夕方、会議室。
窓際に立っていた社長が、こちらに背を向けたまま言った。
「……見たよ。昼間の屋上」
声は静かだった。
けれど、その中に感情がひりついているのがわかった。
「社長……」
「君は、誰かに触れられて、嬉しかった?」
「え……?」
振り返った社長の瞳が、焼けるほどに鋭かった。
「俺は……耐えてた」
「……え?」
「君の気持ちがまだ揺れてるってわかってたから、
急かさないようにしようって思ってた」
言葉の端が震えていた。
社長が怒っているのを、初めて見た。
「でも──誰かの手に触れられて、笑ってる君を見て、どうしても我慢できなかった」
その言葉のすぐあとだった。
強く腕を引かれたかと思った瞬間、背中が壁に打ちつけられる。
「……!」
驚きに声を上げる間もなく、唇が塞がれた。
熱い。荒々しい。衝動そのものだった。
それは、あの夜のやさしいキスとはまったく違っていた。
やさしさも、余韻もなかった。
ただ、激情だけがそこにあった。
上唇と下唇が強く押しつけられて、
まともに息すらできなかった。
「……っ、社長……」
小さな声でそう呼んでも、彼は聞こうとしなかった。
肩を抱く手が、ぐっと腰を引き寄せてくる。
逃げようとしたわけじゃない。
でも、身体が反射的に震えて、よじれて、息が詰まりそうになる。
それでも彼は、深く唇を重ねたまま、微動だにしなかった。
まるで──
すべてを押し込めるような、支配のキス。
「ん、っ……や、めて……っ」
ようやく声になった抗いに、
彼の唇が、ようやく離れた。
ふたりの呼吸が、重なって乱れていた。
わたしは壁に手をついて、
膝から力が抜けてしまいそうだった。
律は、目を伏せたまま、ひどく苦しそうに言った。
「……ごめん……こんな、つもりじゃなかった……」
言葉が出なかった。
何を言えばいいかわからなかった。
あんなに強く抱きしめられたのに、
わたしの心はどこか、ぽっかりと空白だった。
「君が……水野と並んでるのを見たら……」
彼は握った拳をゆるめて、額に手を当てた。
「頭が真っ白になって……気づいたら……」
──「好き」って、こうやってぶつけるものなんだっけ?
ただ、好きって言ってほしかった。
やさしく名前を呼んで、
「君が必要だ」って言ってくれるだけでよかった。
なのに。
今の私は、「好き」という言葉を聞かないまま──
腕の力と、熱と、息苦しさだけを受け取っていた。
「……ごめんなさい」
ようやく絞り出したその言葉に、
彼はわずかに顔を上げた。
でも、わたしはもう視線を合わせなかった。
その場から、逃げるように歩き出した。
彼の声は、追ってこなかった。
後ろから伸ばされる手も、なかった。
エレベーターの扉が閉まる寸前、
ちらりと振り返った彼の顔は──
やっぱり、何も言わなかった。
エレベーターの中、わたしは壁にもたれて立ち尽くす。
胸がドクドクとうるさくて、呼吸がうまくできなかった。
触れられた唇は、いまも熱いのに、
その記憶は、どこか冷たかった。
(あれは……「好き」のキスじゃない)
そう思った自分自身に、私はショックを受けていた。
彼のことが、こんなに好きだったのに。
こんなにずっと、彼の隣を望んでいたのに。
どうして今は、
こんなにも遠いと感じてしまうんだろう。
ただ、ただ、苦しかった。
やさしくない。言葉もない。
伝わらない想いばかりが重なって──
すれ違いばかりのこの関係に、胸が裂けそうだった。
(どうして……わたしたち、こんなふうになっちゃったんだろう)
初めてキスをしたあの夜みたいに、
ただ名前を呼んで、まっすぐな眼差しで、
お互いの弱さに寄り添ってくれたらよかった。
でも。
今日の彼は、あまりにも、遠かった。
そして、少しだけ──怖かった。
静かなエレベーターのなかで、
わたしは自分の震える手を、そっと握りしめた。
あのキスに込められていたのは、
彼の愛じゃなく、ただの独占欲だったのかもしれない。
そんなふうに思ってしまった自分を、
信じたくなかった。
でも。
わたしの中に残ったのは、
やさしさではなく、「こわさ」だった。
それが、何よりもつらかった。
*
「少し、距離を置こうと思うんです」
自分の口から出た言葉に、私がいちばん驚いていた。
隣のデスクで水野さんが、驚いたようにこちらを見る。
「……社長と、ですか?」
「……はい」
それ以上、説明はしなかった。
できなかった。
ただ、胸の中がまだざわざわしていて。
昨日のキスの感触が、まだ消えてくれなくて──
好きな人に、触れられて、怖いと思った。
そんなの、どう考えてもおかしいはずなのに。
でも、ほんとうにそうだった。
あの瞬間、私は「愛されてる」んじゃなくて、「責められてる」ような気がしてしまった。
あれ以来、社長には会っていない。
連絡も来ていない。だけど、それがむしろ救いだった。
会ってしまったら、また心がかき乱されて、ちゃんと自分の気持ちがわからなくなってしまうから。
(……何が、正しかったんだろう)
手帳の隅に書いた「IT営業試験の申込期限」のメモがにじむ。
前を向こうとしていたはずなのに。
誰かに「選ばれたかった」だけなのに。
気づいたら、私は選ばれることに傷ついていた。