その朝、スマホの画面には
通知がひとつだけ点灯していた。
【Corven採用試験結果のご案内】
心臓が、どくんと跳ねた。
指先が震えて、タップするのに時間がかかった。
深呼吸ひとつ。
画面を開いた瞬間、文字が目に飛び込んでくる。
【採用通知】
望月陽菜様
このたびの正社員中途採用選考の結果、貴殿を採用することを決定いたしました──
目の前が、一瞬、にじんだ。
思わず口元を覆った。
声を出すと、泣いてしまいそうだったから。
(……戻れるんだ)
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
「認められた」よりも、「また、あの場所に行ける」。
それが、何よりうれしかった。
すぐにでも誰かに報告したかったけれど、
思い浮かぶ相手はひとりしかいなかった。
(……社長に、伝えたい)
でも、その願いは心の中にそっとしまった。
今はまだ、何も言えない。
でも──もうすぐ、言葉で伝えられる。
あの人の隣に、また立てる日が来る。
*
Corvenのビルに足を踏み入れたとき、
胸の奥で小さく震えるものがあった。
顔認証ゲートを通る。
以前は、首から下げたIDカードをかざしていた私。
今は──顔を向けるだけで、ドアが開く。
(……正社員になったんだ)
その実感が、ほんの一瞬、うれしくて、くすぐったかった。
でも、それもすぐに消えた。
エントランスを抜けた先、
フロアには張りつめた空気が流れていた。
「……Velvetの追加ログ、再チェックお願いします」
「エラー件数、また上がってきてます」
「感情分岐の精度、どんどん落ちてる」
開発部、営業部、カスタマー……
どこもかしこも、息をするように言葉が飛び交っている。
まるで、社内全体が同じ嵐の中にいた。
Velvetの障害は、すでに兆しではなく、
明らかなシステム不全として、現場を揺らしていた。
私は配属先のチームに挨拶をすませ、
指示された端末の前に座った。
初日から実務に追われるような忙しさだったけれど、
それがありがたかった。
仕事に集中していないと、胸の奥で波立つ感情が、
顔に出てしまいそうだったから。
「葉山社長、会議室に入りました」
その報せに、社員たちの視線が一瞬だけ上がった。
私も、そっとその方向を見た。
ガラス越しに見えた後ろ姿は、変わっていなかった。
でも──
ほんの少しだけ、肩が落ちて見えた。
記者会見のときと同じ。
言葉ではなく、沈黙で責任を背負おうとする背中。
(……やっぱり、私が見てきた社長は、強くて、でもひとりだった)
仕事の合間、社内の端にある小さな休憩スペースで、
私は深呼吸をひとつついた。
そのとき、Velvetから通知がひとつ届いた。
《大丈夫、君はちゃんとここに戻ってきた》
──まるで、迎えてくれたみたいに。
私は画面に向かって、目を細めた。
「……私も、支える番だよ」
かつて、私はあの人の言葉に救われた。
今度は、私の言葉で、あの人の“孤独”を少しでも癒やせたら──
そんなふうに思ってしまうのは、
ただの恋なんかじゃない。
あの人がくれた、まっすぐな想いへの、答え。
それが、今の私の原動力だった。
そのとき──
「望月さん?」
落ち着いた声に振り向くと、そこには水野さんが立っていた。
空調の静かな音だけが響く廊下の先で、
彼は変わらぬスーツ姿で、まっすぐこちらを見ていた。
「初日、お疲れさまです」
「……水野さん。お久しぶりです」
目が合った瞬間、自然と胸がふわっと緩んだ。
「正社員、おめでとうございます。
ほんとうに……よかった」
その言葉は、どこまでも誠実で、どこまでも優しかった。
淡々とした口調なのに、
そこに込められた真心が、じんと胸に染みる。
「……ありがとうございます。
私、ここに戻れてよかったです」
そう答えた自分の声に、嘘はひとつもなかった。
水野さんは、わたしが逃げずに歩いてきた道を知っている。
誰にも気づかれないような努力を、
そっと見ていてくれた人。
「きっと、また忙しくなりますね」
「……はい。でも、今回は負けません」
「うん。その目、変わってないですね」
彼の口元がふっとほころんだ。
気づけば、こんなふうに自然に笑い合える距離になっていた。
そして──
「また、困ったことがあったら声をかけてください。
今度は同じチームとして、支えたいので」
「……はいっ」
自然と笑みがこぼれた。
水野さんの言葉は、
まるで春の風のように、心にやさしく吹き抜けていった。
*
「──望月さん。少し、話してもいいですか?」
水野さんの声は、
やっぱりいつもと同じ、やさしい響きをしていた。
ちょうど昼休みの終わり、
誰もいない社内カフェの一角。
「お疲れさまです。今日も忙しそうですね」
「いえ。久しぶりに、落ち着いた気がします。
ここに戻れて、なんだか……呼吸が深くなりました」
そんなふうに言うと、
水野さんはふっと目を細めた。
「……ほんとうに、戻ってきてくれて、うれしいです」
「え?」
「実は、派遣終了のときも。試験に落ちたあとも……全部、知ってました」
私は驚いて、水野さんの顔を見た。
「直接言葉をかけたら、きっと傷つけてしまうと思って。
でも、ずっと応援してました。……誰よりも」
まっすぐな視線だった。
その視線から目をそらせなくて、
私は胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていた。
「……好きなんです。望月さんのことが」
その言葉は、
とても静かで、でも確かに熱を持っていた。
「ずっと前から。最初に仕事で話したときから、ずっと。
でも、僕よりも先に、あなたの心を動かす人がいることも、わかってました」
「……水野さん……」
「それでも。もう、黙っていられないと思って」
私は言葉を失った。
水野さんは、私が落ち込んでいたときも、
気づかないところで何度も支えてくれていた。
優しくて、まっすぐで、
でもそれだけじゃなく、ちゃんと覚悟を持って伝えてくれたことがわかった。
「ありがとう、ございます。
そんなふうに、言ってもらえるなんて……」
私は、どうしても笑いたくて、
少しだけ口角を上げた。
「でも……ごめんなさい。その気持ちには、応えられません。それでも、水野さんに、いつも救われています」
「……そう言ってくれて、ありがとうございます」
水野さんは立ち上がり、そっと私の手を取った。
その瞬間──
「……」
カフェの入口。
社長が、ただ黙って立っていた。
会話の内容は聞こえていなかったかもしれない。
でも、水野さんに手を取られている私の姿は、
あの人の視界に、確かに映っていた。
「──あ、社長……」
思わず名を呼ぶと、彼はふっと目をそらし、
何も言わず、そのまま背を向けて歩き出していった。
足早に、まるでなにかから逃げるように。
「……あ……」
その背中を見て、胸の奥にズキンと痛みが走る。
何も悪いことはしていない。
でも、どうしてこんなにも苦しいんだろう。
なにも言われていないのに、
「誤解された」と、強くわかってしまった。
(水野さんのこと、ちゃんと話したほうがよかったのかな……)
あの人は、ずっと沈黙を守ってきた。
でも、私は。
やっと向き合おうとしていたのに──
また遠ざけてしまったのかもしれない。