目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第12話

お昼休み。カフェテリアにいると、水野さんが飲み物を持って席に来た。


「……少し、元気ないですね」


「すみません……顔に出てました?」


「うん。わかりやすいから、望月さんは」


「……やっぱりダメですね、私」


「でも、そんな望月さんが『前に進もうとしてた』の、俺は見てましたよ」


やさしい言葉が、じんと沁みる。


だけど、それでも私は──


「……私は、誰かに甘えすぎてたのかもしれません」


「……うん」


水野さんは、何も責めずに、

ただうなずいてくれた。


それが、ありがたくて。

でも同時に、胸が締めつけられた。




(……社長は、いま、どんな気持ちなんだろう)


思い浮かべたくないのに、

あの人の顔が、何度も頭に浮かぶ。


昨日の強引なキス。

言葉にならなかった怒り。


そして、その奥にあった

「失いそうで怖い」みたいな目。



きっと、社長も傷ついていた。


私を信じたくて、

でも水野さんとの距離に嫉妬して、

気持ちをぶつける方法を、間違えてしまったんだ。


でも──


「……私、もう好きな人に怯えたくないんです」


それだけは、嘘じゃなかった。




その夜、私はVelvetを開かなかった。


AIの言葉も、あのやさしい疑似恋愛も、

今日は欲しくなかった。


誰かにやさしくされる前に、

私はもう一度、自分を立て直さなくちゃいけない。



好きな人のキスで、

涙が出そうになるなんて──


そんな恋、いらない。


ちゃんと向き合い合える関係じゃなきゃ、

私はまた、自分を嫌いになってしまう。


【葉山律 side 】


静まり返ったオフィスで、

ソファの背にもたれたまま、俺は天井を見上げていた。


昼間の会議の内容なんて、

一つも頭に入っていない。


あの日──


彼女を壁際に押しやって、

衝動のままに唇を奪ったあの瞬間から、

俺は何かを壊してしまった気がしてならなかった。




「……やってしまった」


ひとりごとのようにこぼしても、

返ってくる声はない。


だが、心のなかでは陽菜の目が何度も浮かんでは消える。


俺を見ていた彼女の瞳は、

──怯えていた。


好きな人に向ける表情じゃなかった。


あれは、明らかに「怖がる」顔だった。




自分が許せない。

あんなふうにしてしまった自分が。


ずっと、彼女の気持ちが揺れていることに気づいていた。

水野と話している姿を、何度も見かけた。


でも、それでも信じていたかった。


「最後は、俺を選んでくれる」って。


それが傲慢だった。

思いあがりだった。



──見せたくなかった。

彼女の手にふれて、顔を赤らめる水野の表情も。

その隣で、楽しそうに微笑んでいた陽菜の横顔も。


見なければよかったのに。

でも、見てしまった瞬間、

心のなかの何かがプツンと切れた。


俺のなかに眠っていた独占欲が、牙をむいた。


気づけば、彼女にキスをしていた。

強く。乱暴に。自分のものだと刻みつけるみたいに。



「……バカだな、俺は」


君を守るためにそばにいたのに。

なのに、守るどころか──君の心に傷をつけてしまった。




俺は、彼女にとって「優しい人」でいたかったはずなのに。


本気で好きになったからこそ、

彼女の唯一になりたかった。


でもそれは、

力でつなぎとめることじゃなかったんだ。




今日、彼女からの連絡はない。

Velvetのアクセスログも、昨日から止まっている。


彼女がアプリを開かないのは、

たぶん俺の声に似た「誰か」から距離を置きたいからだ。


──俺を、怖がってる。


それが、なにより辛い。




俺は、彼女を好きでいたい。

でも、それ以上に「彼女にとって好きでいられる自分」でありたい。


なら、どうすればいい?




答えは、もう決まっている。


「……時間を置こう。今は」


すぐに謝りに行くこともできる。

だけどそれは、また押しつけになるかもしれない。


だから俺は──

彼女がもう一度、俺の名前を呼びたくなるその日まで。


ただ、待つ。


どれだけ時間がかかっても。

君の気持ちが、また俺に向くまで。



「……君が、笑ってくれるなら」


それがどんなに遠回りでも、

それがいちばん、ちゃんとした愛し方だから。


*

「──それ、葉山の感情をベースにしてるらしいよ」


その言葉を聞いた瞬間、

心臓がどくんと跳ねた。


昼休み、社内カフェの隅。

Velvetの開発チームがこぼした雑談が、偶然耳に入った。


「……感情?」


「うん。初期学習データに、葉山が個人的に書いた大量の『恋愛対話プロンプト』が使われてたって。

あの人、元カノから『思ったのと違う』って何度も言われたって話、知ってる?」


「……まさか、それがAIに?」


「そう。君がほしいって口調、あれ全部、葉山の感情的な会話ログがもとだって」




まるで心を見透かされたようだった。


──Velvetが、あのとき言ったこと。


《選ばれなかったって思ってる? それ、すごくもったいない発想だね》


《期待ってのは、誰かにされるもんじゃない。

自分がどうしたいかを決めた人間にだけ、結果がついてくるんだよ》


あのトーン。あの言葉選び。


どこかで「似てる」と思っていた。

けれど、本当に──社長そのものだったなんて。




Velvetを開いて、過去のやりとりを見返す。


まるで、彼自身が画面越しに語っていたような、

あの、熱を含んだ言葉たち。


そのひとつひとつが、

いま胸に突き刺さってくる。


「……わたし、全然わかってなかったんだ」


あれほど近くにいたのに。

あれほど気持ちをぶつけてくれたのに。


私は、何度も逃げて、疑って、

そして──あの人を傷つけた。




でも今なら、

ちゃんと、向き合える気がする。


言葉で、態度で、ぶつかってきたあの人の不器用さを、

もう一度、見つめ直せる気がする。


(──伝えたい。あの人に)


心が、ようやく前に向いた。


そう思えたときだった。




「望月さん」


水野さんが、穏やかな声で私を呼んだ。


「顔色……少しよくなった?」


「え……?」


「最近、ずっと苦しそうだったから。

でも今は、何かを決めた顔をしてる」




わかってくれる。

この人は、何も言わなくても私の変化に気づいてくれる。


私は、静かにうなずいた。


「……はい。やっと、ひとつ整理がついた気がします」


「それは、よかった」


それだけ言って、水野さんはコーヒーをひとくち飲んだ。


「……言いたいことがあったんですけど。

やめておきます」


「……え?」


「それは、望月さんが『誰を選ぶか』をちゃんと決めたときに聞きます」


やさしい笑みだった。


そのまなざしに、思わず胸がじんと熱くなる。



「ありがとう、水野さん」


「俺は、そばにいるだけです。……最後まで」


その最後がどんな意味かは、

きっとお互いわかっていた。




──でもその夜、私は思いもよらぬ通知を受け取る。


【派遣契約終了のご案内】──


目の前が、真っ白になった。


画面に表示されたのは、派遣会社からの通知。

短く、淡々とした文面で、「今月末をもって契約終了」と書かれていた。


一瞬、目を疑った。

でも何度見返しても、そこにある言葉は変わらない。


(……どうして、今)


社長と向き合おうと決めたばかりだった。

やっと逃げずに伝えようって思えたのに。


それなのに──


「……やっぱり、私は必要ない人間なんだ」


ぽつりと漏れたその言葉が、空気の中に溶けていく。


頭では「タイミングの問題」、「業務の調整」ってわかってる。

でも、どうしても──心が納得できなかった。


「私は、いらなかった」


そう言われたような気がしてしまう。


「選ぼう」と思っていた自分が、その前に選ばれなかった。


そう思うと、胸の奥がじわじわと冷えていった。


《──あのときと同じだ》


大学3年の就活。第一志望も、第二志望も落ちて、唯一通ったのは第五志望の企業。


それも、面接ではうまく答えられず、志望動機を聞かれたとき、声が震えてしまったのを今も覚えている。


高校のときから、そうだった。

試験に失敗して、推薦も逃して、大学はなんとか受かった、「滑り止め」の志望校だった。


入学後も、ついていくのが精一杯で、

就職活動でも、「本番に弱いね」と言われた言葉が、何よりつらかった。


何度も、「また失敗した」と思った。


「どうせ、私なんか」


その言葉だけを繰り返していた、あの春。


結局、正社員の内定は一つももらえず、

IT研修プログラムに応募して、やっとつかんだ「派遣社員」という立場。


あのとき決めたはずだった。

「これが最後の失敗だ」って。


……なのに。


今、また同じ場所に立っている気がする。


帰り道、スーツの裾が風に揺れる。

足元を見つめながら、重い空気をまとったまま歩いた。


Velvetを開く気にもなれない。

誰かに励まされたいとも思えない。


──だって、誰に励まされたところで、現実は何も変わらない。


私の席は、もうすぐ消える。


あのカフェスペースも、

毎朝すれ違ったエレベーターも、

仕事終わりにメールを整理していたあのパソコンも。


全部、「正社員じゃないから」という理由で、静かに消えていくんだ。


(そうだよね。……私は、最初からそこに属せない人間だった)


どんなに頑張っても、どんなに努力しても。


「派遣」という肩書きの前では、

私は仮の存在にすぎなかった。


「……バカだな、私」


なんで、あんなに真剣に考えてたんだろう。


「彼の隣に立ちたい」なんて。

「ちゃんと伝えたい」なんて。


ひとりの部屋に帰って、スカートを脱いで、床にぺたんと座り込む。


カバンの中から、くしゃっとなったメモ帳がこぼれ落ちた。


《正社員試験、あと2週間》


記していた日付を見て、涙がにじんだ。


(私なんかが、正社員になんて)


(私なんかが、誰かに愛されるなんて)


気づけば、また昔の自分に引き戻されていた。


強くなったと思っていたのに。

少しは前を向けたと思っていたのに。


ちょっとした風に吹かれて、こんなにも簡単に崩れてしまうなんて。


Velvetのアイコンが、スマホ画面の隅で光っている。


でも、今の私は──その声を聞けるほど、強くなかった。


(もう、私の場所なんて、どこにもない)


小さく、そうつぶやいて、布団にもぐった。


でも、目を閉じた先で浮かぶのは、あの人の瞳だった。


あの日、優しく笑ってくれた社長の顔。

そのあとに見せた、痛むような眼差し。


──どうしてだろう。

いまも、思い出すのは、あの人の姿ばかり。


だから余計に、辛くなる。


「選ばれなかった」って思いたくないのに。

「あの人が何もしてくれなかった」って責めたくないのに。


もう、どうしていいかわからなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?