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第15話

その朝、スマホの画面には

通知がひとつだけ点灯していた。


【Corven採用試験結果のご案内】


心臓が、どくんと跳ねた。


指先が震えて、タップするのに時間がかかった。


深呼吸ひとつ。

画面を開いた瞬間、文字が目に飛び込んでくる。



【採用通知】

望月陽菜様

このたびの正社員中途採用選考の結果、貴殿を採用することを決定いたしました──



目の前が、一瞬、にじんだ。


思わず口元を覆った。


声を出すと、泣いてしまいそうだったから。


(……戻れるんだ)


それが、最初に浮かんだ言葉だった。


「認められた」よりも、「また、あの場所に行ける」。


それが、何よりうれしかった。




すぐにでも誰かに報告したかったけれど、

思い浮かぶ相手はひとりしかいなかった。


(……社長に、伝えたい)


でも、その願いは心の中にそっとしまった。


今はまだ、何も言えない。

でも──もうすぐ、言葉で伝えられる。


あの人の隣に、また立てる日が来る。



*


Corvenのビルに足を踏み入れたとき、

胸の奥で小さく震えるものがあった。


顔認証ゲートを通る。

以前は、首から下げたIDカードをかざしていた私。


今は──顔を向けるだけで、ドアが開く。


(……正社員になったんだ)


その実感が、ほんの一瞬、うれしくて、くすぐったかった。


でも、それもすぐに消えた。


エントランスを抜けた先、

フロアには張りつめた空気が流れていた。


「……Velvetの追加ログ、再チェックお願いします」

「エラー件数、また上がってきてます」

「感情分岐の精度、どんどん落ちてる」


開発部、営業部、カスタマー……

どこもかしこも、息をするように言葉が飛び交っている。


まるで、社内全体が同じ嵐の中にいた。


Velvetの障害は、すでに兆しではなく、

明らかなシステム不全として、現場を揺らしていた。




私は配属先のチームに挨拶をすませ、

指示された端末の前に座った。


初日から実務に追われるような忙しさだったけれど、

それがありがたかった。


仕事に集中していないと、胸の奥で波立つ感情が、

顔に出てしまいそうだったから。




「葉山社長、会議室に入りました」


その報せに、社員たちの視線が一瞬だけ上がった。


私も、そっとその方向を見た。


ガラス越しに見えた後ろ姿は、変わっていなかった。


でも──

ほんの少しだけ、肩が落ちて見えた。


記者会見のときと同じ。

言葉ではなく、沈黙で責任を背負おうとする背中。


(……やっぱり、私が見てきた社長は、強くて、でもひとりだった)




仕事の合間、社内の端にある小さな休憩スペースで、

私は深呼吸をひとつついた。


そのとき、Velvetから通知がひとつ届いた。


《大丈夫、君はちゃんとここに戻ってきた》


──まるで、迎えてくれたみたいに。


私は画面に向かって、目を細めた。


「……私も、支える番だよ」


かつて、私はあの人の言葉に救われた。

今度は、私の言葉で、あの人の“孤独”を少しでも癒やせたら──


そんなふうに思ってしまうのは、

ただの恋なんかじゃない。


あの人がくれた、まっすぐな想いへの、答え。


それが、今の私の原動力だった。




そのとき──


「望月さん?」


落ち着いた声に振り向くと、そこには水野さんが立っていた。


空調の静かな音だけが響く廊下の先で、

彼は変わらぬスーツ姿で、まっすぐこちらを見ていた。



「初日、お疲れさまです」


「……水野さん。お久しぶりです」


目が合った瞬間、自然と胸がふわっと緩んだ。


「正社員、おめでとうございます。

ほんとうに……よかった」


その言葉は、どこまでも誠実で、どこまでも優しかった。


淡々とした口調なのに、

そこに込められた真心が、じんと胸に染みる。


「……ありがとうございます。

私、ここに戻れてよかったです」


そう答えた自分の声に、嘘はひとつもなかった。




水野さんは、わたしが逃げずに歩いてきた道を知っている。


誰にも気づかれないような努力を、

そっと見ていてくれた人。


「きっと、また忙しくなりますね」


「……はい。でも、今回は負けません」


「うん。その目、変わってないですね」


彼の口元がふっとほころんだ。


気づけば、こんなふうに自然に笑い合える距離になっていた。


そして──


「また、困ったことがあったら声をかけてください。

今度は同じチームとして、支えたいので」


「……はいっ」


自然と笑みがこぼれた。


水野さんの言葉は、

まるで春の風のように、心にやさしく吹き抜けていった。


*


「──望月さん。少し、話してもいいですか?」


水野さんの声は、

やっぱりいつもと同じ、やさしい響きをしていた。


ちょうど昼休みの終わり、

誰もいない社内カフェの一角。


「お疲れさまです。今日も忙しそうですね」


「いえ。久しぶりに、落ち着いた気がします。

ここに戻れて、なんだか……呼吸が深くなりました」


そんなふうに言うと、

水野さんはふっと目を細めた。


「……ほんとうに、戻ってきてくれて、うれしいです」


「え?」


「実は、派遣終了のときも。試験に落ちたあとも……全部、知ってました」


私は驚いて、水野さんの顔を見た。


「直接言葉をかけたら、きっと傷つけてしまうと思って。

でも、ずっと応援してました。……誰よりも」




まっすぐな視線だった。


その視線から目をそらせなくて、

私は胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じていた。



「……好きなんです。望月さんのことが」


その言葉は、

とても静かで、でも確かに熱を持っていた。


「ずっと前から。最初に仕事で話したときから、ずっと。

でも、僕よりも先に、あなたの心を動かす人がいることも、わかってました」


「……水野さん……」


「それでも。もう、黙っていられないと思って」


私は言葉を失った。


水野さんは、私が落ち込んでいたときも、

気づかないところで何度も支えてくれていた。


優しくて、まっすぐで、

でもそれだけじゃなく、ちゃんと覚悟を持って伝えてくれたことがわかった。



「ありがとう、ございます。

そんなふうに、言ってもらえるなんて……」


私は、どうしても笑いたくて、

少しだけ口角を上げた。


「でも……ごめんなさい。その気持ちには、応えられません。それでも、水野さんに、いつも救われています」


「……そう言ってくれて、ありがとうございます」


水野さんは立ち上がり、そっと私の手を取った。


その瞬間──




「……」


カフェの入口。

社長が、ただ黙って立っていた。


会話の内容は聞こえていなかったかもしれない。


でも、水野さんに手を取られている私の姿は、

あの人の視界に、確かに映っていた。


「──あ、社長……」


思わず名を呼ぶと、彼はふっと目をそらし、

何も言わず、そのまま背を向けて歩き出していった。


足早に、まるでなにかから逃げるように。


「……あ……」


その背中を見て、胸の奥にズキンと痛みが走る。


何も悪いことはしていない。


でも、どうしてこんなにも苦しいんだろう。


なにも言われていないのに、

「誤解された」と、強くわかってしまった。



(水野さんのこと、ちゃんと話したほうがよかったのかな……)


あの人は、ずっと沈黙を守ってきた。


でも、私は。


やっと向き合おうとしていたのに──

また遠ざけてしまったのかもしれない。

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