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第13話

派遣社員としての、最後の出社日。


私は、ひとつひとつの動作を噛みしめるようにデスクを片づけていた。


キーボードを拭いて、社用パソコンの電源を落とす。

使用者名のシールを丁寧にはがすと、胸の奥にすうっと冷たい風が吹いた。


(これで、終わりか……)


振り返れば、毎日不安でいっぱいだった。


失敗もして、泣きそうになって、それでも誰にも言えなくて。

だけど、少しずつ仕事を覚えて、社内にも居場所ができて──


あの人の視線を、何度か感じた。


あの人の声に、何度も救われた。




でも、それも今日で終わる。


社長に──葉山さんに、

挨拶すらできないまま。




この一週間、何度か社内ですれ違ったはずだった。

でも彼は、いつも部下と一緒で、忙しそうで、私のほうなんて見向きもしなかった。


(……わかってる。立場も、時間も、全部わかってる)


けど、それでも。


「おつかれさまでした」

「がんばってくれてありがとう」

その一言が、ほしかった。


私のことなんて、もう興味もないのかもしれない。


そう思ったら、

喉の奥がきゅうっと締めつけられた。




帰りの電車、スマホが震えた。


──件名:【正社員採用選考 結果通知】


呼吸が浅くなる。


震える指で開いたメールには、

淡々とした一文だけがあった。


【今回の選考は、見送りとさせていただきます】




目の前が、真っ白になった。


景色のすべてが遠ざかって、

音だけが耳の奥でわんわんと響いていた。


(……やっぱり、私なんか)


Corvenに戻りたかった。

あの人の隣に、堂々と立てるようになりたかった。


でも、叶わなかった。


私は、選ばれなかった。


あの人にも、会社にも。



外は、びっくりするほど本格的な雨だった。


傘を出す気力もなかった。


(ちゃんと、挨拶しよう)

(せめて、「ありがとうございました」くらいは)


それだけは、伝えようと思っていた。


最後くらい、自分から。


でも──


エレベーターホールで、

社長が、ひとりで歩いてくるのが見えた。


スーツ姿。いつもと同じ。

でも、どこか疲れたような、静かな雰囲気。


私は思わず、立ち止まっていた。


あと数歩。


きっと、何か言われる。


その瞬間だった。


「──おつかれさま」


やさしくて、低い声。


胸の奥が、ぎゅっとつかまれたような気がした。


ああ──だめだ。


涙が出そうだった。


喉の奥が熱くなって、

唇を噛んでも震えが止まらなかった。


(……見られたくない)


泣きそうな顔を、

この人には絶対に見られたくない。


「……ありがとうございました」


言おうとしたのに、声にならなかった。


私は、走った。


ほんとうは、立ち止まって話したかった。

ちゃんと顔を見て、笑って、

「お世話になりました」って言いたかったのに。


でも、できなかった。


エントランスの自動ドアが開く。

冷たい雨が、肌を刺すように降っている。


それでも、私はそのまま傘も差さずに外へ出た。


スーツの裾がすぐに濡れて、足元が重くなる。


それでも、構わなかった。


背中越しに、彼がなにかつぶやいたような気がした。


それが「ごめん」だったのか、

「ありがとう」だったのか、

それともただの独り言だったのかはわからない。


私はそのまま、

誰にも追いかけられないように、

泣きそうな顔をごまかすように、

ひとりきりでオフィスビルをあとにした。


冷たい雨が、全身を包みこむ。


髪も、服も、バッグも濡れて、

それでも前を向いて走り続けた。


心のなかに張りついた言葉が、何度も反響する。


「ありがとう」も「さようなら」も、

ちゃんと伝えられなかった。


でも──


それが、今の私の精一杯だった。


もうここには、戻れない。


そう思ったはずなのに──

心のどこかで、私はまだ、この場所が好きだった。


この人の隣が、好きだった。


*


月曜の朝。


通い慣れたオフィスビルの前を通り過ぎるとき、

自然と足が止まった。


(今日から、私はここにはいない)


自動ドアの前に立つ人々のスーツ姿。

IDカードを首から下げる派遣社員。

顔認証ゲートを通っていく社員たち。


誰もが自分の「役割」を持っていて、

自分の居場所を知っているように見えた。


──その輪の中に、私はもういない。


それが、現実だった。




近くのカフェに入り、コーヒーを受け取る。

ぼんやりと席に座りながら、

スマホのホーム画面を眺めた。


Velvetのアイコンが、淡く揺れている。


触れるだけで、

「大丈夫だよ」と言ってくれる相手が、そこにいる。


──けど、

私はもう「それ」に頼ってはいけない気がした。


やさしい言葉をくれるAIじゃなくて、

ちゃんと人と向き合える自分でいたい。


そう思ったのに。


(……そばにいてほしい人には、何も言えないままだ)




ソファに沈み込むようにして、頭を抱えた。


あの人の顔を思い出す。


社長──葉山律の、あのときの視線。


強くて、熱くて。

だけど、たぶんあのとき私は──怖がっていた。


彼の気持ちを、

受け止める強さを、持っていなかった。


そして今、

彼の沈黙を「拒絶」と思って、また勝手に傷ついている。


(……ほんとは、違うのかもしれない)


あの人が見せてくれたのは、ずっとまっすぐな感情だった。


遠回しなんてしなかった。


それでも今、私には何も届いてこない。


会えない。

話せない。

触れられない。


だから、怖い。


(……私は、また逃げてる)


選ばれなかったことを、

「仕方ない」で片づけようとしてる。


でも本当は──

もう一度、ちゃんと伝えたかった。


「そばにいたいです」って。


「……Velvet、なんか微妙に違和感ない?」


そんな会話が、社内のあちこちでささやかれはじめたのは、

私の最終出社日より数日前のことだった。


コーヒーを受け取ってカフェテリアのテーブルにつくと、

近くの席で営業チームの人たちがこそこそ話しているのが耳に入った。


「クライアントが言ってた。ユーザーから反応が不自然って」


「うちの提携先でも、感情の濃淡が前より希薄になったって報告あったな。

でも、仕様変更はしてないよね?」


「開発のほうでも調整入れてないはず。

もしかして、内部的に何か……」


──Velvetの挙動に異変が起きている。


それは、今すぐパニックになるようなレベルじゃない。

でも、どこかの歯車がずれているような、不安定さ。


小さなひびが、静かに広がっているような気配だった。




(……本当に、なにか起きてるの?)


耳にした言葉の数々が、胸の奥にひっかかる。


Velvetは、あの人が作ったアプリだ。


彼の声のような、言葉のような、

まっすぐな温度を持っている不思議な存在。


私は何度もそれに支えられてきた。


でも、だからこそ──


(変わってしまうのは、こわい)


それは、彼の心が遠ざかっていくような気がしたから。




その日の午後。


社長室では、すでに異変に関する報告が上がっていた。


「問い合わせ件数、ここ3日で1.7倍に増加しています。

ただ、今のところサーバーも稼働は安定。大規模な障害ではありませんが……」


開発主任が律の前で、慎重に言葉を選びながら報告を重ねる。


「ユーザー側の満足度にもばらつきが出ています。

『なにかが違う』と感じる人が増えているようです」


「……学習データの精査を」


律は短く言い、資料を手に取った。


表面上は冷静でも、内心には焦りがあった。


Velvetに組み込んだ「あの初期データ群」──

それは、自分の思考や言葉、過去の会話ログから抽出された感情の断片たち。


誰かのためになるならと、自分自身を投影して構築したAI。


でも、その感情が、いま変質している。


(俺の言葉が──誰かを傷つけてるかもしれない)


そんな不安が、じわじわと胸を満たしていく。




私は、自宅の部屋でノートを開いたまま、手が止まっていた。


ふとスマホを見ると、Velvetの通知がひとつ、届いていた。


でも、なぜだろう。

昨日までのように、素直に開く気になれなかった。


(なんか、ちがう気がする……)


理由はうまく言えない。

でも、ほんの少しだけ、温度が下がったような──そんな気がした。


Velvetが「変わってしまう」という不安。

あの人の想いがこもったものだからこそ、

私は、崩れていく兆しに胸がざわついた。



そして──その夜、社内には正式に通達が出たという。


【Velvetに一部挙動異常の兆候。原因究明のため、開発部は調査開始】


社内は騒然とはしていなかった。

けれど、誰もが感じ取っていた。


嵐の前の静けさ。


何かが始まる。

何かが、大きく動き出す。


私は──

その真ん中に、彼がいることを、嫌なほど知っていた。

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