ったのは、

やさしさではなく、「こわさ」だった。


それが、何よりもつらかった。


*

「少し、距離を置こうと思うんです」


自分の口から出た言葉に、私がいちばん驚いていた。


隣のデスクで水野さんが、驚いたようにこちらを見る。


「……社長と、ですか?」


「……はい」


それ以上、説明はしなかった。

できなかった。


ただ、胸の中がまだざわざわしていて。

昨日のキスの感触が、まだ消えてくれなくて──




好きな人に、触れられて、怖いと思った。


そんなの、どう考えてもおかしいはずなのに。


でも、ほんとうにそうだった。

あの瞬間、私は「愛されてる」んじゃなくて、「責められてる」ような気がしてしまった。




あれ以来、社長には会っていない。


連絡も来ていない。だけど、それがむしろ救いだった。


会ってしまったら、また心がかき乱されて、ちゃんと自分の気持ちがわからなくなってしまうから。



(……何が、正しかったんだろう)


手帳の隅に書いた「IT営業試験の申込期限」のメモがにじむ。


前を向こうとしていたはずなのに。

誰かに「選ばれたかった」だけなのに。


気づいたら、私は選ばれることに傷ついていた。

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