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第16話


週明けの朝、社内は騒然としていた。


Velvetの障害は、週末を越えてもなお続いていて、

全国からの問い合わせ数はうなぎのぼり。


「このままじゃ、ユーザー離脱が加速します」

「一次対応のマニュアル、もう一段階アップデートを」

「カスタマーから返答が冷たすぎるってフィードバックが続いてます!」


早口で飛び交う言葉たち。


その隙間に、自分の呼吸の音が紛れ込んでいく。


(……戻ってきたんだ)


再スタートして、もう一週間が経つ。

でも、まだ居場所と呼べるほどにはなっていない。


けれど、それでも──

「ここにいたい」と思う気持ちは、本物だった。




社長の姿を見かけることはあっても、

彼と直接話す機会は、あれ以来なかった。


例のカフェで、水野さんと向き合っていたあの日。


社長が無言で背を向けていったあの瞬間が、

今も胸に引っかかっている。


(きっと、誤解されたままなんだ)


何もやましいことはしていない。

けれど、たぶん彼は傷ついた。


──私が、誰かに手を取られている姿を、

目の前で見せてしまったから。




(話せるなら、ちゃんと伝えたいのに)


何も隠したくない。

今はもう、逃げたくなんてない。


それでも、彼は私を避けているように見えた。


エレベーターで鉢合わせても、目が合う前に振り返られる。

廊下ですれ違っても、別の話題を口にする誰かの影に消える。


優しいけど、触れさせてはくれない。

そんな壁のようなものが、目に見えないところに立っている気がした。




「望月さん、これお願いします」


上司から回された報告資料の作成。


内容を確認して、指先を動かす。

その中に、Velvetのログ関連資料があった。


日別ログ数の推移、障害発生と時間帯の相関性──

そして、そのグラフの一部が、妙に波打っていた。


「……この日って……」


私が社長と会わなくなった、あの日。


ログの言語感情値が、がくんと下がっていた。


あの人の想いを元に作られたAIが、まるで、

誰かの「心の揺れ」に呼応しているように。


(Velvetは、社長の心を映してる)


あの日から──社長は、どこか変わった。


口数が減って、

言葉の奥にある温度も、少しずつ変わってしまった気がする。




「社長のこと、ずっと見てるのに」


どうして、近づこうとすると、遠ざかっていくんだろう。


どうして、あの人のまなざしが、私を避けるんだろう。


胸がぎゅっと苦しくなる。




──でも。


「私は、支えるって決めたんだから」


再びこの場所に戻ってきた意味は、

きっと彼の隣に立つためだった。


派遣のときとは違う。


今の私は、ここで働く理由も、想いも、全部持っている。


だから、逃げない。


たとえすれ違っても、

この想いまで、見失わないように。


*


「望月さん、今日の昼、少しだけいいですか?」


水野さんにそう声をかけられたのは、

午前中の業務がひと段落したタイミングだった。


「はい、大丈夫です」


自然と答えていた。


あの日の告白以来も水野さんは変わらず、

私に対して一定の距離を保ちながら接してくれていた。


その絶妙なやさしさが、今の私にはありがたかった。



昼休み、社内ビルのカフェテリア。


窓際の席からは、

遠くに海が見える。


平日の昼下がりにしては空いていて、

ふたりで話すにはちょうどいい空気だった。



「最近、どうですか? 業務のほう」


「まだまだ慣れないことばかりですけど、やりがいはあります。

正社員として戻ってきて……本当によかったと思ってます」


「それ、聞けて安心しました」


水野さんは、目元だけで小さく笑った。


「……あのときの望月さんは、

『自分なんて』って、自分を一番信じてなかった。

でも今は、ちゃんと前を向いてる」


「……そんなふうに、見えますか?」


「ええ。すごく」


その言葉が、どこかくすぐったくて、

私は思わず笑ってしまった。


(あれ……私、今、笑ってる)


仕事中には忘れていた感覚。


どこかほっとして、

少しだけ心がほどけたような時間。


けれど──その笑顔を、

誰かに見られていることを、私は知らなかった。





【葉山律 side】



昼休みの終わり、俺はエレベーターホールを抜け、

何気なくカフェテリアの前を通りかかった。


いつもなら気にも留めないはずのその光景に、

ふと、足が止まった。




ガラスの向こう、陽菜が笑っていた。


水野と、向かい合って座って。


真剣に何かを話して、

そのあと、ふっと口元を綻ばせて──


その笑顔が、自分には向けられたことのないもののように思えた。




(……なんで、今、こんな気持ちになるんだ)


社長という立場なら、

私情を挟むべきじゃない。


わかってる。

でも、それでも。



(君のそんな顔を、誰かに見せないでほしかった)


それが、最初に浮かんだ本音だった。



自分には、もう笑いかけてくれないのに。


自分の前では、どこか気を遣った目をするのに。


どうして、水野にはあんな顔を見せるんだ。



心がざわついて、呼吸のリズムまで狂いそうになる。


俺は、何も言わずに踵を返し、そのまま足早に廊下を歩き出した。


けれど、心の奥で鳴っていた音だけは、止まらなかった。


それが嫉妬だと気づいたとき、自分自身がいちばん驚いていた。

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