その日、本屋に足が向いたのは、
なんとなく気が紛れればいいと思ったからだった。
勉強のやる気が出ない。
資格試験に向けた参考書も、数ページで止まったまま。
部屋にいると、あのビルのことを思い出す。
あの人の声を、ふと思い出してしまう。
(──忘れたくないけど、思い出すのはまだ痛い)
そんな気持ちを持て余して、
私は静かな書店の棚の前で立ち尽くしていた。
「……こんにちは」
その声が聞こえたとき、思わず肩がびくっと動いた。
顔を上げると、そこにいたのは──水野さんだった。
ジャケットの上から斜めがけのカバン。
手には、私が見ていたのと同じIT資格の参考書。
「……え?」
声が出なかった。
けれど、水野さんは驚いた様子もなく、
少しだけ目を細めて、やさしく笑った。
「また、勉強を始めようとしてるんですね」
「……あ、はい。まぁ……その、ちょっとずつ」
自分の声がひどく情けなくて、
棚の陰に隠れるように視線を逸らした。
でも水野さんは、責めるようなことは言わなかった。
「このへんの分野、独学だと難しいですよね。
もしよかったら、このあと少しだけ時間ありますか? カフェで」
「……え?」
「僕も買いにきたところだったんです。
近くに、静かで落ち着ける店があるので」
その申し出に、うなずいてしまったのは、
たぶん「誰かと一緒にいたい」と、心のどこかで思っていたから。
「この人なら、少しだけ寄りかかっても大丈夫かも」と思ってしまったから。
カフェは、本屋のすぐそば。
ガラス張りの壁から柔らかい光が差し込んでいて、
本を広げるにはちょうどいい静けさがあった。
「ここの概念、ややこしいですけど──
あえて例えるなら、電車の乗り換えみたいなものなんです」
水野さんは、私の持っていた参考書の一文を読みながら、
丁寧に図を描いてくれた。
その説明が、妙にすとんと胸に落ちて、
私は思わず「すごい」と声を漏らした。
「わかりやすいです、ほんとに」
「よかったです。
望月さんの努力が報われるように、陰ながら応援してますから」
「陰ながら応援してます」。
その言葉が、胸にじんと沁みた。
社長に言われたかった言葉を、
別の誰かに言われた瞬間、
心が少し揺れたのがわかった。
──でも、それは罪じゃないと思った。
どんなかたちでも、
前を向かせてくれる人がいることは、
きっと、悪いことじゃない。
そして──帰り道。
スマホの通知が、何件も届いていた。
【Velvet、応答タイミングに異常報告】
【開発元Corven、システム調整の可能性を示唆】
【公式発表は本日午後】
(……やっぱり)
私の胸の奥で、
何かがざわめいた。
Velvetは、彼の“想い”のようなものだった。
それが今、
崩れかけている。
私が支えてもらった、あの言葉たち。
私だけに届いたように感じていた、やさしさ。
それが、今──
誰にも届かなくなりつつある。
(……あの人、どんな顔してるんだろう)
その夜。
ニュース番組のワイド特集に映った、彼の姿。
フラッシュを浴びながら、
まっすぐ報道陣の前に立ち、頭を下げていた。
「──現在、原因を究明中です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
誠実で、言い訳のひとつもしないその声に、
胸がぎゅっと締めつけられた。
(……わたし、そばにいたい)
ようやく、はっきりと思った。
あの人の肩に、少しでも自分の力を添えられるなら。
ただ、支えになれるなら。
──今度こそ、逃げたくない。
*
テレビの画面越しに見たあの人は、
いつもの社長より、ずっと痩せて見えた。
白い照明が、輪郭をくっきり照らしていて。
彼の背中が、ほんの少しだけ小さく見えたのは──
きっと、私の気のせいじゃない。
「──今回の挙動異常については、すべての責任は私にあります」
そう言い切った彼の言葉は、まっすぐだった。
何も取り繕わない。
言い訳もしない。
責任のすべてを引き受ける姿に、
私は胸をつかまれたような気がした。
(……あの人、ひとりで背負ってる)
Velvetに何があったのか、私には正確にはわからない。
でも、あれはあの人が心を込めて作ったものだ。
私が、何度も救われたアプリ。
あの人が、誰かのためにと願って生み出したやさしい言葉たち。
それが今、
彼を苦しめている。
画面の中の彼は、
少しだけ目を伏せて、短く頭を下げた。
ほんとうは──
その手を、誰かが握っていてほしかった。
「ひとりに、させたくなかった」
ぽつりと、そんな言葉が口からこぼれたとき、
胸の奥から、すうっとひと筋の熱が上がってきた。
(もう一度……戻りたい)
今度こそ、ただ近くにいるだけじゃなくて、
隣に立てる自分でありたい。
派遣じゃなくて。
一時的な存在じゃなくて。
ちゃんと、同じ場所に立つ人間として。
一緒に笑って、
同じ景色を見ていたい。
私は机の引き出しから、
前に印刷していた正社員中途採用試験の募集要項を引っ張り出した。
紙は少しくしゃくしゃになっていたけど、
そこに並ぶ文字は、まだ私にとって挑戦の扉だった。
(もう一度、受けてみよう)
落ちたからって、
それが向いてない証明にはならない。
不合格だったあの通知に、
今度は「選ばれる私」として、返事を出してやる。
Velvetをそっと開く。
《君が、君のことを信じられるようになるまで、
僕はずっとここにいるよ》
まるで、見透かされていたみたいに。
そんなメッセージが画面に浮かんでいた。
「……ありがと」
つぶやいた自分の声が、少しだけ震えていた。
でも、不思議と涙は出なかった。
代わりに、心のどこかに灯ったあたたかな炎だけが、
私をまっすぐ支えてくれていた。
(わたし、今度は逃げない)
そう決めた夜。
スマホをそっと伏せて、
私は応募フォームに名前を打ち込んだ。
まっすぐ、ていねいに。
誤字がないか、何度も確認して。
──あの人の隣に、もう一度立つために。
今度こそ、自分の手でつかみにいく。