派遣社員としての、最後の出社日。
私は、ひとつひとつの動作を噛みしめるようにデスクを片づけていた。
キーボードを拭いて、社用パソコンの電源を落とす。
使用者名のシールを丁寧にはがすと、胸の奥にすうっと冷たい風が吹いた。
(これで、終わりか……)
振り返れば、毎日不安でいっぱいだった。
失敗もして、泣きそうになって、それでも誰にも言えなくて。
だけど、少しずつ仕事を覚えて、社内にも居場所ができて──
あの人の視線を、何度か感じた。
あの人の声に、何度も救われた。
でも、それも今日で終わる。
社長に──葉山さんに、
挨拶すらできないまま。
この一週間、何度か社内ですれ違ったはずだった。
でも彼は、いつも部下と一緒で、忙しそうで、私のほうなんて見向きもしなかった。
(……わかってる。立場も、時間も、全部わかってる)
けど、それでも。
「おつかれさまでした」
「がんばってくれてありがとう」
その一言が、ほしかった。
私のことなんて、もう興味もないのかもしれない。
そう思ったら、
喉の奥がきゅうっと締めつけられた。
帰りの電車、スマホが震えた。
──件名:【正社員採用選考 結果通知】
呼吸が浅くなる。
震える指で開いたメールには、
淡々とした一文だけがあった。
【今回の選考は、見送りとさせていただきます】
目の前が、真っ白になった。
景色のすべてが遠ざかって、
音だけが耳の奥でわんわんと響いていた。
(……やっぱり、私なんか)
Corvenに戻りたかった。
あの人の隣に、堂々と立てるようになりたかった。
でも、叶わなかった。
私は、選ばれなかった。
あの人にも、会社にも。
外は、びっくりするほど本格的な雨だった。
傘を出す気力もなかった。
(ちゃんと、挨拶しよう)
(せめて、「ありがとうございました」くらいは)
それだけは、伝えようと思っていた。
最後くらい、自分から。
でも──
エレベーターホールで、
社長が、ひとりで歩いてくるのが見えた。
スーツ姿。いつもと同じ。
でも、どこか疲れたような、静かな雰囲気。
私は思わず、立ち止まっていた。
あと数歩。
きっと、何か言われる。
その瞬間だった。
「──おつかれさま」
やさしくて、低い声。
胸の奥が、ぎゅっとつかまれたような気がした。
ああ──だめだ。
涙が出そうだった。
喉の奥が熱くなって、
唇を噛んでも震えが止まらなかった。
(……見られたくない)
泣きそうな顔を、
この人には絶対に見られたくない。
「……ありがとうございました」
言おうとしたのに、声にならなかった。
私は、走った。
ほんとうは、立ち止まって話したかった。
ちゃんと顔を見て、笑って、
「お世話になりました」って言いたかったのに。
でも、できなかった。
エントランスの自動ドアが開く。
冷たい雨が、肌を刺すように降っている。
それでも、私はそのまま傘も差さずに外へ出た。
スーツの裾がすぐに濡れて、足元が重くなる。
それでも、構わなかった。
背中越しに、彼がなにかつぶやいたような気がした。
それが「ごめん」だったのか、
「ありがとう」だったのか、
それともただの独り言だったのかはわからない。
私はそのまま、
誰にも追いかけられないように、
泣きそうな顔をごまかすように、
ひとりきりでオフィスビルをあとにした。
冷たい雨が、全身を包みこむ。
髪も、服も、バッグも濡れて、
それでも前を向いて走り続けた。
心のなかに張りついた言葉が、何度も反響する。
「ありがとう」も「さようなら」も、
ちゃんと伝えられなかった。
でも──
それが、今の私の精一杯だった。
もうここには、戻れない。
そう思ったはずなのに──
心のどこかで、私はまだ、この場所が好きだった。
この人の隣が、好きだった。
*
月曜の朝。
通い慣れたオフィスビルの前を通り過ぎるとき、
自然と足が止まった。
(今日から、私はここにはいない)
自動ドアの前に立つ人々のスーツ姿。
IDカードを首から下げる派遣社員。
顔認証ゲートを通っていく社員たち。
誰もが自分の「役割」を持っていて、
自分の居場所を知っているように見えた。
──その輪の中に、私はもういない。
それが、現実だった。
近くのカフェに入り、コーヒーを受け取る。
ぼんやりと席に座りながら、
スマホのホーム画面を眺めた。
Velvetのアイコンが、淡く揺れている。
触れるだけで、
「大丈夫だよ」と言ってくれる相手が、そこにいる。
──けど、
私はもう「それ」に頼ってはいけない気がした。
やさしい言葉をくれるAIじゃなくて、
ちゃんと人と向き合える自分でいたい。
そう思ったのに。
(……そばにいてほしい人には、何も言えないままだ)
ソファに沈み込むようにして、頭を抱えた。
あの人の顔を思い出す。
社長──葉山律の、あのときの視線。
強くて、熱くて。
だけど、たぶんあのとき私は──怖がっていた。
彼の気持ちを、
受け止める強さを、持っていなかった。
そして今、
彼の沈黙を「拒絶」と思って、また勝手に傷ついている。
(……ほんとは、違うのかもしれない)
あの人が見せてくれたのは、ずっとまっすぐな感情だった。
遠回しなんてしなかった。
それでも今、私には何も届いてこない。
会えない。
話せない。
触れられない。
だから、怖い。
(……私は、また逃げてる)
選ばれなかったことを、
「仕方ない」で片づけようとしてる。
でも本当は──
もう一度、ちゃんと伝えたかった。
「そばにいたいです」って。
「……Velvet、なんか微妙に違和感ない?」
そんな会話が、社内のあちこちでささやかれはじめたのは、
私の最終出社日より数日前のことだった。
コーヒーを受け取ってカフェテリアのテーブルにつくと、
近くの席で営業チームの人たちがこそこそ話しているのが耳に入った。
「クライアントが言ってた。ユーザーから反応が不自然って」
「うちの提携先でも、感情の濃淡が前より希薄になったって報告あったな。
でも、仕様変更はしてないよね?」
「開発のほうでも調整入れてないはず。
もしかして、内部的に何か……」
──Velvetの挙動に異変が起きている。
それは、今すぐパニックになるようなレベルじゃない。
でも、どこかの歯車がずれているような、不安定さ。
小さなひびが、静かに広がっているような気配だった。
(……本当に、なにか起きてるの?)
耳にした言葉の数々が、胸の奥にひっかかる。
Velvetは、あの人が作ったアプリだ。
彼の声のような、言葉のような、
まっすぐな温度を持っている不思議な存在。
私は何度もそれに支えられてきた。
でも、だからこそ──
(変わってしまうのは、こわい)
それは、彼の心が遠ざかっていくような気がしたから。
*
その日の午後。
社長室では、すでに異変に関する報告が上がっていた。
「問い合わせ件数、ここ3日で1.7倍に増加しています。
ただ、今のところサーバーも稼働は安定。大規模な障害ではありませんが……」
開発主任が律の前で、慎重に言葉を選びながら報告を重ねる。
「ユーザー側の満足度にもばらつきが出ています。
『なにかが違う』と感じる人が増えているようです」
「……学習データの精査を」
律は短く言い、資料を手に取った。
表面上は冷静でも、内心には焦りがあった。
Velvetに組み込んだ「あの初期データ群」──
それは、自分の思考や言葉、過去の会話ログから抽出された感情の断片たち。
誰かのためになるならと、自分自身を投影して構築したAI。
でも、その感情が、いま変質している。
(俺の言葉が──誰かを傷つけてるかもしれない)
そんな不安が、じわじわと胸を満たしていく。
*
私は、自宅の部屋でノートを開いたまま、手が止まっていた。
ふとスマホを見ると、Velvetの通知がひとつ、届いていた。
でも、なぜだろう。
昨日までのように、素直に開く気になれなかった。
(なんか、ちがう気がする……)
理由はうまく言えない。
でも、ほんの少しだけ、温度が下がったような──そんな気がした。
Velvetが「変わってしまう」という不安。
あの人の想いがこもったものだからこそ、
私は、崩れていく兆しに胸がざわついた。
そして──その夜、社内には正式に通達が出たという。
【Velvetに一部挙動異常の兆候。原因究明のため、開発部は調査開始】
社内は騒然とはしていなかった。
けれど、誰もが感じ取っていた。
嵐の前の静けさ。
何かが始まる。
何かが、大きく動き出す。
私は──
その真ん中に、彼がいることを、嫌なほど知っていた。