週明けの朝、社内は騒然としていた。
Velvetの障害は、週末を越えてもなお続いていて、
全国からの問い合わせ数はうなぎのぼり。
「このままじゃ、ユーザー離脱が加速します」
「一次対応のマニュアル、もう一段階アップデートを」
「カスタマーから返答が冷たすぎるってフィードバックが続いてます!」
早口で飛び交う言葉たち。
その隙間に、自分の呼吸の音が紛れ込んでいく。
(……戻ってきたんだ)
再スタートして、もう一週間が経つ。
でも、まだ居場所と呼べるほどにはなっていない。
けれど、それでも──
「ここにいたい」と思う気持ちは、本物だった。
社長の姿を見かけることはあっても、
彼と直接話す機会は、あれ以来なかった。
例のカフェで、水野さんと向き合っていたあの日。
社長が無言で背を向けていったあの瞬間が、
今も胸に引っかかっている。
(きっと、誤解されたままなんだ)
何もやましいことはしていない。
けれど、たぶん彼は傷ついた。
──私が、誰かに手を取られている姿を、
目の前で見せてしまったから。
(話せるなら、ちゃんと伝えたいのに)
何も隠したくない。
今はもう、逃げたくなんてない。
それでも、彼は私を避けているように見えた。
エレベーターで鉢合わせても、目が合う前に振り返られる。
廊下ですれ違っても、別の話題を口にする誰かの影に消える。
優しいけど、触れさせてはくれない。
そんな壁のようなものが、目に見えないところに立っている気がした。
「望月さん、これお願いします」
上司から回された報告資料の作成。
内容を確認して、指先を動かす。
その中に、Velvetのログ関連資料があった。
日別ログ数の推移、障害発生と時間帯の相関性──
そして、そのグラフの一部が、妙に波打っていた。
「……この日って……」
私が社長と会わなくなった、あの日。
ログの言語感情値が、がくんと下がっていた。
あの人の想いを元に作られたAIが、まるで、
誰かの「心の揺れ」に呼応しているように。
(Velvetは、社長の心を映してる)
あの日から──社長は、どこか変わった。
口数が減って、
言葉の奥にある温度も、少しずつ変わってしまった気がする。
「社長のこと、ずっと見てるのに」
どうして、近づこうとすると、遠ざかっていくんだろう。
どうして、あの人のまなざしが、私を避けるんだろう。
胸がぎゅっと苦しくなる。
──でも。
「私は、支えるって決めたんだから」
再びこの場所に戻ってきた意味は、
きっと彼の隣に立つためだった。
派遣のときとは違う。
今の私は、ここで働く理由も、想いも、全部持っている。
だから、逃げない。
たとえすれ違っても、
この想いまで、見失わないように。
*
「望月さん、今日の昼、少しだけいいですか?」
水野さんにそう声をかけられたのは、
午前中の業務がひと段落したタイミングだった。
「はい、大丈夫です」
自然と答えていた。
あの日の告白以来も水野さんは変わらず、
私に対して一定の距離を保ちながら接してくれていた。
その絶妙なやさしさが、今の私にはありがたかった。
昼休み、社内ビルのカフェテリア。
窓際の席からは、
遠くに海が見える。
平日の昼下がりにしては空いていて、
ふたりで話すにはちょうどいい空気だった。
「最近、どうですか? 業務のほう」
「まだまだ慣れないことばかりですけど、やりがいはあります。
正社員として戻ってきて……本当によかったと思ってます」
「それ、聞けて安心しました」
水野さんは、目元だけで小さく笑った。
「……あのときの望月さんは、
『自分なんて』って、自分を一番信じてなかった。
でも今は、ちゃんと前を向いてる」
「……そんなふうに、見えますか?」
「ええ。すごく」
その言葉が、どこかくすぐったくて、
私は思わず笑ってしまった。
(あれ……私、今、笑ってる)
仕事中には忘れていた感覚。
どこかほっとして、
少しだけ心がほどけたような時間。
けれど──その笑顔を、
誰かに見られていることを、私は知らなかった。
*
【葉山律 side】
昼休みの終わり、俺はエレベーターホールを抜け、
何気なくカフェテリアの前を通りかかった。
いつもなら気にも留めないはずのその光景に、
ふと、足が止まった。
ガラスの向こう、陽菜が笑っていた。
水野と、向かい合って座って。
真剣に何かを話して、
そのあと、ふっと口元を綻ばせて──
その笑顔が、自分には向けられたことのないもののように思えた。
(……なんで、今、こんな気持ちになるんだ)
社長という立場なら、
私情を挟むべきじゃない。
わかってる。
でも、それでも。
(君のそんな顔を、誰かに見せないでほしかった)
それが、最初に浮かんだ本音だった。
自分には、もう笑いかけてくれないのに。
自分の前では、どこか気を遣った目をするのに。
どうして、水野にはあんな顔を見せるんだ。
心がざわついて、呼吸のリズムまで狂いそうになる。
俺は、何も言わずに踵を返し、そのまま足早に廊下を歩き出した。
けれど、心の奥で鳴っていた音だけは、止まらなかった。
それが嫉妬だと気づいたとき、自分自身がいちばん驚いていた。