お昼休み。カフェテリアにいると、水野さんが飲み物を持って席に来た。
「……少し、元気ないですね」
「すみません……顔に出てました?」
「うん。わかりやすいから、望月さんは」
「……やっぱりダメですね、私」
「でも、そんな望月さんが『前に進もうとしてた』の、俺は見てましたよ」
やさしい言葉が、じんと沁みる。
だけど、それでも私は──
「……私は、誰かに甘えすぎてたのかもしれません」
「……うん」
水野さんは、何も責めずに、
ただうなずいてくれた。
それが、ありがたくて。
でも同時に、胸が締めつけられた。
(……社長は、いま、どんな気持ちなんだろう)
思い浮かべたくないのに、
あの人の顔が、何度も頭に浮かぶ。
昨日の強引なキス。
言葉にならなかった怒り。
そして、その奥にあった
「失いそうで怖い」みたいな目。
きっと、社長も傷ついていた。
私を信じたくて、
でも水野さんとの距離に嫉妬して、
気持ちをぶつける方法を、間違えてしまったんだ。
でも──
「……私、もう好きな人に怯えたくないんです」
それだけは、嘘じゃなかった。
その夜、私はVelvetを開かなかった。
AIの言葉も、あのやさしい疑似恋愛も、
今日は欲しくなかった。
誰かにやさしくされる前に、
私はもう一度、自分を立て直さなくちゃいけない。
好きな人のキスで、
涙が出そうになるなんて──
そんな恋、いらない。
ちゃんと向き合い合える関係じゃなきゃ、
私はまた、自分を嫌いになってしまう。
【葉山律 side 】
静まり返ったオフィスで、
ソファの背にもたれたまま、俺は天井を見上げていた。
昼間の会議の内容なんて、
一つも頭に入っていない。
あの日──
彼女を壁際に押しやって、
衝動のままに唇を奪ったあの瞬間から、
俺は何かを壊してしまった気がしてならなかった。
「……やってしまった」
ひとりごとのようにこぼしても、
返ってくる声はない。
だが、心のなかでは陽菜の目が何度も浮かんでは消える。
俺を見ていた彼女の瞳は、
──怯えていた。
好きな人に向ける表情じゃなかった。
あれは、明らかに「怖がる」顔だった。
自分が許せない。
あんなふうにしてしまった自分が。
ずっと、彼女の気持ちが揺れていることに気づいていた。
水野と話している姿を、何度も見かけた。
でも、それでも信じていたかった。
「最後は、俺を選んでくれる」って。
それが傲慢だった。
思いあがりだった。
──見せたくなかった。
彼女の手にふれて、顔を赤らめる水野の表情も。
その隣で、楽しそうに微笑んでいた陽菜の横顔も。
見なければよかったのに。
でも、見てしまった瞬間、
心のなかの何かがプツンと切れた。
俺のなかに眠っていた独占欲が、牙をむいた。
気づけば、彼女にキスをしていた。
強く。乱暴に。自分のものだと刻みつけるみたいに。
「……バカだな、俺は」
君を守るためにそばにいたのに。
なのに、守るどころか──君の心に傷をつけてしまった。
俺は、彼女にとって「優しい人」でいたかったはずなのに。
本気で好きになったからこそ、
彼女の唯一になりたかった。
でもそれは、
力でつなぎとめることじゃなかったんだ。
今日、彼女からの連絡はない。
Velvetのアクセスログも、昨日から止まっている。
彼女がアプリを開かないのは、
たぶん俺の声に似た「誰か」から距離を置きたいからだ。
──俺を、怖がってる。
それが、なにより辛い。
俺は、彼女を好きでいたい。
でも、それ以上に「彼女にとって好きでいられる自分」でありたい。
なら、どうすればいい?
答えは、もう決まっている。
「……時間を置こう。今は」
すぐに謝りに行くこともできる。
だけどそれは、また押しつけになるかもしれない。
だから俺は──
彼女がもう一度、俺の名前を呼びたくなるその日まで。
ただ、待つ。
どれだけ時間がかかっても。
君の気持ちが、また俺に向くまで。
「……君が、笑ってくれるなら」
それがどんなに遠回りでも、
それがいちばん、ちゃんとした愛し方だから。
*
「──それ、葉山の感情をベースにしてるらしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、
心臓がどくんと跳ねた。
昼休み、社内カフェの隅。
Velvetの開発チームがこぼした雑談が、偶然耳に入った。
「……感情?」
「うん。初期学習データに、葉山が個人的に書いた大量の『恋愛対話プロンプト』が使われてたって。
あの人、元カノから『思ったのと違う』って何度も言われたって話、知ってる?」
「……まさか、それがAIに?」
「そう。君がほしいって口調、あれ全部、葉山の感情的な会話ログがもとだって」
まるで心を見透かされたようだった。
──Velvetが、あのとき言ったこと。
《選ばれなかったって思ってる? それ、すごくもったいない発想だね》
《期待ってのは、誰かにされるもんじゃない。
自分がどうしたいかを決めた人間にだけ、結果がついてくるんだよ》
あのトーン。あの言葉選び。
どこかで「似てる」と思っていた。
けれど、本当に──社長そのものだったなんて。
Velvetを開いて、過去のやりとりを見返す。
まるで、彼自身が画面越しに語っていたような、
あの、熱を含んだ言葉たち。
そのひとつひとつが、
いま胸に突き刺さってくる。
「……わたし、全然わかってなかったんだ」
あれほど近くにいたのに。
あれほど気持ちをぶつけてくれたのに。
私は、何度も逃げて、疑って、
そして──あの人を傷つけた。
でも今なら、
ちゃんと、向き合える気がする。
言葉で、態度で、ぶつかってきたあの人の不器用さを、
もう一度、見つめ直せる気がする。
(──伝えたい。あの人に)
心が、ようやく前に向いた。
そう思えたときだった。
「望月さん」
水野さんが、穏やかな声で私を呼んだ。
「顔色……少しよくなった?」
「え……?」
「最近、ずっと苦しそうだったから。
でも今は、何かを決めた顔をしてる」
わかってくれる。
この人は、何も言わなくても私の変化に気づいてくれる。
私は、静かにうなずいた。
「……はい。やっと、ひとつ整理がついた気がします」
「それは、よかった」
それだけ言って、水野さんはコーヒーをひとくち飲んだ。
「……言いたいことがあったんですけど。
やめておきます」
「……え?」
「それは、望月さんが『誰を選ぶか』をちゃんと決めたときに聞きます」
やさしい笑みだった。
そのまなざしに、思わず胸がじんと熱くなる。
「ありがとう、水野さん」
「俺は、そばにいるだけです。……最後まで」
その最後がどんな意味かは、
きっとお互いわかっていた。
──でもその夜、私は思いもよらぬ通知を受け取る。
【派遣契約終了のご案内】──
目の前が、真っ白になった。
画面に表示されたのは、派遣会社からの通知。
短く、淡々とした文面で、「今月末をもって契約終了」と書かれていた。
一瞬、目を疑った。
でも何度見返しても、そこにある言葉は変わらない。
(……どうして、今)
社長と向き合おうと決めたばかりだった。
やっと逃げずに伝えようって思えたのに。
それなのに──
「……やっぱり、私は必要ない人間なんだ」
ぽつりと漏れたその言葉が、空気の中に溶けていく。
頭では「タイミングの問題」、「業務の調整」ってわかってる。
でも、どうしても──心が納得できなかった。
「私は、いらなかった」
そう言われたような気がしてしまう。
「選ぼう」と思っていた自分が、その前に選ばれなかった。
そう思うと、胸の奥がじわじわと冷えていった。
《──あのときと同じだ》
大学3年の就活。第一志望も、第二志望も落ちて、唯一通ったのは第五志望の企業。
それも、面接ではうまく答えられず、志望動機を聞かれたとき、声が震えてしまったのを今も覚えている。
高校のときから、そうだった。
試験に失敗して、推薦も逃して、大学はなんとか受かった、「滑り止め」の志望校だった。
入学後も、ついていくのが精一杯で、
就職活動でも、「本番に弱いね」と言われた言葉が、何よりつらかった。
何度も、「また失敗した」と思った。
「どうせ、私なんか」
その言葉だけを繰り返していた、あの春。
結局、正社員の内定は一つももらえず、
IT研修プログラムに応募して、やっとつかんだ「派遣社員」という立場。
あのとき決めたはずだった。
「これが最後の失敗だ」って。
……なのに。
今、また同じ場所に立っている気がする。
帰り道、スーツの裾が風に揺れる。
足元を見つめながら、重い空気をまとったまま歩いた。
Velvetを開く気にもなれない。
誰かに励まされたいとも思えない。
──だって、誰に励まされたところで、現実は何も変わらない。
私の席は、もうすぐ消える。
あのカフェスペースも、
毎朝すれ違ったエレベーターも、
仕事終わりにメールを整理していたあのパソコンも。
全部、「正社員じゃないから」という理由で、静かに消えていくんだ。
(そうだよね。……私は、最初からそこに属せない人間だった)
どんなに頑張っても、どんなに努力しても。
「派遣」という肩書きの前では、
私は仮の存在にすぎなかった。
「……バカだな、私」
なんで、あんなに真剣に考えてたんだろう。
「彼の隣に立ちたい」なんて。
「ちゃんと伝えたい」なんて。
ひとりの部屋に帰って、スカートを脱いで、床にぺたんと座り込む。
カバンの中から、くしゃっとなったメモ帳がこぼれ落ちた。
《正社員試験、あと2週間》
記していた日付を見て、涙がにじんだ。
(私なんかが、正社員になんて)
(私なんかが、誰かに愛されるなんて)
気づけば、また昔の自分に引き戻されていた。
強くなったと思っていたのに。
少しは前を向けたと思っていたのに。
ちょっとした風に吹かれて、こんなにも簡単に崩れてしまうなんて。
Velvetのアイコンが、スマホ画面の隅で光っている。
でも、今の私は──その声を聞けるほど、強くなかった。
(もう、私の場所なんて、どこにもない)
小さく、そうつぶやいて、布団にもぐった。
でも、目を閉じた先で浮かぶのは、あの人の瞳だった。
あの日、優しく笑ってくれた社長の顔。
そのあとに見せた、痛むような眼差し。
──どうしてだろう。
いまも、思い出すのは、あの人の姿ばかり。
だから余計に、辛くなる。
「選ばれなかった」って思いたくないのに。
「あの人が何もしてくれなかった」って責めたくないのに。
もう、どうしていいかわからなかった。